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「辛いけど頑張りましょう」って言いにくくなった。

大学生の頃、友人と、
「お互い辛いけど、頑張って生きていこう。
 この人生というものは相変わらず一筋縄ではいかないけど、それでも自分のペースで生きていこう」
ということを言い合っていた。

その友人というのは僕とは違って、いつも死にたいと思っているようなタイプではなかったけど、
それでも日々生きるのに苦労しているような、「生きるのが下手」なタイプであることには違いなかった。
まぁ、似たようなタイプなので、いつも別れの際には、
「まぁ、しんどいですけど、頑張りましょう(年上なので敬語)」なんてことを言い合っていたわけだ。

それは間違いなく本心だったし、それが最もその場にふさわしい言葉だと思っていたのも事実。
でも、いつからか、この挨拶、なんか変だなと思っていた。
使い回しの定型文みたいになっていたというのもあるけど、多分、それだけじゃない。

「本当にこの人生っていうのは、そんなに辛いものなのかなぁ」と思うようになったからだ。
一応弁解しておくけど、僕の人生が辛くなくなったという意味ではないし、
辛いと思うのも楽しいと思うのも自分の心次第だ、という意味でもない。
ただ、なんとなく、
「僕らは辛い辛い言い合ってるけど、それってただ傷を舐め合ってるだけじゃないのかな」
と思うようになったからだ。
共通の悩みを持つ人、その人にしかこの話は通じない、と言えるような、
そんな相手を持てるということは本当に恵まれたことだと思う。
でも、そう思う自分の心の中に何か不純なものがあるような気が段々としてきた。

「僕らは、いや僕は、本当に辛いのだろうか。
 辛いと言うべき理由があるから、辛いと言っているのだろうか。
 本当にそうなのか?
 本当は、辛いと言いたいから、人生を「辛いもの」に変えてるんじゃないのか。
 『僕は辛い。あなたも辛いんだね』、そう言わせてくれる相手を欲しただけじゃないのか。
 辛いから辛いと言っているんじゃない。辛いと言いたいから辛いと言っているんだ!」

そう気付いた。
じゃあ、なんで「生きるのはしんどい」と思いたかったのか。
そんなのは、もう10代の頃からわかってた。
抵抗がなければ、生きているという実感が得られないからだ。
進む足が「重い」と感じるから、「頑張ってもう一歩」前へ進めるのだ。
超えがたい壁があるから、「超えたい」と思えるのだ。
「勝てない相手」だから、「勝ちたい」と思えるのだ。
そうやって、推進力を得ないと、人は歩けないのだ。
立ち止まると自分が「無」になってしまう。
動いているからこそ、自分自身に価値を見いだせる。
何もするべきこともなく、してはいけないこともなくなってしまっては、
世界から「あなたはいてもいなくてもどっちでもいい」と言われているようなもの。
それは耐えられない。
だから、前に進むことでしか、自分を感じられない。
そのためには、わざと窮屈なところに飛び込みさえする。
制限を欲するのだ。「なんで制限があるんだよ!」と文句を言うために。

自分の口から発せられる「辛いなぁ」という言葉の中にそんなものを見たのだと思う。
もっとも、僕は「辛い」「死にたい」なんて言葉はブログでしか言わないようにしてるけど、
大学時代の友人が「辛いなぁ」と言うたびに、「辛いですよねぇ」と返していたのは確かだ。
「辛くなんかない!」でも「もっと頑張れ!」でもなく、「僕の方が辛いですよ」でもなく、
「(人の世ってのは)辛いですよね」と返していた。

あえて言うなら、「僕の方が辛いですよ!僕の話を聴いて下さい」と返していた方が、
人間として親切だったかもしれない。
僕はそこで、自分の話をせずに、相手の「辛い」を広げて深めて「あげよう」とした。
「その『辛い』を存分に出していいんですよ」とでも言うような空間を作って「あげた」。
偽善ではなく、確かに思いやりからなのだが、
そんな自分にいつからか吐き気を催すような嫌悪感を持つようになった。

ちょっと話がそれたかもしれない。
「辛いですね」と言いたくなくなった理由として、「辛いと思いたいから言っているのだ」ということと、
「自分に偽善のようなものを見るようになった」ということと、二つ言ってしまったけど、
その二つは繋がっているような気がする。
偽善ではないのだ。
だが、先の見通しの悪い思いやりは、ふり返って見直してみると、醜くさえ見えるのだ。
相手が「辛い」と言ってきたときに、相手の「辛い」に合わせざるを得なかった自分の無さ、
自己の世界観の無さ、それを情けなく思う。
「辛くなんかないよ!」でも「そりゃ辛いよ」でもなんでもいいから、
自己の世界観を背景に語れるようになりたいものだ。
相手に合わせて主体性を失うのではなくて。
鬼が出ようと、蛇が出ようと、「辛い」と言う人間が出ようと、
「そんな奴らは皆ペテン師だ」と言えるくらいでないと人間として駄目だろうな。
こう言うと誤解されるだろうけど。

