スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | --/--/-- --:--

おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし

正月に親戚にあった。
ある親戚が親子関係で上手くいっていないそうだ。
父(もうすぐ80になる)と息子(50代)との不仲ほど悲しいものはない。

互いに反目したくてし合っているわけではないんだ。
決して憎み合っているわけではないんだ。
強がってはいても。

お互いが思い合っているのにこんなことになってしまっているのだから
本当に人の世というのは難しいし、悲しい。

理由なんて、「世代が違うことによる価値観の違い」
と言ってしまえばそれまでなのに
それがこんなにこじれずにはいられないのだから
本当に親子関係というのは難しい。

一度真剣にぶつかることが互いの成長にとって必要なことなのだったとしても
その衝突で飛び散る火花を見て、
痛みをこらえるひきつった二人の顔を見て、
何とも思わないでいることができるだろうか。


『慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
 聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
 しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、
 きはめてありがたし。』

最近、『歎異抄』の中のこのフレーズが頭の中でいつも繰り返されている。
訳を書くのは遠慮させてもらうが。

どんなに悲しくても哀れでも、助けようとしても、
すべて思う通りに自由自在に助けてあげることなんて人間にはできない。
ましてや何が一番良いことなのかすらわからない。
(一応補足しておくが、無駄だから止めようという趣旨ではない)

心を痛めるというのはマイナスの作用だ。
「痛める」のだから。
でもそれは欠損じゃない。
慈悲心は欠損を補うために出てくるものではない。
僕らはすぐに欠損は補わなければならないと考えるが、
慈悲心は欠損の埋め合わせ作用なのではない。

悟りを開いても心を痛めるものだ。嘆くものだ。悲しむものだ。
そういう負の感情がなくなるのが悟りなのではない。
心が動かないのが悟りなのだとしたら、それのどこに楽しみがある。

仏というのは慈悲のかたまりなのだろう。
いるいないに関わらず。
それなら仏は嘆きのかたまりだ。

どうしようもない自分に落胆し失望し、
恥じて泣き入るそのすぐ横で
ともに涙を流して下さるのが仏様というものではないか。

上から評価するのではなく。罰するのではなく。
「この自分」と同じ涙を流して下さるのが仏様ではないか。

3つ前の記事で紹介した詩の中の
「泣こう」「祈ろう」という心がわかる気がする。

スポンサーサイト
自力 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/01/04 16:51

自分を律すること

自分で自分を律することはできない。
「しなければならない」と言うのも自分なら
「しなくてもいい理由」を見つけ出すのも自分だからだ。
「してはいけないこと」に関しても同じ。

自分の頭の中でグルグル回ることになる。
自閉的になる。

自分を律するには自分の中にもう一人誰かがいなくてはならない。
尊敬する人、「この人は」という人、もしくは神仏。あるいはもう一人の自分。
仰ぐような気持ちを持つことが一番いい。

仰ぐというのは自分を投げ出すこと。
さらけだすこと。
自分をコントロールしようとすることではない。

律するというとコントロールするというイメージが湧くが、
自分で自分をコントロールできる部分なんてたかがしれている。
人間というのはそんなに強いものじゃない。
してはいけない理由もしなければならない理由も簡単にでっちあげる。

世の中には精神論が溢れているが、
人間にとって気迫や気概というのは
それほどコントロールが可能なものではない。
もちろんそれを間接的に操作していくための技術もあって、
それは経験によって熟練していくだろうが、
それにしても精神論が多すぎるように思う。

ともかく、
心の中に自分ではない誰かがいると自分を律していける。
そういう人を持っている人は幸せだと思う。
自力 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/11/18 21:41

どうしようもなく思えて

2009年12月6日

『今までやってきたことは何だったのだろう。

 身体の力を抜いてみる。
 心の力を抜いてみる。

 幸福とは何なんだろう。
 力を抜いたこれが幸福なのか。

 僕はここ2年ほど、外界を完全にシャットアウトしていた。
 そうしようとしていた。
 それにはかなりの力が要った。

 もうどうしようもなく思えて、ふとそれをやめてみた。
 自力でどうにかしようとするのをやめてみた。
 そうすると、妙な安心感が出てきた。


[↓クリックして応援して下さるとありがたいです]
にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
にほんブログ村
自力 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/24 20:38

気を張る必要はないのかもしれない

2008年10月15日

『発作のようなものだろうか。
 ときどき無性に全てがおっくうになる。
 成長すること、知識を得ること、生きることそのものが
 とても面倒に思えてくる。

 この面倒とはどういうものなのだろう。
 何かの意図を持って生きようとするのが窮屈に思えてくる。
 あれをしようとかこれをしようとか、
 あれをしなければならないとか、あとはあれが残っているとか、
 そういうことを考えて生きていくのが面倒に思えてくる。

 そういう風に気を張って「頑張って生きる」のが面倒に思える。
 そういう感じだ。

 生きるのに頑張る必要はない。
 気を張る必要もない。
 生きなくていいんだ。
 自分の人生を生きようと思うと、どうも本質からそれてくる。

 生きなくても生きるんだから、あれこれ頑張っても無駄なこと。
 そんなことはないけど、たまにはそう思うのも必要。』


[↓クリックして応援して下さるとありがたいです]
にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
にほんブログ村
自力 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/27 20:59

本当に頑張る必要があるのだろうか

頑張っている。
もがいている。

以前書いたものを見ていてそれはわかる。
頑張っている。
頑張りすぎている。
独りで。

本当にそんなに頑張る必要があるのだろうか。
自分を捨てたくない。
だからもがいている。
自分をなんとか救おうと。
独りで。
閉じこもって。
結界を張って。

そんなにする必要があるのだろうか。
本当にこのままでは駄目なのだろうか。

               2009年12月1日


[↓クリックして応援して下さるとありがたいです]
にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
にほんブログ村
自力 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/18 21:12
 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。