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精進

僕には嫌いなものがありすぎる。
外の嫌いなものを切り捨て
内の嫌いなものも切り捨てる。

理想主義者は人を斬るのを常とする。
物事の正誤にこだわる者も同じく。
正義漢もまた。

“反面教師”
“人の振り見て我が振り直せ”
という言葉があるが、
それらは実は人斬りの勧めでもある。

“美学”“モットー”“誇り”
それらの裏には我が潜んでいる。

“自分はこういう生き方をする”
“ああいうことはしない”
その言葉が人を斬り捨てるものであることに気付きはしない。
“そういうことをする人”を斬り捨てたことに気が付いていない。

“誰かの過ちを自分が繰り返さないことがその人の供養になる”
それは確かに優しさだ。
だがそれは人斬りの持つ優しさだ。
僕は人が人斬りに落ちる前の優しさの方が美しいと思う。

我はなぜ悪いのか。
それは人を斬り捨てるからだ。
ではなぜ人を斬るのが悪いのか。
悪いと感じるから悪いのだとしか言いようがない。
絶対的な善悪になど大した価値はない。
反省と懺悔は違う。
反省には改善の意志があるが、懺悔に改善の意志はない。
ただ悪いことを悪いと思うだけ。

僕は己の悪いところを見、それを嫌う。
“そうではない自分”になろうとする。
そして周りの人皆斬りつける。
僕に懺悔はない。

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我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/08/20 21:17

感謝の自己満足

僕は『感謝しよう』という発言に対してはいつも距離を置いている。

例えば「手足のあることに感謝しよう」という場合にて、
僕が言われた通り感謝しようとするなら、
それは手足のない人と比べて自分が恵まれているから感謝しようと
しているように思えてくる。
自分の中のそんな気持ちが許せない。

「ありがたい」が人より恵まれているから「ありがたい」のだったら、
それは自己中心的な心ではないか。
この自分をよしよししたい心。

「手足がある。だからありがたい」というよりも、
「ありがたいことに手足がある。これで手足を使える」という気持ちの方が
有ることが難いとの本義に適うし、これなら共感できる。

「○○だからありがたい」と言う場合、
大体が自分を慰めてくれるものに対してむけた感謝だ。
しかも現代人は欲張りなことに、
マイナスを与えれてもそれを「糧」といって喜ぶほどだ。
どんなものを使ってでも自分を慰めようとする。
僕は『感謝しよう』の言葉にもそれを感じてしまうから一歩引いてしまう。

この種の感謝には反対語がある。「不満」「愚痴」。
自分を喜ばせてくれるものを歓迎する心は、
自分を害するものや喜びを妨げるものに対しては翻った姿を見せる。
愛憎も同じ。

現時点を肯定するための「ありがたい」はそういう傾向を持つ。
それに対して、「ありがたくも○○がある」という心には、続きがある。
「これを使って○○できる」というものだ。
これがあってこその感謝だろう。
これは奉仕の心。
我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/24 20:13

「自分」という壁を立てないこと

自分をさらけだすとは。
最近このテーマばかりだが。
メモ感覚でまとまりなく書く。

神や世界との間に「自分」という壁を作る。
そうすると例えば、声を発したときに
その声が壁に当たってはね返ってくる。

自分のまわり一周が「自分」という壁で覆われていたとしたら
発したその声はその密室内で反響、増幅する。

これが妄想。
頭の中で鳴り響くノイズ。
猜疑心や罪悪感、疑念など。
はね返ってきた自らの思いによって惑わされる。
自分で自分の発した声に振り回される。

骨伝導というのもある。
外部の音を聞くのでなく内部の振動を音として知覚する。
こちらが本当の自己の声では。

カラオケを例に。
発した声がマイクを通して部屋中に反響する。
この声はもはや自己の声ではなく外部の物質だ。
その声が耳に入ってくるときそれは対象化された声となっている。
内部の声はそうではない。
でもカラオケでは内部の声(振動)は
(マイクを通した)ノイズにかき消される。

