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ひねくれきった本音

以前にも書いたような気もするし、また書いてないような気もするが、
聖人と悟った人との違いについて思うこと。

僕は聖人といわゆる悟った人とは、別物だと思う。
聖人は悟った人ではあると思うが、
悟った人がかならずしも聖人であるとは限らない。
悟った人は人類史上、数え切れないほどいるだろうし、
この時代においても数え切れないほどいるかもしれない。
でも多分、聖人はずっと少ない。

そういうと、悟った人でさえすごいのに、
聖人はそのさらに上だからとんでもない境地だなと思われるかもしれないが、
そういうことではなくて、別に悟った人は偉くもなんともないということ。
凡人が0、悟った人が50、聖人が100、とかそういうことではない。
凡人も悟った人も0、聖人がそれより上、ということ。

でも悟った人が凡人とまったく同じだというわけではなく、
悟った人は自分が0だと悟った人だというその点においてだけ凡人と異なる。
つまり、「聖人への歩み」のスタート地点に立った人だということ。
そこに道があることを知り、そこを歩かなければならないことを知った人。
でも、怠け癖のある悟った人もいるだろうから、そういう人はあまり進まない(笑)
で、そこを真摯に歩んで高い境地に達した人を総じて聖人とか言ったりする。
別に境界線はない。度合いの問題。

こういう言い方もできる。
悟った人とは自分がいかに駄目な人間であるかを悟った人。
そして今後も駄目さ加減を色んな出来事に触れ痛感していく人(笑)
その駄目なところを一個一個なくしていった人が聖人。
でも、自分の駄目なところにどれだけ出会うかは縁次第だとも言えるから、
怠け悟りの人を別に責めることはできない。
そういう意味では、人間は聖人を目指すべきだと言える一方で、
お前は聖人じゃないから駄目だとかは絶対に言ってはならない。
言ったら僕は怒る。

もうひとつ、こういう言い方もできる。
聖人とは、自分の「変な癖」がだいぶ取れてきた人のこと。
悟った人とは、自分が「変な癖」を持っていることに気がついた人のこと。
そしてそれに出会っていく人のこと。
聖人になっていく過程とは変な癖をなくすことなんだと思う。
そうすると聖人は画一的な人間になることかという気もするが、
不思議にそうではないんだろう。
その辺は実際に聖人に会ってみないとわからない。
むしろ、もっとも自分らしく振る舞える人ではないか。
どうもこういうと僕の領分を越えてしまうのでしっくりこないが。

悟りを開くと初めて聖人への道のスタートラインに立つことができる。
というか、立っていることに気がつく。
気が付いていないというのが悟っていないということ。
本当は皆立っている。

で、これでわかるように、悟った人にも色んな人がいる。
皆悟ったことは同じなのに、その人たちで言っていることがずいぶん違う(笑)
歴史上色んな自称悟った人がいるが、言っていることがばらばらなのはなぜか。
これが合っているかはわからないが、最近こう思う。
悟ったからと言って、視力がよくなったわけではない。
真理が仮に猫の絵みたいなものだったとして、
視力の悪い人は、それを「これは虎の絵だ」という。
あるいは「犬の絵だ」、もっと悪い人は「乗り物だ」「建物だ」「家具だ」。
サングラスをかけている人は違った色に認識するかもしれない。
その辺の視力の悪さ、サングラスの色の濃さなどが、いわゆる個性であり、
変な癖。これまで築き上げてきた変な癖。
聖人になっていくとは、個性的な見方を脱却していって、
なるべく純度の高い目で真理を捉えていくこと。
「なるべく」。つまりこれで終わりというのはないのではないか。

で、不思議なことに、現実世界では猫を絵を虎の絵だと思いこんで
話をしていると、色々と矛盾が生じてくるのに、
なぜか精神世界においては矛盾なく世界が成り立つ。
虎の絵として見るなら、虎の絵の世界がそれで成り立ってしまうのだ。
理解度に応じて徐々に世界がその姿を現してくるのではなく、
パッと見ると、パッと世界がもう目に映るのだ。
ネットの回線が遅いと画像が上端から段階的に現れてくる。
「何か獣の耳みたいなのが見えたぞ」
「ああ、それは猫だよ。でもその下が見えない」
「その下も普通に猫でしたよ」
悟った人においてはこういう会話はなされない。

