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物語にも流行がありますよね

おお、久しぶりの更新。
最近はこのブログの存在を忘れてしまうくらいに書くことがなかったので放置気味だった。
今も別に書くこともないけど、しょうがないからアニメの話でも(笑)

この間ネットをさまよっていたら、「ワンピースのルフィは海賊だから悪い奴だ」
と言ってる人がいた。
多分、10代の子が書いたんだろうと思うけど、
なんか最近は本当に息苦しい社会になったんじゃないかなと考えさせられた。
多分、こういう考え方をしてる子どもはたくさんいるんじゃないかと思う。
そう遠くない僕が子どもの頃でも、
ドラゴンボールで悟空が山一つ消し飛ばして笑っていたとしても、
「人道的でない」なんてセリフを言う人はほとんどなかっただろう。
確かに山を消し飛ばすことは良いか悪いかで言うと悪いような気はするけど、
そもそもそれが良いことなのか悪いことなのかと問うこと自体がナンセンスなのだ。
問うことができる。ならば問わねば気が済まない。
これが現代の息苦しさの象徴じゃないかと思う。
そこに答えがあると思うと問わずにはいられない。
良いか悪いかの判断を下さなければならないという圧迫感。
あやふやなままでは居心地が悪いから。
そのなんというか、賢くなりすぎたからこそ陥った落とし穴。
「ルフィは海賊だから悪。だから見るに値しないアニメだ」という理屈。
悪だろうと何だろうと自分が面白いと思うかどうかで観るかどうかを決めればいいじゃないか。

個人的に「物語」というものの流行を分析してみると、
昔、時代劇などが流行ってた時代は勧善懲悪がウケた。
でも、近年は色んなものが相対化してきて完全完璧なヒーローというものが存在できなくなってきた。
作る側も観る側もそういうものに対して白けてきたから。
で、ダークな主人公が増えてきたんだと思う。デスノートとか。
善じゃない主人公。
そういう善の勢いが衰えるような流行がある中で、一方で善一辺倒な子ども達が増加。
「白か黒だけじゃないんだよ。マニュアル通りじゃ駄目なんだよ」という言葉が蔓延する社会で
生まれてくるのは皮肉にも頭がガチガチの子ども達。
そういう子どもが増えたから大人があのセリフを言いだしたんじゃないと思う。
そう言う大人の頭が既にガチガチだから子どももガチガチに矯正されてしまうんだと思う。

相当窮屈だと思う。
正直僕はかなり「よい子」になろうとしてた子どもだったから、人のことは言えない。
でも、今は「この子が」とかじゃなくて「社会全体が」ガチガチなのだと思う。
紙に「1+1=」と書いてあったら「2」と書くしかない。
問われたら答えるしかないし、その行為には何の間違いもない。むしろ「正義」すらある。
そこで、この紙の肌触りは気持ちいいなとか、このペンの色きれいだな何色だろうとか、
そういう反応を示すことのいかに難しいことか。
まさに「考えるな、感じろ」というやつ。

この問題の厄介なところは「正しさ」を追求した結果、ガチガチになるということ。
道を誤ってそうなるのではない。
自分の正しいと思う道を行くことが自分を地獄に導くことになる。
「正解」のみを選んでいるはずなのに。
「正しさ」の捨てられなさ。これが大きな問題。


(追記)
知らない人には何のことかわからないだろうけど、今やってる『サイコパス2』というアニメ。
かなりグロテスクなシーンがあるから決しておススメはしないけど、
『1』が面白かったからこそ『2』に対して思うことがある。
ちょっと主人公を正義っぽく演出しすぎじゃないか。
2のテーマは正義とは何かを問いかけるものだろうし、
そこは期待しているのだが、どうも見せ方が「これが正義です」「この主人公はすごいんです」
と言ってるような気がして、そこがちょっと気になる。
「すごい」と「魅力」が結びついてるのはすごくいい。
でもそこにプラスして「正しい」も結び付けてるような気がしなくもない。
僕としては主人公の女の子はキャラクターとしても声優さん的にもファンなので、
だからこそ期待しているのだが、ちょっとこういう感じは違うんじゃないかなとここ何話かで思ってしまった。
最初は、その「正義」を後半揺さぶってくるためにあえてこういう演出をしているのかなと思ってたけど、
最近「あえて」じゃないような気がしてきた。
でも、まぁまだ判断は下せないか。揺さぶってくるのは間違いないだろうし。
とにかく後半に期待。
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世の中 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/15 16:44

