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言葉

人に伝わる言葉を使わないといけないなぁ。
他人に対しては人一倍気を遣う方だと思う。
でも優しくはない。
人からはよく優しいと言われるけど、自分では決してそんなことはないと思ってた。
他人を気にする言葉は使ってたけど、他人を思いやる言葉は使ってなかったかなぁ。

最近、自分の思ってることを以前よりも話すようになった。
どうせ通じないと思って隠してたようなことも。
でもただ話すだけじゃなくて、ちゃんと相手に渡さないとね。

今まで気にしていたのは、自分の言葉がきちんと受け取ってもらえるかどうか。
自分のことを誤解してほしくなかった。きちんと受け取ってほしかった。
だからきちんと話すことだけを考えてしゃべっていた。
自分の中だけの整合性。
でも自分の口から出た言葉はもう自分のものじゃないから、
相手の中でその言葉が生命を持ってくれるような気持ちで話さないと。
まあちょっと大げさな気もするけど。

簡単に言えば、今まではただ吐き出したいだけだったんだね。
中心にはいつも自分があった。
でもよくよく考えれば自分なんかどうでもいいから、
なるべく相手に喜んでもらえるように話そう。
そうして話そうとするとだいぶ話し方が変わってくると思う。
これには訓練が必要だ。
中々難しそう。今も誰のことも思いやれてないから。
届けたいと思う対象を持たないからだな。
その辺のビジョンもうちょっとシャープにしていこう。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/24 22:23

変化

復帰したはいいものの、また放置してしまっていた。

最近すごいスピードで変わっていってる。
ちょっと前だったら絶対許せなかったような考え方を
普通にするようになってる。当然のように。
もう何年も前を向けなかったし、向く必要もないと思ってたのに、
やっと前を向こうと思い始めた。
大きな変わりよう。
滅茶苦茶ポジティブになってる。なろうとしてる。
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/01/17 00:59

余裕

僕が人生を楽しめなくなったのは、日常の欺瞞に気付いたからではなく、
単に精神的に余裕を持てなくなったからに過ぎないのだ。
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/12/13 14:41

こっそり復帰

…さて(笑)
誰も見てないところでこっそり更新。
前回書いたのはなんと2月!1年近く放置していたのか。

更新しなくなったのには理由はない。
しないでおこうと思ったわけではなく、ただいつの間にかしなくなった、という感じ。
なんで更新しなくなったのかについては特に気にしていなかったんだけれども、
最近になってこれが理由かなと思うようになったことはある。

「自分の考えを書く」というこの行為が嫌になったんだろう。
それは、「なんだか気が進まない」という程度の漠然としたものではあったのだけど。

「自分の考えを書きたい」と思って始めたこのブログ。
でも、いつの間にか「自分の考えを書きたくない」というまったく正反対の価値観を持つようになり、
長らく放置する羽目になってしまった。

じゃあ、なんで書きたくなくなったのか――
それが「自分」を生かすことになるから。

この辺についてはちゃんと書きたいと思うけど、どうやら今はあまりそういう気分ではないから、
また今度にしておこう。
書こうとしたけど、あまり整理ができていないことだから、気分が乗らないと書けないみたい。

とりあえずこれだけ書いとこう。
僕はここ最近、この自分というもの、この人生というもの、この世界というものを見限ることにした。
この「自分」という奴、こいつを生かしておいてはいけない。
生命というものをエネルギーとして捉えるなら、この営みはかなりのエネルギーの浪費だろう。

本当のところ、こうやって自分の考えを文章にするということは、
よっぽど気をつけないとその無駄な浪費というやつになる。
事実、多分今なってる。
それでも、一応やめると決断したからなのか、まあいいかなという軽い気持ちで書いてしまった。

更新を怠っていた間、色々考え方が変わったところがあるから、またちょっとずつ書いていこうかなと思う。
(書いてみて改めて実感したけど、なんでこんなに幼い文章しか書けないんだろう…)
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/12/12 22:10

読書日和、ではないか

この間、なんでか知らないけど突然夏目漱石と太宰治の小説を読みたくなって、
図書館で借りてきた。
大学生の頃はこういう小説を読んでたなぁ。
自分の抱えているものを解消するヒントがどこかにあるんじゃないか、
閃きを生む刺激にはなるんじゃないか、という気持ちで。
当時を思い出したくなったのか、借りてきたわけだ。

で、もうすぐ返却期限。
まだ1ページも読んでない(笑)
「まだ」というか、まぁ、読まないだろうな。
読みたいという気がまったく起きない。
借りる時点で多分そうなるだろうなとは思ってたけど、やっぱりその通りになった。