パッと見るとパッと絵が全部映る。
でも、それが虎とかに見えてしまう(笑)
でも、その人は確かに絵の全体を見ているし、
それはどう見ても虎だし、「虎だ」と言ってしまう。
そこへ、「犬だ」という人が現れたら。
お互い視力がまだ悪いですねという話ができればいいが、
その辺の理解がないと喧嘩になってしまうのではないか。
(そういう僕は何様のつもりか。)
宗教戦争とかも大まかにいうとそういう仕組みだろう。
といっても、多分こういうことは悟った人ではなく、
「その周りの人」「その後の人」達によって引き起こされているように思う。

凡人も世界を自分なりに理解しているのは当然同じ。
見たいようにしか見えない。
皆それぞれ自分の(精神)世界を語り、その世界を生きる。
それは幻というにはあまりにもリアリティのある世界。
だってそこに確かに世界が成り立っているのだから。
別に嘘はついていない。見たままを語る。
でもなぜか他者と通じ合えない。
それがかけているメガネのせいであったと気の付いた人が悟った人、
というところか。

これが今のところの僕の精神内界。
出来上ってます。
でも、明日には全くの別世界に移住することになるかもしれません。
でも僕は別に悪くない(笑)
別に嘘をついているわけではないし、人を騙したわけでもない。
お前のせいでえらいことになったと言われたら、
「すいませんでした!」と言うしかないし、悪いなとは思うが、
でも、別に僕は嘘をついたわけではない(笑)
純度の高い本音が言えなかっただけで。
曇り切った本音を言っただけであって。
盲であったことには謝るが、嘘つきであるとは濡れ衣だから。
結局皆そうで、別に嘘つきの罪を恐れることはないと思う。
何を言ってもいいと思う。
間違ったことを言うなと言われたら、
いえ、濁って淀んで歪みきった、紛れもない正解です、と心の中で言えばいい。
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固定観念を壊す | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/05 22:11

聖人の殺傷能力

人を切り捨てること。
最近こればかりで申し訳ない。
なんとなくこれにフォーカスを合わせていれば
何かが見えてきそうな気がして。


聖人とは何だろう。
僕の中では聖人とは「正しいことができる人」というより、
「正しいことがわかる人」だという印象が強い。
ではその人達の頭の中はどうなっているのだろう。
何を見、何を感じながら日々生きているのか。

「聖人」とわざわざ言うくらいだから
それは俗人とは違うということを表している。
そして聖人はごく限られた人々であるというのが万人に共通の理解だろう。
だとすればそんな聖人の目に世の人は、世の中はどう映るのだろう。

あれも違う、これも間違い、それも正しくない。
世の中は間違いだらけだ。
なぜなら正しいことがわかるのがごく少数の人達だけなのだから。

過ちにも色々あるだろう。
過失のもの。悪意のあるもの。やむにやまれずなされたもの。
正しいとの思い込みでなされたもの。正しいことがわからずなされたもの。
そもそも正しいことがわからないということ自体が既に過ちですらある。

ということは(少なくとも)聖人以外の人々は皆過ちを犯している。
聖人にとっては「皆間違っている」という認識を持つのが当然だ。
果たしてそんな世界の中で生きる聖人に楽しみはあるのだろうか。

「自分以外の皆が間違っている」中で、
聖人はあの人を見ては批判し、あの世相に触れては批判する。
・・・僕から見れば切り捨ての常習犯だ。
聖人になればなるほど、人斬りのベテランになっていく。

間違っているものを切っていけばあとに残るのは正しいものだけ。
というよりほぼ自分だけだろう。
自分一人だけの世界。
間違ったものを切り捨てて出来上がった正しい世界。
そんな世界で生きるのは楽しいのだろうか。
本当にそれが聖人のあり方なのだろうか。
人類史上最高の聖人と言ってもいいだろう、釈迦もキリストも、
果たしてそんな人物だったのか?
人類史上最高の人斬りだったのか?

少なくとも僕が憧れ目指していた聖人というものの正体はそういうものだったのだ。

いや、聖人は人を批判しているのではなく、人を教え諭し、過ちには嘆き悲しみ憂い、
世の中を善い方へと導いているのだ、という意見もあるだろう。
しかし僕にはどうも世の中で「聖人」と定義される人は
皆独善の刃を隠しているように見えるし、
僕自身の聖人の定義もそうなっているし、
僕の「理想の自分の姿」もそうなっている。
そのことは僕にとっては重すぎるくらいに重い。
固定観念を壊す | コメント(5) | トラックバック(0) | 2013/08/26 18:26

誰かの子としての自分

「親には子どもを育てる義務がある」という。
僕には子どもがいないので、
あくまでも子としての自分の立場から思うことだが、
あまり義務とは言わないほうがいいのではないか。

もちろん、法的な問題が絡んでくると義務と言った方が
都合がいいのだろうけど、
少し「義務」という面が押し出されすぎな気がする。
「個別の家庭」においてはそんなことはあまりないだろうが、
「社会」という文脈で話されるときには、そんな気がする。