『思いにとらわれない』

最近、精神論が多すぎる。
合理精神が進んだ結果だろう。
神には頼れないから。
自力で何とかするしかない、と。

それが精神論であることには当たり前すぎて気が付いていない。
当然「自己責任」が強調されてくる。

神を信じられなくなったのも、
その結果皆が常に不安に怯えることになったのも、
別に退行ではない。順当。

ただ、その次に進まないと、過渡期は苦しい。
進むとしたら『思いにとらわれない』ということだろう。
それは、精神論の破棄。

『思いにとらわれない』ということは既に結構言われている。
“あるがまま”“「しなければならない」と考えるのをやめる”
“本当の感情に従う”などと言われている。
が、それは単なるふんばりで、テクニカルなことに過ぎず、
そしてそれこそが精神論。

“攻める”“ブレない”“あきらめない気持ち”
などの煽るような言葉もそう。

当然、“努力しないのが悪い”
“するもしないも本人次第”という発言も出てくる。
それがあまりにも当たり前だとされているのが寂しい。

『あるがままが大切』。それは間違いない。
ただ、それが本当に大切にされているのかどうか。

そういう機運が高まっているなら、早くその次へ進まないと。
“あるがまま”と力んでふんばらなければならないということ
そのものがある意味で時代の病のように見える。

合理精神を発展させるなら、もっと徹底させていかないと。
肝心な部分を精神論に任せることになる。
“努力”“勇気”“根気”
人間を客観的に見ていくのなら、
そろそろこれらの「聖域」も顧みられなくてはならない。


“あるがまま”という『思い』にとらわれている。

“思いにとらわれてはいけない”を
『思い』でどうにかしようとしている。
そして
“思いにとらわれてはいけない、
を思いでどうにかしないように”と、
『思い』でどうにかしようとすることになる。

これではいたちごっこになる。
いつまで経っても終われない。
心労がかさむだけ。

『思いにとらわれてはいけない』と気付くのは
『理』であって『思い』ではない。

自己暗示のように“とらわれてはいけない”と
心の中で反復させ、言い聞かせなければならないようなものは
『思い』でしかない。
『思い』がやっかいなのだから、
言い聞かせをしている人ほど迷いの森の深みへと入っていく。

受け入れなければならないようなものは『思い』。
“これが理なのだ”、と。
『理』は受け入れるようなものではない。
『理』は心内現象でもあり外部の客観的な事実でもある。
厳密にはそのどちらでもなく、理は理。
世の中 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/02/11 21:42

めずらしくスピリチュアルについて

最近スピリチュアル系のブログをいくつか見る機会があって、驚いた。
どこかの誰かのブログでよく見るような文章が書かれていた(笑)
もしかしたら僕のブログはスピリチュアル寄りに分類されるのかもしれない。
今まで合理に合理を積み上げて(論理ではない)やってきた
自負があるだけに驚いた。
そういえば僕はよく神とか仏とかいうフレーズを使う・・・。

スピリチュアルについては、ブログで書いたかどうかはわからないが、
それがサプリメント感覚で摂取されていることや
人間中心主義の延長でしかない(と思える)ことから
あまり好感は持ってこなかった。

でも、彼らの言っていることはそんなに間違ってはいないとは思う。
僕のわかる範囲では。
少なくとも自我に関する認識については僕も共感できる。
「真我」とか言い出すと僕はお手上げだが。
人間の心理作用を徹底的に分解していって浮かび上がってくる「自我」、
これに対する認識や洞察は正しいと思う。

ある意味で、大昔から伝承されてきた人間に関する知恵が
スピリチュアルによって再び多くの現代人に継承されていると言える面もある。
そう考えると単純に批判もできない。

ただ、“人間は幸福になるために生きている”というようなことを言われて、
もちろん慰められたり幸せに生きられるようになる人もいるだろうが、
これはそんなに簡単に誰でもが口に出せるような言葉なのだろうか。
その重みのなさに僕はひっかかる。

