そもそも土台が見えてません。

最近、空とか山とか花とか、あるいは自分の手を見て、
「あれ、これなんだ?」と思う。
「そうか、こんな形だったか」と。
相当な暇人の思うようなことではあるが(笑)

当たり前だと思って全く顧みてこなかったが
「そもそも当たり前って何だっけ?」と不思議な気分になる。

世間ではよく
「手足があること、目が見えること、耳が聞こえることを
 当たり前と思わないで、感謝して生きよう」ということを言う。

僕はひねくれ者だから、
基本的にこういう善人臭のする言葉には
生理的と言いたくなるくらいの拒絶反応を起こす。

それがない人と比べて「自分が恵まれている『から』」感謝しよう
と言っているような気がしたり、
自分の手足としてきちんと働き、この自分に不満足ではなく
満足、快を与えてくれる。『だから』いいヤツだ」と
言っているような気がしてくるから。

「幸せは何気ない日常の中にある」と言うにしても、
「ああ自分は幸せだ、良かった」と安心したいだけじゃないかと思う。

「感謝すれば幸せがやってくる」と言うにしても、
「幸せがやってくる」ための手段として
感謝している節が強いのではないかと思う。
それならエサが欲しくて芸を覚える動物と同じだ。

いくらひねくれ者とは言っても、
別にこれらのフレーズそのものが悪いとまでは言わない。
ただ、それを言うその口にやましいところはないか、と思う。

標語は教室の黒板の上など、いつも目につくところに掛けておけば
いいのであって、
皆で口を揃えてそれを何度も唱えているとなると、
そこに狂気じみたものが混ざってきはしないか。

幸せと満足とは別物だと思う。
多くの人は“幸せであることに満足する”と考える。
でも僕は“満足することを幸せとする”のが本当だと思う。

おだてられたり何かいいことがあって
「予は満足じゃ」と踏ん反りかえって過ごすだけなら
むなしい人生だと思う。
主体性がない。
積極的に欲しいものを得ようと奮闘したとしても、
それは結局「欲しいと思う衝動」に振り回されただけだから
やっぱり主体性はない。

幸せとは主体的であるところにしかないと思う。
従属的なものはすべて快楽にすぎない。

与えられたものに『自分が満足を得たので』感謝する、
では駄目だと思う。
そもそも僕にはその『自分』が何かわからないし、
そのわからない自分に何か良いことがあったりしても
それでもって「幸せだ」とはどうしても言えない。

“自己に手足があることを当たり前と思わない”と言うが、
でもその人は『自己』のことは当たり前としている。
「ああ、幸せだなぁ」と感じるその自己については無頓着でいる。
皿に盛られた料理には満足しても
それを食べる主体としての自己の“生き甲斐”には無頓着でいる。

自身の成長を喜ぶ風潮があるが、
その成長する自分が何なのかがわからないなら
結局むなしい喜びだと思う。

その考え方を極端に推し進めてみると、
そもそも生まれないのが一番の幸せということになる
のではないかと思う。
危なっかしい発想だが、
多くの人の価値観の根底にはそれだけ危なっかしいものが
あるのだと思う。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/05/15 20:22

遠心分離の自分

久々の更新。

欲しいものを取り込み、
欲しくないものを吐き出す。
求心と遠心。
我というものはそうして出来上がっている。

足りないという意識が
「あれさえあれば満足できるのに」という意識を生み、
余計なものがあるという意識が
「これさえなくなれば満足できるのに」という意識を生む。

そうして絶えず我は動き続け、その命を存続しようとしている。
止まると死んでしまうから。
“いまここ”というのは自我の死を意味する。
動く必要がなくなってしまえば自我は生きていけない。
“何かに駆り立てられる”ことによって自己の保証を得る。

