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どうでも

*あらかじめ断っておきますが、ちょっとした危険思想なので、
真に受けたい人以外はあまり真に受けないで下さい。


最近ずっと頭の中にあったテーマ、『正直』『一元化』。
生活していて感じる、何かが違うという感覚。
「嘘だ」という感覚。「二重になっている」という感覚。
正直でない。
いつもどこかで何かしらの嘘をついて生きている。
湧き上がる正直でありたいとの欲求。

しかしそれが人間業でないのはわかっていた。
言葉というものを使ってものを考える以上、人間には無理だった。
言葉というものそのものが嘘だから。
その無理なことをどうやってやるか、それがずっとテーマになっていた。
いつも「ずれている」。それがずれる前のところに行きたかった。
嘘になる前のところに行きたかった。
それが『正直』という問題。

もうひとつ、『一元化』の問題。
「何のために生きるのか」と言われたところで、「これのため」と答えれば、
自然と「あれ」の可能性も出てくる。
どれだけ強い信念を持っていようと、「自分がそう決めたのだから」という強がりは、脆い。
最終的には「これ」の問題ではなく、「自分」の問題になってくる。
「お前は自分として立てるのか」という問いかけ。
そして残念ながら「自分」という存在はこの問いに究極的に答えることはできない。
その無念。

思うに、「自分」と「人生」と二つに分かれてしまうから
「覚悟」なり「信念」なりが必要となり、息苦しくなってくるのだ。
どんどん「自分」に責任がのしかかってくるが、それに応えられない「自分」の脆さ。
いや、「思うに」というより、体の要求として、もうそれが嫌でたまらなくなった。僕は。
胸の辺りがムズムズする感じ。何かがつかえている感じ。
「ずれている」「嘘だ」という感じ。
それは、体から発せられた『一元化』の要求だった。
「自分」も「生きなければならない人生」も一つにする。
一つにするというか、一つの「収まる」。
自然なあり方として、一つの帰るべきところに流れていく。
「自己」も「人生」も生まれる前の一番自然なところに流れていく。
体のレベルでそこに向かっている。それが『一元化の要求』。

この辺までがブログには書いていないが最近考えていたこと。
で、ここからが今日思ったこと。

・何をしたところでしょうがない。その感覚。
何をしてもむなしい。それは間違いではなかったのか。
その感覚に導かれていたのだ。
呼び声。しかしそれをはねのけていた。
「世界を捨てる」「自分を捨てる」。わかってきた。
そうせねばならないことがわかってきた。

心の深いところの要求として、何もしたくなかった。
でも、意識はいつも浅いところにあるから、何かしたかった。
世界は捨ててはいけなかった。自分も捨てたくなかった。
だから必死に捨てないように、守ろう守ろうとしてきた。

どれだけ手を伸ばしても、掴みとろうと振り回しても、
どこにも手ごたえがないのはわかっていた。
だからこそ何もできなくなっていた。
それでも、この手がやがて何かに触れるのを願っていた。何らかの形で願っていた。
願いはとうに捨てていたが、怨念がまだしがみついていた。
いつもいつも悪い方に誘導し、誘惑し、この「なんか違う世界」を「よし」とさせてきた。

それは「何もない」と「ある」との戦いだった。
戦局は圧倒的に「ない」に傾いていた。
そしてとうとう「ある」は今降参寸前にまで追い込まれた。
それでわかったことがある。
「ない」が勝つ運命なのだ。

ふり返って思うに、僕は世界を背負っていた。
しかし、いくぶんかでもそれを降ろしてみると、
よくいう「捨てる」ということがわかった気がする。
よくある「滅し終わる」とか「放ち去る」とか、そういう表現を使いたくなる訳がわかった。


・すべて諦めてみようか。
すべて他人。すべてどうでもいいこと。
自分でさえもどうでもいい。
この体の感覚も、感情も、考えることも、すべて他人。すべてよそ者。
ずっと感じていた。自分の自分でなさ。
体にまとわりつくこの世界も、こうして流れる時間も、すべて他人。
この世界は幻。
どうでもいいことしか起こっていないのだ。