同じ言葉でもそれを言う人のリアリティによって
大きく変わってくるものがある。

「いまここ」というのもそうで、
確かにそれを意識することで生きやすくなることは十分にあるだろうが、
「いまここ」をもっと徹底的に押し進めて
自分の生きてきたこれまでをすべて捨てて、
これからの可能性もすべて捨てて、
何もかもなくしてしまおうというそういう覚悟をしたことのある人のいう
「いまここ」というのはおそらく多くの人のそれとは大分違う。

僕は「いまここ」という言葉の真価は、
生きやすさや感動を得るために座右の銘にすることではなく、
そうして生きることが人間の道理だと「覚悟」した人に使われてこそ
発揮されるものだと思う。

己のリアリティから切り離されたものを
皆が平板に呪文のように繰り返していると
宗教の教団にしてもスピリチュアルの人にしても、
どこか近寄りがたい雰囲気が出る。
反対にどんな非常識なことでも
それがその人の誠から出たものなら尊重したい。

僕はやっぱり「さぁ、宇宙の大いなる目的に従って生きよう」と言う人より、
最近紹介した相田みつをとか宮沢賢治のような人が
ひたすら自己と向き合っている姿を見せられる方が
背筋が伸びるし、強く清く生きようと思う気持ちになれる。


*単なる個人の感想です。
スピリチュアルについてもほとんど知らないのに書いてすみません。
世の中 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/11/17 21:44

昔から変な人はいた

前回の続き。

いつの社会にも“普通”という幻想はあるだろうけど、
多分現代人はそれにとらわれすぎているんだと思う。

昔は建前としても考えられた“普通”が、
今では建前というよりも現実的な拘束力をもったものとして
捉えられていると思う。

きっといつの時代にも落ちこぼれといわれる人も、
社会からはみ出す人も、変な人もいた。

それでもなんとなく社会が上手く成り立っていた、と思う。
それが今では枠からはみ出す人は完全に外へと追い出される。
外的にだけでなく内的にも。

自分ではみ出してしまったと自覚したときには、
もうその人の尊厳は破壊される。
自分自身の“普通”意識によって。

こんなに窮屈で、枠からはみ出さないようにと
オドオドしなければならないような状況の中で、
本当の感謝が生まれてくるはずがない。

人から下に見られないようにと必死にもがいている最中に、
“かたじけない”なんて言葉が出てくるはずがない。
出てきたときはその意識が崩れたときだろう。

こんな風に、個人においては
“かたじけない”という気持ちが出てくることがあるとしても、
社会がこの状況で満足していてはまずいと思う。

“感謝をしよう”といくら言っていても、
“どう生きるかは個人の自由”という溶解液を噴射すると
それは簡単に霧消してしまう。
単なる個人のつぶやきになってしまう。

だから相互扶助の精神を本当に社会の理想とするのなら、
感謝をしようと呼びかけているだけでは足りなくて(もちろんそれも必要だが)、
そう言っている自分自身の立っている土台が既にもう
感謝とは繋がらないものなのだということに気付いていかなくてはならないと思う。

欠陥を認識すると、それを何とかしようとして
結果的にその周辺のことに精通することがあるように、
意識が集まれば自然と打開策も出てくると思う。


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世の中 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/05 21:56

頼らないで頼ることはできない

ご年配の方やお坊さんなどが
“もったいない”“かたじけない”とよく言われるが、
これは本当に大切な精神だと思う。

今の世の中は、弱い人間であってはならないと言う。
落ち度があったり調和を乱す人は社会(というグループ意識)から
外へ締め出される。
だから皆そうならないようにと躍起にならなければならない。

自身に落ち度があると感じられると、自身を恥じるようになる。
それは自己破壊的で己の内部を灼き尽くすような種類のもの。
これと“かたじけない”というのとは全くの別物。

“かたじけない”には感謝がある。
そこには落ち度がある=ダメ人間の図式がない。
落ち度があってもいい、
というかむしろ落ち度があるのが当たり前だ、という意識。

互いに欠陥があると認めるからこそ相互扶助の考え方が生まれてくる。
それなのに、
欠陥がなく自立した人間になるのが人間のあるべき姿だと言いながら、
助け合いの精神は大切だといくら言ったところで、
その意識が今以上に高まるはずはない。

個人において、何かマイナスポイントが現れてくると、
それは異常なものだとして
治したり鍛えたり矯めたりして“普通”に戻さなければならないという。
この考え方ではもう駄目だと思う。

一方で頼らない生き方を目指しながら、
他方で頼り合える社会を目指してみても、
相反するものを同時に求めているのだから上手くはいかない。

そんな状況で“欠陥があってもいいんだ”といくら言ったところで、
それが個人にとって大きな救いにはなったとしても
社会の骨の髄にまで響くことはないと思う。
そして社会にとっての救いにならない以上、
個人にとっての本当の救いにもならないと思う。

問題の核心は多分、欠陥を認められないこと、と言うより、
現代人が“普通”という幻想にとらわれすぎているということではないかと思う。


長くなるので続きはまた次回に。


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世の中 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/04 20:51

じゃあ僕らの求めるリーダーとは?