でも、メールの別れの挨拶で、「辛いけど、頑張りましょう」ときたら、
頑張るとも頑張らないとも言えず、「まぁぼちぼちやりましょう」としか言えない自分ではある。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/03 20:43

間抜け

この間、『反省点なし!』という記事を書いたが、
よく考えるとあれほど恥ずかしい発言はない。
「私には道心がありません!」と暴露しているようなものだから。
恥を恥とも感じない恥ずかしさ。

あそこで言いたかったのは、
僕は「何かを間違った結果、今苦しんでいるのだ」とは思っていないということ。
ただそういう流れが来ただけだということ。
僕が「正解」を踏み外した結果、その報いを受けたということではなく、
ただ、なることがなっているだけだということ。

確かに、暗くて重い波に呑まれてしまったのは僕の至らないところではあるが、
波が来たこと自体は僕の過失でもなんでもない。
押し寄せてくる水や漂流物は確かに僕が拵えたものではあるが、
「波が来る」ということそれ自体は僕によるものではない。
それぐらいの気持ちで書いた。

でも、恥ずかしい・・・。
呑まれるなよ。
それは恥だぞ。
それを恥だと感じることができない。
それは僕に道心がないからだ。
「恥ずかしいこと」ではなく「恥ずべきこと」なのだ。
自分のその至らない様を大っぴらにして、平気でそれに気付かないでいた。
そのことは恥ずかしく思う。
別に隠さずどんどん書いていけばいいが、
いばることではない。
書き方の微妙なニュアンスで、見る人が見れば道心のあるなしは一発で見抜かれる。
きっとそういう人は僕のことを責めはしないだろうということはわかっている。
僕でもある程度は見抜けるし、見抜いても別にその人のことを切り捨てようとは思わない。
むしろ多分親しみを覚える。
でも、自ら恥じるべきことだとは思う。
それくらいの道心の芽は僕にもある。
全くないのではない。ただぼんやりしているだけ。
あれは、「私は間抜けです」と宣言したようなものなのだ。
「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/18 21:03

それが正解

正解だとなぜわかるか。

自分が正しいと思う。
・・・だけでは、「自分が間違っているのかもしれない」という疑念がついてまわる。
「正しいのだろうか」「正しくないのだろうか」という二つの極に引き裂かれる日々。

そうでない正解は。
「正・誤」以外に「純・雑」「自然・不自然」がポイントになる。
無理がない。だからそれが正解。
「無理がない」を以て正解とするのではなく、
無理がない=正解。

最も純粋。だから正解。
それ以外が不純だとわかるから、それが正解。

落ち着くところに落ち着いた、だから正解。
落ち着いてしまったのだから。
落ち着きのない挙動不審な人間があっちへ行ったりこっちへ行ったりする。
いつも怯える。「正しいのだろうか」「正しくないのだろうか」。

「でもそれでは客観的な正解ではないかもしれない」。
そう言う人は自分が「客観」という視点に立って考えていると思いこんでいる。
フェアなところで勝負しないと、と。
でもまずフェアな視点にすら立てていないのだから。

「客観的に考えねばならない」というのはフェアな宣誓のように聞こえるが、
それは「客観的に考えずにはいられない」というごくごく人間じみた感情の表れである。
「客観的でなければ安心できない」という不安の表れである。
ただ安心したいという心から生まれたものなのだ。
それはフェアでもなんでもない。ただのフェアになりたいとの願望。
本当のところ、その人は客観か否かを問うているのではない。
ただ心に引きずられているだけ。
自分はそうであると思い込むことによって何とか自分を保とうとするギリギリの頼みの綱。

真に「正しいか」「正しくないか」を問うのに、その不安な心は必要ない。
「何のために正しくありたいか」「何のために正しくあろうとするか」、
それを本当の意味で問うことこそが必要。
引きずられるのではなく、自ら問う。
それこそが最もフェアな動機となる。
その動機を以って初めて人は「正しく在る」ことができる。
「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/17 20:35

つま先早歩き

歩くときにつま先を少し上げる感じで、
つまり足裏で蹴って歩かないように最近気がついたときにしていて、
それで改めて思った。
僕は普段踵にほとんど体重をかけないで歩いている。
ずっとつま先の方に体重が乗っている。
蹴らないようにしてみて、踵に体重を乗せてみてそれが初めてわかった。
なんでそんなことをしてみたのかは置いといて。