こういう気持ちになってみて初めてわかった。
僕は世界の世話を焼こうとしていた。
しかし、それが逆にこちら側の甘えだった。

自分なんか他人だし、他人なんか、つまり世界なんか、どうでもいい。
感情的に繋がろう繋がろうとしていた。それが善いことだと思っていた。
でも、いざどうでもよくなってみると、以前より情は深くて理は太くなった気がする。

僕はこの「どうでもいい」を徹底しなければならない。
それだけはわかった。
もう体がそれしか許してくれない。
それなのに意識はそれに反するから、引き裂かれた体が痛々しい叫び声を上げる。
坐禅でも念仏でも何でも、とにかく何か見つけてやらねばならないかもしれない。
僕自身のあらゆる努力は「どうでもよくない世界」を守ろうとすることに費やされてしまう。
だから僕による方法でないものに拠らなければならない。
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ふっきれ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/01 20:52

気持ち

死にたいという気持ち。
それは他の人にも自分自身にもみせないできた。
でも自分に嘘をついてどうする。
もういいじゃないか。
僕は死にたい。
それが本音だろう。
それを心の底に留めておかないで外に出したかったんだろう。ずっと。
もういいじゃないか。
出したらいい。
死んだらいい。
自分に嘘をつくことはない。
もういい。
僕は僕でいい。
ちゃんと胸を開いて呼吸しよう。
ふっきれ | コメント(0) | トラックバック(2) | 2012/10/31 20:11

そのままこの身に返ってきた

『なぜ生きているのか』
そんな問いをずっと抱えてきた。

“この世界に意味なんてあるのか。
 ない。
 生きるべき方向もない。
 正しいことなんてない。
 そんな真っ暗な闇の中でどうやって生きていく。
 地面がないなら、どうやって一歩を踏み出す。
 一体どうしたらいいんだ・・・”、と。

その問いがそっくりそのまま返ってきた。

“どう生きればいいかわからない。”
“いや、わからなくていいんだ。”

それはわかるものではないんだ、という安心。
地上から天に向かって「どうしたらいいのか」と訴えてきたが、
その天が「いやわからなくていい」と答えてくれた。

こちらから天に向かって願いを飛ばしても拡散するだけ。
天の方から降りてきた。

「生きる意味がない!」と飛ばした泣き言が、
そのままこの身に返ってきた。
やっぱりそれが答えだった。
そんな気がする。

答えはとっくに出ていたのに、
それを認めたくないのが人間というもの。
認めようとどれだけ力んでも精神論。
相変わらず不安。
徒労に終わる。
ふっきれ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/02/26 16:32

本物があってこそ

「調子に乗る」
「浮かれる」
というのもたいしたことではないのかもしれない。

潔癖になって監視していたが
調子に乗った自分も、それを抑えた姿としての自分も
どちらもたいしたものではないのかもしれない。

どちらもニセモノ。
「ニセモノ」と言って意味があるのは
ニセモノでないものを掴んでいるとき。

本物を掴んでもいないのにただの否定として
「ニセモノ」と言ってもしょうがない。
それはただの抑圧になるだけ。

なぜニセモノと言えるのか。
本物があれば「ニセモノ」と言うことができる。

ニセモノを徹底的に監視していたのは方法論としては
間違ってはいなかった。
ただ、あり方としては単なる迷いに過ぎなかった。
掴めばどちらも大したものではないとわかる。
ふっきれ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/02/10 21:28

延命的人生観のすすめ

(タイトルは完全に冗談でつけたので
 本当は人にすすめるようなものではない)

延命していると思おう。
本当はいつ死んでもいいんだ。
それをまた今日一日延命している。
生きている。

僕はいつ来るかわからない「死」という点に囚われすぎていた。
「先」にあるその点に「今」ががんじがらめにされていて
いつも冷や汗をかきながら生きていた。

そもそもの僕の人生観が否定的過ぎた。
生きるとはひたすら耐えること。
死ぬまでは我慢して生きること。
どんな罰も甘んじて受け、耐え続けること。
そんな償いの人生が僕の人生。
特に悪いことをした記憶もないが
生まれたときから償わなければならないのが決まっていた(ような感覚がある)。

