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あげる

久しぶりの更新だというのに、一度書いたらさらに書きたくなることが出てきて
ちょっと面白い。

今までの僕は自分がどう見られるのかを大きく気にしてたんだなぁ。
言葉というものは自分を装飾する飾りのようなもの。
話の内容やそこから伝わる僕の人生観、思想みたいなものもそう。
全部僕を表す。
だから気を遣っていた。

自分を大きく見せたい気持ちもあるけど、それよりももっと気になっていたのは
僕を誤解しないでほしいということ。
わかってほしい。

自分って大事だもんね。
その自分って関係性の中でしか実感できない。
人に認めてもらうことでしか実感できない。
人がいてくれないことには。

ずっと、僕を見て!僕を見て!って言ってた気がする。
恥ずかしい。

おかしな文章書くと恥ずかしいなって気にしてたけど、
おかしな文章でも人に伝わることもある。
きちんとした文章でないと伝わらないと思ってたのは、
本当には相手に伝える気がなかったから。
ただ見せたかっただけ。

人に教えてあげたり助けてあげたりするには、それなりのものを持たないといけないと思ってた。
資格が必要なのだと。
あげられるだけのものを手に入れていないなら、あげようとすべきではないと。
でも、僕が持っているだけのものは与えられる。
その値打ちは知らない。
僕が持っている以上でも以下でもない。
持っているだけのものはあげられる。(だから人からももらえる。)

二十歳の頃の僕は、もっと自信家だったよ。
明確に、こういう人にこれを伝えたいっていうのがあった。
でもいつからか自信をなくし、というか自分というものそのものが揺らぎ、
誰にも何も伝えられなくなった。
それでも日々思うことはあるからブログとかにこっそり書いたりしてた。
ひとりごとっていう形で。
日記をネット上に書いておきますから、よければ見て下さい。
で、密かに誰かのためになれればいいなという狙いもあったり。
とりあえずばら撒いておきますからあとはもうおまかせします、という。

そろそろ変えどきなのかな。こういうスタイル。
だってもう自分を見せる必要はないって思い始めてるもん。
自分の言いたいことを自分のために言うのではなく、
誰かに伝えたいことをその人のために言いたい。
言葉が稚拙だろうが内容が未熟だろうがそこはもう気にしないよ。
相手が喜んでくれたら嬉しいし、そうでなくてもあまりがっかりはしたくない。
こう言うとまるで善人の言葉のようだけど、
言ってること自体はごくごく当たり前のこと。

本当のことを言うと、あげようとしなくてもいつもあげてるんだと思う。
でも意図をもってあげようとしたら、もっと素敵だと思う。
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他者 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/24 23:06

血の信頼

3年前のちょうど今頃の日記を見てみた。
書いていることは今と大して変わらず
死にたい死にたいもう疲れたもうやめようもううんざり
どうせ今後楽しみが一つもないなら
もう今死んでしまった方がマシじゃないかとか
そんなことばっかり。

僕の中には
「人間関係は真に信頼し得るものではない」という観念が根強くある。
それは人間が自分が一番かわいいという思いを離れることができないからだ。
例えあるときはどれだけお互いに信頼し合えていても、
何かが起これば必ず自分を優先する。
自分が最も苦しいときにまず他人を助けたいと思えるわけがない。
相手にそれを求めるべきではない。
他ならない僕自身がそうなのだから。
だから他人に依存して生きるのはよくない。
頼るに耐えうる土台ではないからだ。

ただ、これは色々考えていく中でそういう結論に達したものと思っていたが
実は人間関係にトラウマがあったのかもしれない。
日記を見ていてそんな気がした。

家族関係。血の繋がりを持つ誰よりも身近な存在。
その存在でさえ信頼し得るものではないのだから。
僕の両親は目立った善人でもなければ悪人でもない。
ごくごく平凡な人間だ。
そんな人間でもいざとなると自分自身を優先する。
これは当たり前のことなのだ。
家族といえども別々の人格を持った存在なのだから。
僕だって例え子どもがいたとしても自分を優先するのは
目に見えている。
平常時なら子どもを優先するだろう。喜んで。
だがいざとなるとそうはならないのは
子どもを持っていないこの時点でもう既にわかりきっている。

誰もが自分の人生の主人公である。
他人にそれ以上を求めるのは甘えというものだ。
そうやって理性で割り切ろうとしていたのかもしれない。
感情の痛みを理性で上書きしていたのかもしれない。

その結果僕が求めたのは『天地の法』『唯一絶対のもの』『真理』だった。
確かなものでないととても怖くて全面的に依存できないと思った。
ただ、僕が思い描くそれらはあまりにも無機質で
およそ温もりというものを持っていなかった。

