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自分は泣こう

少し縁があって宗教法人の大本というところを知り、
以前興味を持って調べたことがある。

大本の教義などには霊界や神の話が出てくるので、
それは僕には「わからない」としか言えないが、
そういうものを抜きにすごく魅力的な人がいる(故人)。

三代教主補(三代教主の旦那さん)の出口日出麿(ひでまる)さん
という方で、その方が若い頃に書かれた日記を読んで、
一気に引き込まれた。

以下はその方の日記をまとめた『生きがいの確信』の中の詩。
これを人に見せるためではなく、
自分の日記として書かれたというところに僕としてはものすごく魅力を感じる。



血みどろになって
どうやらこうやらここまできた

ふり返ってみれば
おおぜいの人たちが
自分のたったさっきまでたどった路を
自分があえいだと同じように
喘ぎつづけている

みよ あの急勾配の坂を
あそこで自分は
どれほど苦しんだことだろう!

喉はかわく 息はせまる
肉にくっついた重い荷が肩をしわらせる

ああ だめだ! と
心中で幾度叫んだことだろう

辛抱なさいもう少しだ
そう言って
自分の背を押してくれた人があった

ああ あの時 あの人がいなかったら
自分はとうに息がきれていたのだ!

選まれた者だけが
登れる山だって?
いいや、そんな不人情は
自分が人間である限り
言うことは許されぬ

見ゆる限りの兄弟たちが
ひとり残らずここへ来て
ともに手をとって踊る日までは
自分には踊れぬ

見ゆる限りの兄弟たちが
ひとり残らずここへ来て
ともに手をうって笑う時までは
自分は笑わぬ

見ゆる限りの兄弟たちが
あの血みどろの世界から
解放されてしまう日までは
声を限りに
自分は泣こう
今日も泣こう
明日も泣こう
あさっても泣こう

神さまどうぞ
今少しく試練を和らげたまえ
今少しくさばきを軽くしたまえ

神さまどうぞ
すべてを許す救いの綱をたれたまえ
彼らがみんなここへ来るまでは
自分は祈ろう声をかぎりに
今日も祈ろう
明日も祈ろう
あさっても祈ろう
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好きなことば | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/21 20:30

アンパンマンのマーチ

先日NHKの『爆問学問』という番組で
爆笑問題とアンパンマンの作者やなせたかしさんが対談していた。
やなせさん作詞の『アンパンマンのマーチ』が震災後話題になっていたが
改めて良い歌詞だなと思った。


 そうだ うれしいんだ
 生きる よろこび
 たとえ 胸の傷がいたんでも

 なんのために 生まれて
 なにをして 生きるのか
 こたえられないなんて
 そんなのは いやだ!

 今を生きる ことで
 熱い こころ 燃える
 だから 君は いくんだ
 ほほえんで
 そうだ うれしいんだ
 生きる よろこび
 たとえ 胸の傷がいたんでも
 ああ アンパンマン
 やさしい 君は
 いけ! みんなの夢 まもるため

 なにが君の しあわせ
 なにをして よろこぶ
 わからないまま おわる
 そんなのは いやだ!

 忘れないで 夢を
 こぼさないで 涙
 だから 君は とぶんだ
 どこまでも
 そうだ おそれないで
 みんなのために
 愛と 勇気だけが ともだちさ
 ああ アンパンマン
 やさしい 君は
 いけ! みんなの夢 まもるため

 時は はやく すぎる
 光る星は 消える
 だから 君は いくんだ
 ほほえんで
 そうだ うれしいんだ
 生きる よろこび
 たとえ どんな敵が あいてでも
 ああ アンパンマン
 やさしい 君は
 いけ! みんなの夢 まもるため