壁がなければ声は返ってこない。
捨てっぱなし。
自己の声を改まって「自己の声」として聞くこともない。
本当の自己の声は骨伝導として聞こえる。
その振動そのものが自己。

声を発するのと内側が振動するのとは同時だ。
放り出すのと受け取るのとは同時だ。
捨てるのと得るのとは同時だ。
もし壁を作らずに放り出すなら、
ノイズに邪魔されず、内側の声を聞くことができる。
(内側の声と言ってもそれは「自己の声」ということではなく
「声そのもの」が自己だということ。)

「受け取る(受動)」という方面を強調して見るなら、
誰かから与えられている訳で、
それは神とか世界というもの。
「自己」という壁に当たり反響した声を受け取るのではなくて
神を聞くということ。
自己が神の目的語になるということ。

壁に当たり反響した声というのはつまり
「自分はこういう人間だ、こういう特徴がある」など。
自己で自己を認識するときのその内容。
これらは自己ではなく、所詮自己外の対象物に過ぎない。

「聞く(能動)」という方面を強調して見るなら、
ノイズでない、自己を聞くということ。
自己が振動になるということ。
自己が神にアプローチする主語になるということ。

そう考えると自己も神も別物ではない。
自己を目的格として捉えるならその主格を想定することになるし
自己を主格として捉えるならその目的格を想定することになる。
「神にすべてをさらけ出す」と最近しつこく言っているのは
この辺りのことを感覚的に捉えた表現。

念仏というのもこの文脈で考えなければならない。
我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/01/29 15:46

心の中にある壁

身体感覚に焦点をしぼった話。
僕はものを書いてもあまりカタルシスは感じない。
力量のせいもあってか、自分の気持ちというか
気迫とか勢いを文章に乗せられないからだ。
口で話す言葉にも乗せられない。
呼吸にも乗せられない。
どこかひっかかったような感覚がある。

内のものが外へ出ようとするのを止める壁のようなものがある。
この壁は内側からすれば、外へ溢れ出すのを防ぐ壁となり、
外側からすれば、内に侵入させないための壁となる。

ちなみに外側から見たときのこの壁は、看板でもある。
この看板によって他の人と交流する。

僕はこの壁が分厚くて頑丈なために内と外との流通が滞りがちだ。
この壁が壊れるときというのは、
誰かに心を開いて「もういいや」となったとき、
または自暴自棄になり諦めきって「もういいや」となったとき。
情けないようなうめき声を出すときもそう。

呼吸にしても、
全身を使って全力で運動した後などの息には気持ちが乗っている。
堰き止めるストッパー(壁)を通さずにスムーズに外へ出、また入ってくる。

これらに共通しているのは余計な力を入れないということ。
余計な力みが壁を造り内外の疎通をさまたげる。

力みをやめるには全力で力むしかない。
一度全力で力むからこそ脱力できる。
良くも悪くも緊張のピークから解放されたとき、心身の力みが取れる。
絶望したり失望したりして途方にくれているときに
自分の内側から「自分は本当はこういうことがしたかったんだ」という
「本音」が聞こえてくるのは、
そのときに余分な力が抜けているからだ。

罪悪感や劣等感はこの壁を分厚くし、自閉させる。それを卑屈という。
世界を信用できなかったり脅威に感じたりする以上、
なかなかどうしようもないが、
目を背けているのは自分自身が先じゃないかと思うときもある。
僕自身のこととして。

目を背けるから壁ができ自閉する。
人としてまずいなと思うから思わず目をそらす。
誰に怒られるでもなくまず自分から先に目をそらす。

そこで僕の発声は、
義務上、相手に届くようなボリュームを持たせようとしながらも
それが口から外へ出て欲しくないような気持ちをも伴った
矛盾したものになる。

きちんと相手(世界)の前に正座して、
面と向かって目を見て対座できたらどんなに清々しいだろうと思う。
我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/11/19 15:23