踵に体重を乗せるとどっしり感が違う。
存在のどっしり感。
呼吸も深くなる。

僕は外に合わそう合わそうとする。
行けと言われたらすぐ行けるように。
違うと言われたらすぐ去れるように。
また、焦りもある。
行かねば、行かねば。早く、早く。
前のめり。
前に倒れるような位置に重心を置いている。
全くもって、地に足が付いていないとはこのことだ。

つまりは、「そこにいない」のだ。
いつも、仮にそこに居させてもらっているかのような申し訳なさ。
すいません、すいません、すぐ去ります、すぐ去ります。
しばらくここを汚してしまいます、すいません、すいません。
いつも「いなくなる」ことを前提にして生きている。
そんな思いが、「つま先歩き」に出ているのだろう。

歩くときでも立つときでも、しっかり踵にも力を分散させると
「ここにいる感」がぐっと出る。
そんな感覚を持ちながら歩いていても、
横断歩道の途中で信号が赤に変われば、
はっと息を呑んでまた、つま先早歩き。
別に息を深く吐きながらどっしり歩きをしても、
早く歩こうと思えば歩けるのに。
不意なところで自分の素が出る。
この辺は本当に鍛練するしかないんだろう。
「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/04/26 15:48

ご機嫌伺い

・外側に合わせるというのは神のご機嫌伺いなのだ。
それは言ったら悪いが神の奴隷なのだ。
自分の存在は神次第。
でもそれじゃ遠い。神が遠い。

・神に奉仕したら気持ちいいだろうなと思う。
がそうするとまた自分は善人、選ばれた人間だと思ってしまう。
だから奉仕もそこそこにしておいて気持ちよく感じたら
すぐ手を引くようにしている。
また愚を演じてはいけないから。
すぐ調子に乗るから。

殊勝な心がけだ。
でも今は別のことを思っている。
神様のご機嫌伺いなのだ。
これで正しいですかと。僕はこれで合ってますかと。
だってどういう立ち位置がいいのか分からないんだから。
外れるのが怖いのだ。
でもわかるよね。
それは奴隷だよ。

信仰者になりたいけど
本気でそうすると信仰者ではなくなってしまうから、手加減する。
調子に乗らないように距離を調整する。
でも、ご機嫌伺いをしているのははっきり言って、神様が遠いよ。
真の信仰者は手加減なんてしない。
神様に許してもらうために生きたりはしない。
正しくあるためになんか生きたりしない。

楽しいと思うこと、気持ちのいいことをしてもいいのだ。
ずっと僕はそれがひっかかっていたのだ。
何をなすにも戒めの鎖があった。
失敗しないように。失敗しないように。
真面目だった。あまりにも真面目だった。哀れなくらいに。
でも失敗してもしなくてもどちらでもいいのだ。

・残念ながら自分のしたいようにするのが神に適う生き方らしい。
その点は僕は下の下だ。
だが、自らで自らを傷つけるの罪を知る道は歩いてきた。
そこに僕の道があったのであり、そこで活かせるものもまたあるだろう。

・僕は胸に楔を打ち込んでいた。
楽しんではいけない。幸せになってはいけない。
自分の人生は滅茶苦茶にしないといけないんだと。
そういう誓い。
残念だけどこういう考え方もできるんだよ。
あの出来事のせいじゃない。
僕は制限が欲しかったのだ。
無が怖いから。
制限が欲しいからあの出来事なり何なりを引っ張ってきた。
ともかく今こういう状況に落ち着いた。
落ち着いてるだろ。
心の投影なのだ。
僕が欲していたという面もあるのだ。
それは酷なことだけど。
「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/04/11 20:34

すべて自業自得なのだとしたら、これは不幸もしょうがないな。
甘んじて受けるしかない。
何の不純もない真っさらな状態が自分の標準の状態で、
そこに意味もなく不幸が訪れているのかと思っていたが、
不幸も不調も、すべて自業自得なのだ。
だから不調も不快もあってはならないものではなく、背負うべきものなのだ。
自分で招いたものなのだから。
宿業なのだ。
無くなれと願うのは無責任だ。
これも僕なのだから。
体の不調も不快も、ずっと叫び訴えていたのだ。
それを消すとか治すとかではなく、受けてあげないと。
それだけの恨みなり訴えがあるなら、それを受けてあげないと。
それだけのことをしてきたのだから。

何もないのが当たり前なのではない。
生きていればそりゃまずいこともたくさんする。
そしたらそれを受けてあげないと。
すまんかった。
幸い僕の訴えは命を奪うほどのものではないかもしれない。
でも仮にそれのために命を落とすことになろうとも、
僕は僕のためにそれを謹んで受けねばならない。

人間というのは真っさらなものではなく、経験の塊なのだ。業の塊なのだ。
一度の経験は一生涯ついてまわる。
それが良いものでも悪いものでも。
過ちの清算なんてできない。
どれだけ薄くすることはできても、なかったことにはできないのだ。
そこにいたという痕は残る。
それでもって現在が成り立つのだ。
すまんかった。本当にすまんかった。一生背負っていくよ。
「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/04/10 20:42