一番と二番の
『なんのために 生まれて
 なにをして 生きるのか
 こたえられないなんて
 そんなのは いやだ!』

『なにが君の しあわせ
 なにをして よろこぶ
 わからないまま おわる
 そんなのは いやだ!』

のところもいいし、

『今を生きる ことで
 熱い こころ 燃える』

『時は はやく すぎる
 光る星は 消える』
で、
『だから 君は いくんだ
 ほほえんで』

に繋がるところも感じるものがある。

僕の口から出ると変かもしれないが、
『そうだ うれしいんだ
 生きる よろこび』

・・・の部分がいい。



好きなことば | コメント(5) | トラックバック(0) | 2011/12/02 21:35

太宰治『人間失格』

下の書いたのは太宰治の『人間失格』の中の文章。
こういう文章を紹介しても、
教養になったり知見を広げることになったりは特にしないと思うけど、
ここには一人の人間のリアルなものが表現されていると思うので紹介する。

もちろん、これは小説内の文章なので、
空想上の人物の発言であり、また誇張されているところもあり、
そういう意味では全くリアルではないけど、
小説にしたからこそそこに太宰治のリアルが現れているとも言えると思う。
リアルなものが誇張されることによって歪むのではなく、
誇張されたものこそが太宰治のリアルだと思う。
それはともかくどうぞ。



 めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか
聞こえませんでした。その迷信は、(いまでも自分にはなんだか迷信のように思われて
ならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食
べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど
自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉はなかったので
す。

 つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事にな
りそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食い
ちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけ
たことさえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実
にしばしば、仕合せ者だと人に言われてきましたが、自分ではいつも地獄の思いで、か
えって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっ
とずっと安楽なように自分には見えるのです。

 自分には、禍いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が背負ったら、その
一個だけでも十分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと思った事さえありました。

 つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないので
す。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、
それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨な
阿鼻地獄なのかもしれない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺も
せず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦
しくないんじゃないか?エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、い
ちども自分を疑った事が無いんじゃないか?それなら、楽だ、しかし、人間というもの
は、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない
好きなことば | コメント(15) | トラックバック(0) | 2011/10/10 15:11

『神谷美恵子日記』

最近昔好きだった本をよく読み返している。

ハンセン病(らい)の患者の治療や『生きがいについて』などの著書で
有名な精神科医の神谷美恵子さんの日記(『神谷美恵子日記』)を少し読んだ。
1939年(25歳)と1949年(26歳)の部分。
相変わらずこの人の文章を読むと燃えてくる。
自分と同じ位の年齢のときのものだから余計に感じるものがある。


1939年
『軋轢のある、神経の緊張した、なやみの多い世界でないとだらしがなくなる。』

『こういうような「健康な」社会が社会進歩の理想だとすると少々考えねばなら
 ない。
  凡庸なる民衆を作り出す物質的にゆたかな平和な社会と、少数の優れた
 人を出す軋轢の多い社会とどちらがいいかと言われたら私のSollen[あるべ
 きこと]の念は前者を選び、私の野性は後者をえらぶだろう。』

『私は自分一個のためにもう十分苦しんだ。今はもはや自分のために苦しん
 でいる時でも喜んでいる時でもない。』

『誰しも真摯に己が進むべき道を求めて行けばそれでよい。どの道がより尊い
 と言う事はない。
  しかし私は私、と言う事も今度一層はっきりした。』

『私は私の問題をもはや彼(注:兄)に考えてもらおうとは思わない。だって私の
 問題は彼にとって問題になり得ないもの。(中略)そして自分の問題は神様と
 の間のみで決めるべきなのだ。誰にも―いいか誰にも、神様のみに聞くべき
 処を迄聞いてはならぬ。私はこの間ちがいを時々犯して来た。』

『ああ、今私は「私でありたい」純然たる願いで一杯だ。かり着で生きる事だけ
 はしたくない。』

『病気の人の相手をして自己満足するのが私の目的ではない。病的なものに
 は私はもう心からの嫌悪を感じる。(中略)だから私は人を、人の心を、体を、
 社会を、健全にするために一生を燃やしつくしたいのだ。』