結局は、情を出してもう痛い目をみたくないし、こりごりだし
理にのみ走ったのだろう。
誰かに裏切られたわけではないが、
人間の性を目の当たりにし、自分の中にもそれが潜んでいることを認め
それで人間というものに嫌気がさしたのだろう。
他者 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/09 21:25

「未セーフ」というセーフ

他の人を批判する。
至らない人だなと思う。
僕の場合は、本など見ていて
「この人はわかっていないな」などとよく思う。

批判して切り捨てる。
特に第三者なら。

批判している間の「僕」は「問題ない僕」。
僕は常に「セーフ」であろうとする。
「セーフ」が基本。
だからセーフでないと感じてしまったときは、
努力する。今から解決する。と意気込む。
つまり「未セーフ」という形でセーフにしがみつく。
「セーフへの途上」と思うことで自分を許す。セーフを出す。

誰かが何か失敗するのを見る。
その瞬間「あの人は駄目だな」と決め付ける。切り捨てる。アウト。
でもこれが自分の場合、「これからなんとかする」と言い訳をし、
セーフとする。

他人の場合はそんなことは考慮しない。
その瞬間でアウトを出す。

他人も途上の人なのだ。
いや、人間皆。
でも、本当は途上の人なんていない。
それは自分で作った言い訳にすぎないから。
アウトはアウト。
この記事で言いたいのは“相手にも寛容に”だけではない。

僕はどうしても自分を「アウト」にできない。
他人なら簡単にできるのに。
この身びいきの根深さにはゾッとする。

僕が他の人を簡単にアウトにできるということは、
僕も簡単にアウトになるということ。
僕は至らない人間なんだ。
でも、その事実をそのまま受け入れられない。
「…でもこれから努力します」などとすぐ言い訳をする。
そうまでして存続させたい自我。

他の人も「途上の人」。
そう思うと少し見方が変わる。
その人の人生の中での「途上」なのではなくて、
人間皆何かの途上を生きている。何かの。

僕は以前、「自分の中に他の人を見る」と言ったが、
あれは間違い。
「他の人の中に自分を見る」。
僕らは個人の夢を越えて皆「途上の人」。
そこにおいて他者と通じ合える。
他者 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/17 21:48

完全に断ち切るからこそ

ちょっと矛盾しているように思えるが、
関係を完全に断つからこそ自由に他者に心を開くことができる
という事実があると思う。

ここでいう関係というのは役割のこと。

この人の前では自分はこういう自分であらねばならないとか、
この前いいことを言われたとか嫌なことを言われたとか、
そういう余計な考えを一切交えずに
今この瞬間の目の前の人と向き合う。

情も同じ。
完全に断ち切るからこそ
相手が真の『他者』となって自分の心の中に入ってくる。

過去の記憶に縛られて自身の自由を奪ったり
まだきていない未来を想定して身構えたりせずに
その場その場で目の前の人と向き合っていく。
それが本当の意味での一期一会じゃないかと思う。

そんな清々しい生き方ができたらどんなにいいかと思う。




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他者 | コメント(5) | トラックバック(0) | 2011/04/27 21:13

頼ること

2006年8月18日

『根本的に違っていたのかもしれない。
 今まで僕が考えてきたことは
 どうすれば一人で立派に生きていけるかということで、
 その態度のどこにも他人を頼る姿勢はなかった。
 むしろ他人に頼らないで生きていけるようになろうとしていた。

 でもこれは違うのかもしれない。
 僕の尊敬する人の多くは、自分と他人との関係を大事にすると言っている。
 僕もこれに賛成しているつもりだったが、実際は全然違った。

 僕はどうやったら一人でも生きていける強さを手に入れられるだろうかと
 そればかりを考えていた。

 自立にしても、自律にしても、美にしても、
 それらは一人で生きていけるだけの精神性を得るために欲していたところがある。

 でも違う。
 ここらで少し「自分」という意識を弱めなければならないのかもしれない。』


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他者 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/23 20:46

「自分」が終われば他者も見えてくる

2008年4月22日

『人生を自分一人で生きようとは思わない。
 他者と人生を分かち合いたい。

 多分、人間は成人すると、ある意味でそこで人生が終わるんだ。
 そこからは「世界にどう証を残していくか」になる。
 
 地位とか名誉とかじゃなくて、
 どう世界に貢献するか、
 つまりそれはただ生きていくということだろう。
 それはすごく難しいことだ。
 
 完成とか目標とかに向かうのはもう終わりで、
 あとはどう次の世代へ伝えていくか。
 「自分」が終われば他者も見えてくる。


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他者 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/01 21:05
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