国を一つにまとめて引っぱっていくリーダーがいない―
確かにそうなのかもしれない。
確かに政治家に落ち度があるのだろうが、
でも、問題の本質はそこじゃないと思う。

僕らが批判しかしないということ。
リーダーを望みつつ、
リーダー候補を次々と切り捨てているという矛盾したことをしている。

確かにその人がリーダーたる器かどうかを確かめるのは必要だが、
粗探しをするのだから粗が出てくるのは当たり前だ。
この粗探しは皮肉なことに粗が見つかったときに目的が達成される。

そして結局期待できなくなる。
期待したいと思ってやったことが結局は裏目に出ている。

「この人なら信じられる」と思って首相を応援することは多分できないだろう。
都道府県の知事でならそれはあり得たとしても、
一国の首相では多分そうはいかない。

海外のことは知らないが、今の日本人は
一つの思想なり、一人のリーダーに傾倒することをひどく恐れている。

批判するにしても己かその延長の分別で批判するのだから
そのどこにも信頼はない。

僕らが求めているのは仰ぎ見るリーダーではなく、
僕らのいうことを何でも聞いてくれるいわば傀儡リーダー。
これは民主主義の取り違えだろう。

だから政治家自身にももちろん問題はあるだろうが、
ことはそんなに単純じゃない。

僕らは自らの理性によって苦しめられている。
この批判精神に。
そのことに社会レベルで気付いていかないと何も前に進まないのではと思う。


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世の中 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/06/02 22:34

何のための自己実現か

前回の続き。

個人の快だけを求めて生きていて一体それが何なのか、
その自己完結的な姿はあまりにもむなしすぎるじゃないか、
という心の声に僕は悩まされている。

快と言ってもいわゆる欲望などに限らず、
自己の成長を願ったり、豊かに生きることを願ったり、
ということも含めてだが。
これらを願うことは当然良いことなのだとされていて
実際はまともに振り返られてはいない。

今「個人主義」といわれているものには中心がない。
背景がない。
これが一番の問題だと思う。

何のために個人を尊重するのか、
何のために個人を実現させるのか、
その芯がない。

だから、それは快を得るためなのだろうと皆勘違いしている。

でも最近僕は思うようになったのだが、
個人として生きるのがなぜ「良い」かというと、
それはそうすると快いから「良い」のではなくて、
そうすることが道理だから「良い」のではないかと。

つまり、その背景にあるのは、
“人間は個人として生きるのが道理だ”という僕自身の人生観。
それが正しいものなのかどうかは問題ではなくて、
こういう人生観なしには個人主義はありえないと思う。

背景に特定の人生観を持たない(持てない)ことから
個人主義が単なる各自の自己満足への希求になっていることに
まずは気付いていかないと駄目だと思う。


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世の中 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/05/14 20:29

個人主義はわがまま主義?

たまには真面目な記事も。

現代人は自分勝手でわがままだと言われているが、
それを本当にどうにかしようと思うのなら、
今までよりもうちょっと深く考えてみないと。

自分自身の足元を見ないと。
“現代人はわがままだ”と言う自分自身が
既にわがままな価値観を形作っている一人なのだと
まずは自分自身の足元を疑ってみないと。

個人主義がなぜうまくいかないのか。
それは今の世の中の考え方が、
個人の欲を叶えようというものだからだろう。

個人のニーズには応えるべき。
個人に不快な思いをさせるものは排除すべし。
個人の~をしたいという欲求は満たされるべき。

これは本当の意味での個人主義じゃないだろう。

偉そうなことを言っているが
僕もまぎれもなくその考え方に侵されているから、
その反省なのだが。

続きはまた次回に。


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世の中 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/05/13 21:05
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