『自分をもてあます、祈る時のみ平安。
 主よ私の心の混乱をどうにかして下さい。私にはもうわからなくなりました。』

『たとえ失われても惜しくもない。要するに装飾的なものではないか。
 (注:高い語学力ゆえの国際的な舞台での活躍の機会について)』

『私も、もし私の使命と信ずるところを単なる便宜などのためにすてたら自分自
 身に対するrespect[敬意]を失うだろう。否、それは自分に対してというよりも
 もっと大きなものだ。
  学校をやめて以来、もっと常識的な道をと考える様につとめればつとめるほ
 どself-respect[自尊心]を失って、けものの様になるより他なかった。
  人の使命というものは、その人の存在意義にかかわるから、これほど大き
 な事なのだ。単に自分一個の幸不幸の問題ではない。
 地味に、コツコツと勉強し、生活したい。寒い処でふるえながら勉強し働きたい。
 家庭と仕事の間の板ばさみになるのも私らしいと思う。あまり楽な処にいると
 水から出た魚の様に無気力になる。』

1940年
『人間はこうして、生涯に幾度か生物が脱皮する様に、全然過去と決別して新し
 い生活へ移るものなのだろうか。そして死がその最後のものなのかも知れぬ。
 今の自分にとって、過去との決別はまだ痛い。しかし新しき未来の光は日々い
 やまさりてまぶしい。十年近くもの間、苦しむために生きていた様だった。その
 意味は?と考えると深淵をのぞく心地。「苦しみ」という事は、何故、あるのだろう。』

『宇宙を創り、その中に、かかる「我」を創りて置き給いし者を思うほどの平安は
 またとあろうか。何が起こってもよいのだ。このまますべて中途半端で死んで
 も、あるいは長寿を全うしてこの世にいささかなりと足跡を残そうとも、根本的
 に大した違いはないのだ。創られし目的に忠実に生きる、それだけだ。』

『悲劇の原因が己の本質に根ざすことを知った者には愚痴はない筈。』



多くの人から尊敬される人物だが、
彼女の為したことが偉大であり人格的に優れたことなのだから
尊敬されるべきなのだ、とは僕は思わない。

この人にはこうするしかなかったのだと思う。
自分と真摯に向かい合って生ききったという意味において
この人は尊いのだと思う。
そんなことを昔考えていたのを思い出した。
とにかく今の僕は発奮させてくれるものを求めている。
好きなことば | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/04 22:25

語ることをやめて じっと、こらえているんです

再び相田みつをさんの詩を。

最近紹介ばかりになっていますね。
最近で日記に書こうと思うようなことは
あまりブログで公開できるようなものじゃないので、
まぁ、しょうがないです(笑)



『憂』

むかしの人の詩にありました

君看よ、双眼の色
語らざれば、憂い無きに似たり

憂い……が無いのではありません
悲しみ……が無いのでもありません
語らない、だけなんです
語れないほど、深い憂い―だからです
語れないほど、重い悲しみ―だからです

人にいくら説明したって
まったくわかってもらえないから
語ることをやめて
じっと、こらえているんです
文字にも、ことばにも
到底表せない
深い憂い―を
重い悲しみ―を
心の底深く、ずっしり沈めて
じっと黙っているから
眼が澄んでくるのです

澄んだ眼の底にある
深い憂いのわかる人間になろう
重い悲しみの見える眼を持とう

君看よ、双眼の色
語らざれば、憂い無きに似たり

語らざれば、憂い無きに似たり
・・・・・・・・ ・・・・・・・・
・・・・・・・・ ・・・・・・・・




「人にいくら説明したって…」
のところが好きです。
最近はこの「じっと・黙って・こらえる」イメージに励まされます。
己は己が生きるしかありません。
誰も肩代わりはしてくれないのですから。

誰にわめき散らしても
誰によりかかっても
誰に未来の自分を重ねても
己は己で生きることに変わりはないのですから。
またそこにこそ喜びがあるのでしょうが。
好きなことば | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/08/25 21:15

相田みつをさん

相田みつをさんの作品を。


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2、3年前に相田みつをさんの作品はいいなと思うことがあったが
それ以降は見る機会がなかった。
この間偶然見る機会があったが、やっぱりいいなと思った。
当時は思わなかったが、こんなに仏教的な人だったのか。
仏教的な作品がたくさんあった。
調べてみると、やっぱり在家で参禅されていたようだ。