我は、足りないものを補おうとする拡大の動きと
余分なものを排出しようとする縮小の動きを同時に行っている。
その運動が観念上の線となり、自と他の境界ができる。

遠心分離機のように、“不純物”が外へ出され、
“純粋な自分”“本来の自分”“あるべき自分”“なるべき自分”
の要素だけが中に残る。
そういう幻想を抱いて回転しているのが我ではないか。
別に回転でなくて磁力でもいいが。

最近、“引き受ける”ということについて考える。
自を自のままに、他を他のままに引き受ける、
つまり、求心と遠心の運動を止めると、
なぜか自も他もなくなるような気がする。
なぜかそんな感覚がある。

まあ、回転運動こそが線を作り出しているのだから、
回転を止めれば境界がなくなる、
と一応理屈っぽいことは多少言えなくもないが、
実感が先行しているのでそっちを優先したい。

以前は“自他未分割”とかいう認識上の世界を空想していたが、
そんなものは、ない。
自だけを受け入れることもできず、
他だけを受け入れることもできない。
自と他と両方受け入れることが
“世界”を受け入れることでもあり、
“この自分”、“いつか死すべき自分”を
引き受けるということではないかな、と思う。

僕の頭の中は絶えず
「どういう風に工夫していけば満足できるだろう」
「これは邪魔だな。これをなくさなければ満足できないぞ」
という声で騒がしい。
大きく分けるとこの二つしかない。
求心と遠心。これで常に延命を図っている。
“満足できる地点”とは一体どこにあるのか。
ご苦労なことだ。

ある人が
無限は自分自身を認識するために有限を創り出している、
というようなことを言っていたが
あながち突飛なことでもないのかもしれない。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/04/18 20:09

「はい、これが自分です」

とても受け入れられないもの。
本質的に受け入れられないもの。
生死。

阿弥陀さんというのはこの生死(に代表されるもの)を
受け入れさせてくださる方なのではないかと、最近思う。

極楽なんて別に往きたいと思わない。
そもそもどんなところなのかもわからない。
というかあるとは思っていない。
多分、それはある、と言えば仏教ではなくなる。
そんな夢を描くのが迷いなのだから。

往きたいとは思わないしどんなところかもわからない。
それはまさに「生死」。

どんなところかわかったうえで、よし、ここに決めました、
というのではない。
そもそも生死は選べないのだから。

その選べないものを選べないままに受け入れさせてくださる
ことが救いなのでは。

意味を求めれば際限がない。
欲は尽きない。
不足が補われない限り救いがないのだとしたら、
人間に救いはないといわざるを得ない。
だから不足を宿命付けられている存在としての自分を
「はい、これが自分です」と言えることが救いなのではないか。

極楽なんて願えない。
でも「はい、極楽へ往きます」と宣言することは、
「はい、私は生きて、そして死んでいきます」という宣言と同じではないか。
その宣言こそが「南無阿弥陀仏」ではないか。

強靭な精神力による、肩の力が入った宣言ではなく、
安堵による、肩の力のまったく抜けた宣言ではないか。

柔能く剛を制すというように、
もっとも強いのは何者をも屈服させる力ではなく、
何者にも屈服できる力だ。
「はい、死ねます。生きれます」と本心から言える人を
脅かせるものなど何もない。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/04/05 20:40