自我

・僕のアイデンティティのしがみつきパターン。
「自分は正しいのだろうか」
正しくなければ存在が許されないとの強迫観念。

・することが無くなってしまったら死んでしまうような気が。
でもそれがいわゆる自我の死では。
死なないようにと頑張っている。
悩むことによって現世に留まろうとする。
問題を抱えることによって。

・罪悪感、劣等感。
この状況でそれは幻だなんて言えますか。
幻だなんて言ったら人として死んでしまう。
もう罪を背負うことでしか生きられなかった。
居たたまれなかった。
平然としていることができなかった。
だから背負ったのだ。生き延びるために。

いや、危機に瀕して仕方なくそうしたのではない。
自我はもっと狡猾。
生き延びるためにわざと危機を演出し、罪悪感を背負い、
憂い悩むべき問題を手に入れたのだ。
問題に直面しての防衛策ではない。

・人はちゃんとしているのに自分だけがちゃんとできない。
その思いこみは信じて疑わない。
しかし皆同じことを考えているのだ。

・僕は特別な悩みを抱えているから。
人に話してわかってもらえるものではないから。

僕は特別な悩みを抱えているから幸せになれないのではない。
自我が生き延びるために「特別な」悩みという幻想を作り上げたのだ。

・罪悪感、これが僕の核のようなものだから、決着をつけないといけないな。
他のことならそれが幻だと見抜いていくことは容易だろう。
だがこれは僕のすべてと言ってもいいものだから、いずれ向き合わねばならない。

・問題の大きさに特異さは関係ない。
特異だから時間がかかるとか手こずるとかそういうことではない。
自我がそう思わせているのだから。
これは誰にあっても起こる事実。
皆あえて問題を背負い、そしてそれが「人と違う」と思い込む。
そうすることで延命を計る。
理由がなければ生きられない。
止まったら死んでしまう。

・なぜ自らを傷つけたがるのだろう。
否定したいのだろうか。これは僕ではないと。
傷つけて、自分はこんなじゃないと。
罰を受けないとという罰受けたがり傾向。
そこに僕のこれまでの生き方の癖が。

・ひもじい思いをすることで自分を確認できる。
制限、圧迫を感じることで自分を感じられる。
これが僕のパターンか。
そんなパターンにしがみつくなんて嫌だな。

「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/03/28 21:39

心の檻

・僕は、あたかも簡単に、自分のここが駄目だという。
でもそれをどうにかするということは容易なことではないのだ。
皆本当につまらない問題に何年も何十年もかかずらっている。
でもそれは確かにつまらないことだが、容易にどうにかできるものではないのだ。

・するべきことはありすぎるほどにある。
何もないということは決してない。
しかしそれは神に鞭打たれるから仕方なくやるのではなく、己の意志でやるのだ。

やらなければならないことができない。
それは本当に辛いことだ。
本当に人生というのは不思議なもので、
人生はこんなに些細なことで溢れているのに、
その些細なことの一つひとつが言葉にできないほどに奥が深い。
それはその分だけ人間の情が深いということでもある。
どんなにちっぽけな悩みでもそれは悩むには十分すぎるほどの悩みなのだ。

・最近なぜ行き詰っていたのかわかった。
また自己中心的なものの見方をしていた。
運命とか宿命とかいうもの、あるいは神の意志など、
そういうものを排除していく見方。
自分に考えられ得るものが世界のすべてだと思ってしまう。
世界を自分の見たいようにしか見ない。

神が自分を見守っていてくれていると思うのはフェアではない。
自分を慰めたいからそういう考え方をしたがるのだ。
だから僕はそういう考え方はしない。
確実で絶対の根拠のあるものしか土台にはできない。

そうだった。
かつてそう考えて行き詰っていたのだった。忘れていた。
もしかしたら神は僕を導いてくれているかもしれないのだ。
別に本当にそうなのかどうかはどうでもいいのだ。
そうやって心を開くことが大事なのだ。
自分の心の中にある檻を破るのが大事なのだ。
その檻のことをこの間は唯物思想とか言ってみたが、
それは仏教でよくいうところのはからいとか分別ということになるのだろう。
自分の中の理を絶対の理と思いこみ、自ら世界を住みにくいものとしてしまう。
理に屈服してしまっているのだ。
しかしそれでは理が人間の仮面を被って生きているようなものだ。
本当に生きているのは誰か。
本当に生きているのは神だろう。
自分の内側にある自分を超えたものに対する信頼だけは手放しては駄目だな。
これを手放すとすべてが狂う。
が、容易に手放してしまうのもここ最近で体感済み。
あとはそのときの勢いで自ら命を絶ってしまうことだけはしないように。
「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/03/20 15:42
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