ちなみに、このブログのタイトル、自分でも忘れることがあるけど、
『門の下に立ちすくんで』という。
この言葉は漱石の『門』という小説の中から取っている。

今手元にあるわけだから、該当箇所を探そうと思えばすぐ見つかるのだけれど、
なぜかそれをするのも面倒なので、もしかしたら間違った情報を書いてしまうかもしれませんが、
ご了承下さい。
もしかしたら『行人』と混ざってる部分もあるかもしれません。

『門』という小説には、終盤に、主人公が神経衰弱(今でいうノイローゼ)をなんとかするために、
禅寺で数日間住み込みの修業をさせてもらうシーンがある。
が、結局は何の助けにもならずに茫然としながらまた日常に戻っていく、
という淋しいシーンがあって、そんなモヤモヤした気持ちのままこの小説は終わる。

そのシーンでの主人公の心情描写が、
「自分は宗教なしではとても生きてはいけない。
 が、しかし宗教の内でも生きていけないのが今回わかった。
 そんな自分は門の下に立ちすくんで、ただ日の暮れるのを待つだけの哀れな男なのだ。」
という、大体こんな感じだった。
「門」というのは「寺の門」のことで、門を境に内(宗教・聖)と外(世間・俗)に分けていて、
そのどちらの世界にも属せない自分は、この門の下でただ茫然としながら一生を終えるのだろう、
ということ。

この、聖に行きたいけど行けず、かといって俗で生きて行くことも自分には無理だろうという、
どこにも救いがない状況が自分と重なって見えて、印象に残っていたから、
ブログを始めようと思ったときに、タイトルの一番の候補となった。
あと、主人公が単に宗教好きなわけではなく、ただただ楽になりたいだけであって、
で、その方法は仏教以外にないと踏んだというのも、共感できるポイントだったから。
近現代人の理性に耐えうるのは仏教、とりわけ禅以外にないだろうと。
『門』に限らず、漱石の後期の作品の中には「近代と個人主義」のテーマがよく出てくる。
そして、そんな小説の中には必ずといっていいほど、神経衰弱の登場人物が描かれる。
今で言えば、神経衰弱というより、うつか。生気を失った現代人。
理性を発達させたが故に先人よりもイキイキとは生きられなくなった人々。
その問題に取り組もうとした漱石には感じるものが多かったし、タイトルとして引用させてもらった。

ただ、僕としては、『門の下に立ちすくんで』、「そのまま呆けたように生きてやるつもりはない!」
という意味を込めてのタイトルではある。
「内」でも「外」でもない。この「門の下」に留まることによってのみ真の救いが得られる。
そのあがきの様をここに記録しておいてやる、という意気込みで。
でも、そういう名前で始めたものの、やっぱりあんまりいいタイトルじゃなかったなぁと後悔はしていた。
だって、「立ちすくんで」って(笑)
変えよう変えようと思っていたけど、代わりになるようないい案もないし、
変えるとなると、やっぱり何か心境の大きな変化、もうこのタイトルでは僕の今の心情を表わせなくなった、
っていうものがほしいところだけど、そんなものも今のところないし、
ということで、結局変えずに今まできた。
あ、別に変えるときがきたという宣言ではないですよ。
ただ流れで説明しただけで。

つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/01/31 16:13

「僕は思う」

「僕は思う」というセリフについて。
何か意見を言ったり書いたりするとき、最後に「~だと僕は思う」と付け加える。
断定したくないときに。
説教めいたことを言うとき、「こうしなさい」とは言わずに「こうした方がいいと僕は思う」と言う。
それがフェアでもあるから。
でも、それは果たして優しさとか責任感だけで出てきた言葉か。

自分の意見にどれだけ自信があろうと、それが絶対に正しいとは限らない。
特に、人生に関することだったら、これは紛れもなく経験がものを言うし、
まだまだこれから経験を積む余地があるという認識を持つ以上、
現時点での「正しい」をそのまま「正しい」とは言えない。「正しいと思う」と言う。
それが相手への礼儀でもあり、また、自分の良心に応えることでもある。

それから、本当は自信があるのだけれど、「控え目」という美徳のために断定を避ける場合もある。
あとは、皮肉として謙虚アピールする場合もある。わざと控え目になることで、相手へ仕返しをする手法。

他にもパターンがあるかもしれないけど、大体そんなところか。
とりあえず言えるのは、これは気配りとか良心に従っているというよりも、
保身と言った方がいいのではないかということ。