「あきらめられない」が人間の本音

自己。
自己が間違いを持っているのではなくて、自己そのものが間違い。
不完全。
自己と考えるから他者ができる。
他者ができるから不完全になる。

不完全が嫌だと常に求め続ける。
常に生き延びようと必死。
完全になろうとするのは生き延びたいから。
もう大丈夫というところへ行こうと必死。

この自己を捨てようとするのも生き延びるため。
悟りという不思議な力を手に入れれば生き延びられると思っているから。
悟りまでも所有物にしようと。必死。

でもどんなに自己を高めても、
自己でないものが常にあるのだから、結局満足はできない。
常に餓えている。

衆生を離れて仏はない。
衆生とはまた別にどこかに仏がいるわけではない。

この世界は自己の間違いで成り立っている。
間違いでないものはない。
その間違いの真っ只中に間違いでないものが。あるのだろうか。

なんでいつまでもわからないんだろう、とか、
すぐに調子に乗ってもう嫌だ、とか、
煩悩ばっかりで汚い、とか、
そう感じる心は汚くない。のか。

「もうあと一歩なんだ」と。
もうあと一歩でどこかへいかなければならないのか。
「自己を殺す以外にない」と。
自己を殺してあとに何が残る。
結局生き永らえたいから自己を殺そうとしているのだ。
自己に自己を殺すことはできない。
仏による以外に自己をあきらめることはできない。

「もう嫌だ」という言葉は阿弥陀様の「おいで」という呼びかけに他ならない。
「助けてください」を離れて阿弥陀という人か仏かエネルギー体が
どこかにいるわけではない。

無義を義とする。
「人生に意味はない」と手放す。
意味を与えてくれるものを必死で探してるけど、
意味はないのだと引導を渡してくださるのが仏。
そうすることによって初めて、生きて死ぬことができる。

「救いとは何か」と聞かれて
「救いとは何だっけ」と考えるところに救いはない。
相対の世界に救いはない。
心に浮かんでくるものを自己と思い込むからだ。
現れては消え、現れては消え、そんなものは本当の自己ではない。
そんなものは鏡に映った虚像にすぎない。
何が映ったからと言って鏡が汚くなったり大きくなったりすることはない。

でも映る虚像を離れて鏡はない。
何も映さない鏡などない。
像のその中に鏡がある。

煩悩を離れて仏はない。
この煩悩の世界の真っ只中において、
どこかにそうではない世界があるのを夢に描くのではなく、
煩悩の中にいて、これでいいと思うことができるのが本当の救い。

なぜ理想郷を求めるのか。
「僕」と思った時点でその僕には何の根拠もないから。
だから安住の地を求める。
馬の鼻先に人参を吊るすようなもので、常に不安を抱えて走り回っている。

「こんな自己という幻想に振り回されるのは嫌だ」
というその心は用意した心なのか。
「すべて幻だ。空しい」
というその心は幻か。
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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/03/31 16:39

今さらこの身が惜しいものか

“いまここ”

また問題を抱えること、
考えることで自分を保っていた。
しがみついていた。

“努力すること”
“ステップアップすること”
“成長すること”
“着実に歩むこと”
“誠実に生きること”
“問題意識を持つこと”
“探究すること”
“自覚的であること”
“自己を律すること”

こんなものは手放してしまえ。
自分が自分でなくなる、
それくらいのところを通らなくては意味がない。

“自己だけは譲ってはならない”
これには表の意味と裏の意味がある。
世間では表の意味しか言わない。
言わなくていい。

“絶対に譲ってはならない最後のもの”
それを譲るからこそ意味がある。
「譲る」だけではない。
「譲ってはならないものを譲ってしまう」ことに意味がある。
だから世間では表の意味だけを言えばいい。
それを越えるかどうかは個人の問題。
僕はそれを越える。

今さらこの身が惜しいものか。
もうあと一分一秒も生きていたくない。

“僕は越えるんだ”
“はて今日は何月何日だったかな”
“ここは自宅か”
“はあこういうタイミングか”

“越える”というそのことをも自己の所有物としようとしている。
自分にとっての記念日にしようとして
縁起物を探すこの心。
“劇的なもの”“運命的なもの”“必然”
結局お前もそういうものが欲しかったのか。

あと一分も延命したくないと言いながら、
“越える”にあたって今日このタイミングでいいかな、
などと考える愚かなこの心。
「『小石が竹に当たった音を聞いて悟る』
 とかならちょっと格好もつくが、
 『くしゃみした拍子に』とかは嫌だな。
 『自分のいびきを聞いて』なら『逆に』趣もあるかな・・・。」
などと。

結局損得勘定だ。
“欲しいものよ来い。欲しくないものは来るな”