画像は見つからなかったが、

『一番大事なものに 一番大事ないのちをかける』

というのもあるようだ。

この人の作品では『人間だもの』とか『そのままでいいがな』などが有名だが
これは単なるヒューマニズムというか、「人間よしよし」というものとは違うと思う。

失敗したときや物事が上手くいかなくなったときにだけ
都合よく「それでもいいんだよ」と言うものではなくて、
失敗しようと成功しようと関係なく
人間の根源的な愚かさ弱さを引き受けて、じっと黙って生きていく、
という姿勢のものだと僕は思う。

悟りすました人に「君、頑張らなくてもいいんだよ」と言われるよりも
「自分は駄目だなぁ、もっとこうしないと」と己と真摯に向き合っている姿を
側で見せられる方がきっと力になる。心を洗われる。
みつをさんの詩はそういうものだと思うから
きっとなんだかんだで人気があるんだと思う。

好きなことば | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/08/24 22:39

なすべき目的がないなら、どうして命を大切にすると言うことができよう

駒澤勝著 『目覚めれば 弥陀の懐』 という本を見つけた。
著者は小児科医らしい。
気になるところがあったので紹介させてもらう。
仏教の本だが、ここでは仏教に触れないので仏教嫌いの方はご安心を。


『加えて、この種の質問や問題提起は、人生をいかに豊かに、快適に生きるかの
 視点から起こるもので、人は、人生を(快適に)生きて、その上で一体何をすべ
 きかの視点が欠けている。
  平素私たちはさまざまな問題に立ち向かいながら、皆あくせくと一生懸命生き
 ている。人生を快適に、豊かに、長く生きることには全精力を費やしているが、
 多くの人は「一体何のために生きているのか」、あるいは「生きている間に一体
 何を為すべきか」についてほとんど何も考えず、全く問題にしない。』

『見受けるに、大多数の人がさまざまなパン(注:生きるための)を食べて、その上
 で何をすべきかを知らない。問題にもしない。
  確かに私たちが生きるには、さまざまなパンが必要である。健康以外にも、衣
 食住から始まり、政治も経済も、教育も道徳も、産業もレジャーも、平和も必要
 である。場合によっては戦争さえも避けて通れないことがある。科学も、芸術も
 そうである。環境学も、工学も、商業学、農学、社会学も歴史学も、生きるため
 には、みな必要である。
  でもこれらはすべて、自分や他人が生きるための手段であって、決して目的
 ではない。やはりパンに過ぎない。「他人のためになる仕事をする」「夢をかなえ
 る」「それが目的だ」、などと言うのを聞くことがある。でもその仕事や夢も、たと
 えそれが世界平和の達成や、大政治家、医学的大発見、第二のイチローであ
 ったとしても、ほとんどは言うなれば自分や他人のためのパン、つまり手段であ
 って目的にはなっていない。
  どうやら私たちは、ただパンを作るためにのみひたすらパンを食べ、パンを食
 べるためにのみひたすらパンを作り続けているようなものである。パン作りとパ
 ンの交換、パンの分配には随分長けてきたが、パンを食べて何をするかは、少
 しも問題にしていないことになる。』

『よく「命を大切にする」と言うが、それには二つの意味があると思う。一つは自殺、
 他殺はもちろん、健康を害するものを避けるなどして命を長く保つということ。も
 う一つは命を有効に使う、意義ある人生を送ることである。後者こそ本当に命を
 大切にすることになると思うが、もし生きている間になすべき目的がないなら、
 どうして命を大切にすると言うことができよう。「生きていなければこれこれのこ
 とができないから、命が大切だ」と言うのならわかるが、生きて特別何もするこ
 とがないなら、いくら命を長らえても命を大切にするとはいえないはずである。』


以上、問題の出発点が僕と同じなのでブログに書かせてもらった。

僕は仏教に興味を持っているが、それでも仏教の本はごく一部しか読まない。
書店には仏教の本が意外にたくさん並んでいるが
心が軽くなろうが、楽に生きられようが、苦しみがなくなろうが、
そんなことは僕にとってはどうでもよくて、二次的で、
そもそもそれ以前の「なぜ生きるか」を問題にしてくれないので読む気にならない。
(本当の宗教とはそんな小手先のものじゃないはず)