あえて断定を避けているのではなくて、断定する勇気がないからしないのだ。
大体、自分の意見を発する以上必ず「僕が思っている」のだ。表明してもしなくても。
「これが正しい」と言ったところで、それは必ず「これが正しいと僕は思っている」と言ってるのと同じこと。
それなのに、「絶対の正解」が頭をよぎり、保身を図る。
どうせ自分の言ってることなんて正しいか間違っているかどちらかなのに、
外れたときの保険として「と僕は思う」と付け加える。

相手に「こうしなさい」と言って相手がそれに従い、後になってそれが誤りであったとわかった場合、
「僕がそう思っただけで、『本当』はそうではなかったみたい」という言い訳をするため。
『本当』なんてどこにある。
『本当』を口にできるのか。どうせ言うことはみな「僕の考え」に過ぎないのに。
わざわざ「違うかもしれません」なんて言う必要ないのに。
違ったら違う。合ってたら合ってるとその時点で答えはでているのだから。
答えは発した時点で出ている。
なのに、「思う」というフィルターを通すことによってまるでそれを左右できるかのような錯覚に陥る。
本当のところ、「正誤」も「善悪」も大したことではないのだ。見方によってどうとでもなるから。
むしろ問題なのは、「思う」という武器を使うことによって自己を特権階級に置こうとすること。
主人公視点を保とうとすること。

常に「正解」に依存しているこの姿。
堂々と「自分」ではいられず、「正解」に頼ろうとする。
自立できず、どこかにあるであろう確かな宿主に寄生しようとフラフラ。

素直に「僕は思う」と言いたい。
思っているから思っていると言っただけ、というのを。
「思う」という言葉を「書く」とか「持つ」とかと同じ、単なる動詞の一つとして使いたい。
特殊な地位から引きずり降ろしたい。
そういう意味では神なんていない。
でも、素直に「僕は思う」と言える人は、もれなく神や世界を信仰している人だろう。
神の機嫌を窺わなくなった人こそ信仰者だと思う。
話が逸れたかな。
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/27 23:04

自分でも聞いたことのない本音

久しぶりの更新。

回想。
自分の信念を折ったことがある。
折らねばならなかった。
人間として、折る意外になかった。
それが最善の選択であり、あとは自分がそれを呑み込めるかどうかのみが問題だった。
呑み込めずに消化不良になるならそれは僕にそこまでの力量がなかったのだということ。
甘んじて報いは受けねばならない。
というか、呑み込んで消化すれば苦しまなくていいという話。

で、僕は未だに消化できずに心は折れたままなのだが、
今朝ふと思った。
別に折らなくても良かったのだと。
信念を折って生きるくらいなら死んでやると言って死んでも良かったのだ。
または、信念を貫き通すのが人間の道に背くと言うなら、
構わず背いて生きてやると開き直る自由もあったのだ。
それをもう答えは決まっていると最初から思い込んでいたのだ。
要は合わせていたのだ。
「人の道」とか「正しい選択」とか「世間体」に。
「生きねばならない」とかいう言葉に。
別に死ぬ自由もあったのだ。
でもそれは間違ったあり方だとして選択肢にも入れなかった。
別に周りの人のためにそれを選ばなかったのではない。
情によりやめたのではない。
情の入り込む隙間もないほど、「固定観念」に支配されていたのだ。
つまり、合わせていたのだ。言葉に。

僕はよく人を見ると内心で、信念とか言ってられる内はまだ幸せだなとか思ったりする。
まだ自分を信じていられるのだから。
その最後の砦も失ってしまったらどうなるか、おそらく想像もできないだろう、などと思ったりする。
信念など捨てるべきだ。そこからその人が本当に人として生きていく道が開かれるのだなどと。
でも、この辺のことは、自分が信念を捨てなければならないような体験をしたという
トラウマから来ている部分も大きいだろうと思う。

僕は信念を捨てた。
でも捨てなくても良かったのかもしれない。
信念とやらにしがみついて自ら死を選んでいても良かったのかもしれない。
でも本当のところ、捨てても捨てなくてもどちらでも良かったのだ。
本当に駄目なのは、「自分は信念を捨てた」という言葉に囚われ、未だに心が折れたままだということ。
心が折れるとはまっすぐ立てないということ。
完全に腰が抜けてしまっているのだ。
力が入らない。踏ん張りがきかない。
心に火が灯らない虚ろな存在。