“いまここ”というのは単なる慰めの生易しい言葉ではない。
本当の意味で“いまここ”に徹するというのは、
何も求めない。何も選ばない。ということだ。
単なる肩の荷を降ろさせるための呪文ではなく、
“己”を殺す意志の炎だ。

好きなタイミングがくるのを待っているうちは一生そのままだ。
例え、髪を紫に染め上げたおばあさんが目の前を歩いていようと、
いつも見慣れたくだらないCMを見たことをきっかけに悟ろうと、
すべてを受け入れて徹するのが本当の意味での“いまここ”だ。
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いま・ここ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/03/25 14:29

吸うのと吐くのと

生と死。
吸う息と吐く息。
物質と精神。
同じ。

吸うだけが息じゃない。
吐くのも含めて息。
息を吸えば身体が少し膨らみ、
吐けば少し縮む。

常に動いているもの。
そのどの瞬間を切り取って「身体」と言っても間違いになる。

どうも僕は
息を吸い、それを保ったものを「自分」とする癖がある。
どうせ「自分」とするなら、
息を吐ききった身体を「自分」とする方がまだマシだ。
空っぽだから。

常に膨らみ縮みして動いているものを無理やり固定し、
「自分」とするからひずみができる。
「力み」とはそれのこと。
「執着」とはそれのこと。

吸い、吐き、の繰り返し。
生まれ、死に、の繰り返し。
存在、非存在、の繰り返し。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/03/20 20:48

「自分」が欲しい

すべての問題は「生死出ずべきこと」に尽きる。
生まれた意味をわかりたいし、
自分のタイミングで死にたいし、
要は思い通りにしたい。

「思い」、これがくせもの。

思う通りにしようと努力するし、
ならなければ腹を立てたり、悲しんだりする。

思いのゆえに苦しむ。
この世界は思いによって成り立っているわけではないのに。

なぜか生まれ、なぜか死ぬ。
その一連の過程の中に「自分」がない。
だから「自分」を得ようとする。
それが所有欲の根本。

「生まれて死んでいく」というこの存在を
「自分のもの」にする。
「生まれて死んでいく」という現象の中には
「自分」がない。
存在の根本には欠損感がある。

「自分のもの」にしたいし「自分の思う通り」にしたい。
そうすることで「自分」を得ようとしている。

だから「まだ足りない、もっともっと」という思いが出てくる。
これが、むさぼり(貪)。
また、自分の思い通りにならないものに対しては腹を立てる。
これが、いかり(瞋)。

仏教では根本的な煩悩のことを「三毒」という。
三毒とは「貪・瞋・痴」のことで、
これを根源的なものとした先人の洞察力はさすが。

単に倫理的に汚いから止めようというようなものではない。
苦しみの根源をたどって行くと、「思い」に行き着くということ。

「自分」の持ち物の中に「思い」という余計なものがあるから、
それを無くそうということではない。
それだと無感動・無意思の人間が出来上がる。
そうではなく、
「自分」というものそのものがすでに「思い」によって
出来上がったもので、その観念のせいで色々不具合が出る、
ということではないか。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/03/18 16:11

地が底となり天が空となる

頭とか胸とか中途半端な位置で立つから疲れる。
足の裏で立つ。
もっと言えば大地で立つ。
自分の力で立っていると思うから疲れる。

天の属性だけではこの身体は一瞬で塵となって霧散する。
地があるからこそこうして存在として立つことができる。

人間はどうして天にばかり憧れて飛ぼうとするのか。
身体がある以上飛べないのに。

地があるから安心して天に還っていける。
身体を空にするには地に立たなければできない。
地に根拠があるから、天の法に従うことが可能となる。
地の根拠でも天の法でもなく勝手にこしらえたまがいものが
「自分」という我。

地が底となり、天が空となる。
それとは別に「自分」なんてものは存在しない。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/03/17 15:52
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