為すべきこともないのに
「幸福になった」「成長した」とはしゃぐ気にはなれない。
自分を喜ばせて、そこから「何を為すか」という問いが出てくるのに
多くの人は自分を喜ばせたその時点で満足してしまう。

案外同じような悩みを持っている人がいないようだから、
この本を見つけたときはちょっと安心した。
好きなことば | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/08/22 22:40

それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ

今回も夏目漱石『私の個人主義』の続きです。

前回では漱石の苦悩とそれからの脱却(それ以後も苦しんだようですが)の体験
について紹介しましたが、
今回は、漱石の学生に向けての激励を紹介します。
僕は初めて読んだときはものすごく励まされました。


『以上はただ私の経験だけをざっとお話ししたのでありますけれども、
 そのお話しを致した意味は全くあなたがたのご参考になりはしまいか
 という老婆心からなのであります。あなたがたはこれからみんな学校
 を去って、世の中へお出かけになる。それにはまだ大分時間のかか
 る方もございましょうし、またはおっつけ実社界に活動なさる方もある
 でしょうが、いずれも私の一度経過した煩悶(たとい種類は違っても)
 を繰返しがちなものじゃなかろうかと推察されるのです。私のように
 どこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴みたくっ
 ても薬缶頭やかんあたまを掴むようにつるつるして焦燥れったくなったりする人が
 多分あるだろうと思うのです。もしあなたがたのうちですでに自力で
 切り開いた道を持っている方は例外であり、またひとの後に従って、
 それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして
 申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)
 しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘
 り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。いけない
 というのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不
 愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならな
 いからです。私のこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を
 模範になさいという意味ではけっしてないのです。私のようなつまら
 ないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があ
 れば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それはあ
 なたがたの批評と観察で、私には寸毫すんごうの損害がないのです。私自身
 はそれで満足するつもりであります。しかし私自身がそれがため、
 自信と安心をもっているからといって、同じ径路があなたがたの模範
 になるとはけっして思ってはいないのですから、誤解してはいけません。』


やはり「寸毫の損害がない」と言い切るほどの自信と安心を得るには、
「自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚」がなければ無理なんでしょう。
借り物で着飾ったところで安心は得られません。


『それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもし
 ばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。
 もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする
 人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の
 仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道
 があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び
 出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。
 容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首をもた
 て来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数の
 うちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧かもやのために懊悩して
 いられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘
 当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家の
 ためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族の
 ために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のた
 めに、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし
 私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかに
 こだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。
 ――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かに
 ぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は忠告がましい
 事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなた
 がたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙っていられなくなる
 のです。腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあ
 るというような海鼠なまこのような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が
 不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっ
 しゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越しているとおっしゃ
 れば、それも結構であります。ねがわくは通り越してありたいと私は祈る
 のであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せ
 なかったのです。その苦痛は無論鈍痛ではありましたが、年々歳々
 感ずる痛には相違なかったのであります。だからもし私のような病気
 に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならん
 事を希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの
 尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯
 の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。』


「もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ」
というフレーズが好きです。
僕自身の経験から言って、この煩悶を抱えていて苦しいのは、
ひょっとして自分はとんでもない間違いをしているんじゃないだろうか、と思うことです。

こんな悩みを抱えていると、普通の人は「そんなことは考えるな」と言います。
僕は心の中で、
“この悩みを無視することの方が間違っている、というか無視しようと思ってもできない”
と思うんですが、
僕の心の中にも常識人がいますから
“本当は考えない方が正しいんじゃないか”と思ったりもしてグラグラ揺れます。
直感と理性(常識)の対決ですね。
その矛盾で苦しんでいます。

ですから
「もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ」
という部分を見て本当に励まされた記憶があります。
何かしらのこだわりがあるということは
自己の創造の余地がそこにあるということですからね。
好きなことば | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/08/03 21:12
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