強制終了の呪文

最近疲れきった心を休ませるときの手段が
“もう生きない”
“もう既に終わっている”
“継続させない、既に終わっている”
と言い聞かせることに定着しつつある。
そんな変わった手続きを経なければならないというのは
我ながら面倒くさい人間だと思う。

どうも(何事に対しても)継続させようと思うと精神が拒絶反応を起こす。
小康状態から展開して心身ともに活発になってくると
途端に“何もすべきことがない”という事実に直面させられ再び疲弊する。
心の歯車がギスギスしてくる。
その磨耗を収めるとどめとなるのが上の呪文。

最近体調が優れなかったこともあって意気消沈していた。
意気消沈していたからこそ余計な「我」が出てこず、
ニュートラルな状態でいられた。
それからしばらく居心地良く過ごしているとやがて活動性が出てきた。
活動性が出てくると調子づき始め「我」が出てきた。
「我」が出ると疲弊してくるがこれは止まろうとしても止まれない。
やがてスタミナ切れで意気消沈。

いつものサイクルだが、この一連の流れが急激に速くなった。
前は内部の不協和音に気付きながらも調子に乗り続ける期間がもっと長かった。

「何もない」が答えだとわかってから
それに背こうとすることに対して
もはや心身が受け付けなくなったのか。
我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/10/27 20:46

下向きの飛翔

何もかも自由だった。
自由すぎて逆に身動きがとれなくなった。
かえって“こうせよ”と言ってくれる声が欲しかった。

足場がなくなり崖から落下しているような感覚。
落ち続けてもう何年。
上も下も右も左もない真っ暗な宇宙を漂っているような感覚。
いまだにどこにも行き着かない。

気付いた。
己が落下しているのだと思い怖くてもがいていたが、
これは飛んでいるのだ。と考えることもできる。
何にも縛られずに自由に空を飛ぶことができたらどんなに気持ちいいだろう。

自由すぎて怖かった。
でもまさしくそこにこそ本当の自由があるのだという気がする。
着地できる地面がないことに気付きつつ、
それでもやがてどこかに行き当たり着地するのを願わずにはいられなかったが、
もしかしたら飛んでいるこのままが本当の自由なのかもしれない。

落下したその時点で既に飛んでいた。
でもそれに気付かずにひたすらもがいていた。
この自我を一度ボキッと折ってしまわないと。
落ちるしかないなら素直に落ちるのが本当の自由だ。

崖下に衝突するのが怖くてもがいている。
しかしこれは衝突させるしかない。
そもそも衝突する地面がないとわかっていながら
なぜ衝突を恐れる。
永遠に地上に落ちてしまわないのならそれはもう飛翔じゃないか。

これは落下ではない。
下向きの飛翔だ。
漂流ではない。
遊泳だ。

それがわかったならどう行動すべきかはもう決まっている。
問題は“何をすべきか”ではなく“やるかやらないか”だ。




とりようによってはかなり危ない文章ですが、
どうぞご心配なさらないでください(笑)
我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/15 21:28

なぜこうも自分にこだわる

2009年2月28日

『僕は何の為に生きてるんだろう。
 変な意味ではなくて。

 自分で自分を信じきることが出来ないで生きている。
 なんて愚かな。

 なぜこうも自分にこだわるのだろう。
 自分なんて手放せばいいのに。
 でもそれができない。』


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我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/04/15 20:35

あっちへ行ったりこっちへ行ったり

2009年3月23日

『あっちへ行っては浮かれ
 こっちへ行っては沈む。

 なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。
 余計なことを考えなければいいのに。

 心を使いすぎて擦り切れているような感じだ。
 考えることをやめればいいのに。
 我を張るからだ。
 なぜそこまで自分でいようとするのだろう。』
               

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我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/26 21:12
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