別に誰かにそういう生き方をしろといわれたわけでもないし、
周りに同じような人生観の人がいたわけでもない。
なぜか小さい頃から僕はそういう生き方をしていた。
生きなければならない、というのが重荷になっていた。

だから生きなくてもいいんだと思うと肩の荷をおろせる。
別にいつ死んでもいいんだ。
生殺与奪の権利は僕が握っている。
生かされて生きるのではない。
自分で生きるんだ。

本当はいつ死んでもいいところを、
今日一日無理を言って生きているんだ。
本当はもう終わっているところを今日一日引き延ばしているんだ。
引き延ばしてもらっているんじゃない。
自分で引き延ばしているんだ。
いつもそう思って生きよう。

きっとこういうことを言っていると反論したくなる人がいると思う。
特に「いつ死んでも…」とか「生かされて…」のところとか。
僕なりにその人の反論はもっともだと思うし
僕はそれに対して特別反論は持たない。むしろ賛成する。

でも今の僕の状態では、上に書いたようなこと「こそが」
真実なのだから見逃して欲しい。
少し表現が過激になっているのは
こうでもしないと自分の殻を破れないと思うからで
どうか勘弁してほしい。


死に引っ張られすぎだ。
人生を死から取り戻さないと。
受身になっていた。
死に好きなようにいたぶられ続けながらもいつも半笑いでごまかしていた。
死んだような目をして。

いつまでもあちらの好きにはさせていられない。
常に首に小刀を突き立てているイメージで生きよう。
うっかり手を滑らせればこちらもあちらも終わってしまう。
そういう脅しで。
主導権はこちらが握っている。
それをわからせるために。
ふっきれ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/08/07 16:48

僕は僕でいいさ

どうして僕は文句ばかり言うのだろう。
結局僕がこのブログで書いてるのは文句だ。

日記で書く分にはもう少しマシだ。

そこに現れるのは弱くて情けない自分。
そのあまりの惨めさに、
のた打ち回り悶え苦しむ姿のあまりの醜さに、
こんな姿は世間様には見せられないと
本心にフィルターをかける。
変形して出力する。

その結果出てくるのが例の文句ばかり言っている僕。
他人を批判することでしか自分でいられない哀れな人間。

僕は僕でいいさ。
好きに苦しんだらいい。
苦しむしかないのだからそうしていれば良い。
でも他人にいらぬお節介をするな。
彼らはそれなりに世界を満喫している。
そこにお前の私情を持ち込むな。

地獄の形相をした人間に「このままでは地獄を見るぞ」と言われても、
「いえ、あなたの顔さえ見なければ大丈夫です」と言われるだけだ。

人それぞれ分がある。
それを弁えていればこんな迷惑なこともせずに済む。

ふっきれ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/04 22:22

オープンマインドMPの底が尽きたようです

心を開くというのはなかなか難しいですね。

最近身体や気分が重くて困っていて、
自分なりになぜかなと考えたところ、
無理に心を開こうとしすぎなんじゃないかなと思い至りました。

いくら過去の日記の文章をほぼそのまま載せるだけといっても、
それは僕にとっては結構なオープンマインド力を必要とするもの
だったようです。

“ブログに書く”ということを意識して
かえって心の自由が制限されていたところがあったのかもしれません。

“誰にも見せない”というルールがあったからこそ書けた、
心の中から外に出ようとするものを単純に書き付けただけの
昔の日記のスタンスを思い出せたらなと思います。

それで更新のペースを少し遅らせようと思います。
さすがに毎日更新をするのはきついですね(笑)
といっても大半は予約投稿なんですが。


これからもこんなヘンテコなブログですが
よろしくお願い致します。

ちょっとすっきりしました。


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ふっきれ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/05/24 20:40

僕は面倒くさい人間

2009年3月13日

『僕はどこまで行っても面倒くさい人間なんだなあと
 つくづく思う。

 素直にとんとんと突き進んで行く人がいるのに、
 一歩進んでは立ち止まり戻りしている僕がいる。

 最近は覚悟が決まってきたのか、
 それでいいやと思えてきた。

 どこまで行っても僕は反体制だろう。』


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ふっきれ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/05/23 21:08
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