なぜそれが駄目かというと、今僕がそれを嫌だと思ったからだ。
それ以外の理由はいらないし、あってもそれは不純なものとなる。
また人に合わせることになる。
信念を捨てるのも結構、心を折るのも結構、でもそれが嫌ならそれは「間違っている」。
自分の心を裏切り続けることは間違っている。
そういう癖をつけてしまっていることが間違っている。

改めて思いを巡らせる。
一体僕は何をしたいのだろう。
何を求めているのだろう。
何をしたくて生きているのだろう。
何を願いとして生きているのだろう。
それ以外のことなんてどうでもいいと言う権利を持っているのだ。
それが叶わないならいつ死んでもいいのだ。
そう言う権利を持っているのだ。

自分でも聞いたことのない自分の本音。
自分自身の内で問うていてはとうてい聞けない本音。
何かにぶつけずには決して聞けない本音。
それでいてぶつければ必ず逸れてしまう本音。
それを聞いてみたい。
「自分」を聞いてみたい。
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/10/12 22:58

言葉

世の中にはいろんな“正しい考え”がある。
生き方の指針とかそれ以外にも。
こうすべきだ、とか、自分はこうしている、とか。
そういう考えは大宗教家とか大哲学者とかに限らず誰でもが持っている。
が、それを言葉という点に限って言うなら、どれも戯言に過ぎないというのは言えると思う。
言葉そのものに決まった価値はなく、すべては受け取り手次第なのだ。

成熟した人間のいう言葉を要約すると大体「そのままでいい」に落ち着くと思う。何もするなと。
だが、受け取り手はそういう言葉を見ると、「何もするな」を「する」ようになる。
それを行動や人生の指針にしようとする。「何もするな」の奴隷になる。
「何もしない」を実践し、うっかり何かしてしまったときにはいけないと修正し、
人に「何かしている」と指摘された時には自分はいかに「何もしていない」かを主張し、
そうやって、自分は「何もしない」を忠実に実行していると思い込もうとする。

これは何をしているかというと、自分はセーフゾーンにいると思いたい結果なのだ。
「何かをする」とアウトになる。でも自分はしない。だから自分はセーフなのだと。
「何もするな」を例にとっただけで、これはどんな教訓にも当てはまる。どんな理想にも。
自分は正しいものをわかっていて、できている。
間違った人には間違いだと指摘できるのだから、自分はできている。
できないときもあるが、それを修正しようとしているし、
今はできていないというだけで長い目で見れば、できている。
自分は正しい、自分は大丈夫なのだ、安心していいのだ、安心する権利があるのだ、と。
心から「自分は正しい」なんて思える人はそうそういないかもしれないが、
自分は正しいと思っていない人間など多分いない。
皆何かしらプライドを持っている。何かしらの点において自分を慰めている。

そういうセーフとアウトの二極の間でしか生きられない人に、
「欲を出すな」「清くあれ」「自立しろ、自らの意志を持て」と言う言葉を見せたところで、
どうせその言葉はセーフになるための餌としてしか利用されない。
「それを実行している自分」を保つことによって。
だが、セーフは常にアウトになる予感を漂わせているし常に心は不安で騒がしい。
皆そうなのだが。

そういう人に対して偉人達は「何もするな」と言ったのだ。
「セーフになろうとするな、しなくても既にセーフなのだ」と。
人生訓なんかに騙されるな、道徳なんかに踊らされるな、何もするな、と。
そういう次元に立って初めて、「禁欲しよう」などの選択肢が現れるのだ。
そこで人生訓も生きてくる。

この文章にしても、「セーフになろうとするな」という言葉自体が、
自分を計る物差しになり得る。
もし僕の言葉を真に受ける人がいたとしたら、その人は自分を省みて、
自分はセーフになろうとしているだろうか、いないだろうか、
していたらアウト、していなかったらセーフ、と確認する。
自分は大丈夫だろうかと不安になって確認する。

「するな」も「しろ」もそういう怖さを持つ。
本物の金言は「そういうのをやめろ」と言っているのだ。
だが、この言葉自体はどうしても誤解される運命にある。
「やめろ」と言われたら否定された気分になる。
だから、「いえ、やってませんよ、セーフですよ」と、そういう思考でしか受け取れなくなる。
すべてを糧にする。自分を肯定するための。
そして、そんな自己中心的な自分は駄目だ、とまたセーフ衝動が動き出す・・・。
が、何もしなくてもいいわけだし、逆に何をしてもいいわけで・・・。
・・・終わらない。
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/20 21:34
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