とは言っても、「親には子どもを育てる義務はない」
をスローガンにして運動を起こそうとか
決してそういうつもりで言っているのではない。
(むしろ反対。)

子どもとしては、最初から与えられたものとして
「親による養育」を受けているという意識がある。
子どもの内はそういう意識を持つことは決定的に大事だと思うが、
ある程度大きくなると、
実はそれが当たり前でなかったと気付いていく、
というのが“良い成長の過程”だと思う。
個人的な好みだが。

そうすると、あまりギムギム言っていると
そういう気づきを得る機会が減ってしまう。
「受けるのが当然だ」という意識が
社会を通しても根深く刷り込まれる。

「義務でないのに育ててくれた。」
こう思う方が子の感動も大きい。

親といえども血縁関係のあるだけの別の人間。
自分とは別の人生を持っている人。
その人が自分(親)の人生というものの中に
この自分(子)を育てる、というのを入れてくれた。
しかもかなり大きな部分として。

そう思った方がいいのでは。
単純に、当たり前、とするのではなくて、
一旦、当たり前でない、というところを経由して、
その当たり前でないことをしてくれた、
という結論に落ち着く方がいいのではないか。

その方がいいとは言ってもどう思うかはその子ども次第だから、
あまりこんなことを言ってもしょうがないが、
社会の中で、義務と言うのをもう少し減らしてはどうかと思う。
結局根っこにあるのは、
「受ける権利がある」と何に対しても考えてしまう
自己中心的な価値観の問題だと思うが。

(タイトルに「誰か」とあるので、
 僕自身が親が誰なのかわかっていないということだと
 誤解された方があったかもしれませんが、そうではなく、
 「誰か」とした方が「他の人」という感覚が出るので
 そうしました。)
固定観念を壊す | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/02/01 20:25

光と闇の振り幅

前回に書いたように、常識を壊すようなものを書きたい。
下に引用したのは哲学者・西田幾多郎の小篇『人心の疑惑』の中の文章。


『心を苦しめ身を役して五十年の飲食をつづけ、
 その結果は焼いて棄つべき臭肉を何十年か維持しまた子孫を遺したまでであって、
 しかしてその子孫がまた同じ無意義の生活を繰り返すものとすれば、
 何とこれより馬鹿らしきことはあろうか。
 かくのごとき生命はむしろ早く打ち殺して茫々の中に投じさる方が
 いかに爽快であるかもしれぬ。
 人間は牛馬のことを笑うがわれらも無意義の性欲のために駆使せられて終生役々たるのは、
 鼻緒に縄をつけられて引きまわされる牛馬とあまり違わぬようである。』


「何としてでも生きなさい」と言う人もいれば、
上に引用したようなことを言う人もいて、
そのどちら側にでもなるべくスムーズにコロコロと移動する自由を保障するのが
安定した社会じゃないだろうか。

人は窮地に陥るほど宗教的になる。
そのときに社会が「常識」しか認めないのでは、報われる人も報われない。
人間というのは世間が考えている以上の振り幅を持っている。

「闇」をメインにする必要は全くないが
(そもそもメインはいつでも「光」だからこれはあり得ないが)、
「闇」を受け入れるだけの知恵を持った社会が熟した社会だと思う。
固定観念を壊す | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/18 21:30

それが本当の宗教か

今の世の中には宗教が足りないと思う。
むしろ多すぎるくらいだと言う人もあるだろうが、
僕の言いたい宗教とはそういうもののことではない。

僕の中では宗教とは
「いかに生きるかとの問いの場に在ること」という程度に考えている。
世界に宗教は数え切れないくらいあるだろうが、
まともな宗教に共通しているのはきっと「自我の死」だと思う。
それゆえに宗教は危ないものになる。

世の中に宗教が足りないと言ったのは
「危ないもの」が足りないという意味だ。
もっと言うなら常識しかないということ。
常識や倫理しかない。
常識外・規格外・世間外・道徳外がない。
日向しか見ずに日陰をなかったことにしている。
社会(世間)がきちんと整えられすぎていて、逆に人間として不自然だ。

常識があれば必ず非常識がある。
でも非常識はないことにされている。
社会の中に常識と非常識を共存させるのは困難だが、
それを許す数少ないものが宗教で、それが宗教の社会的な役割だろう。

宗教の究極は「自我の死」なのだからどうしても非常識な面を持つ。
宗教家には「生きなさい」と杓子定規に言うイメージがあるかもしれないが、
本当の宗教家なら時には「死ね」とも言うはずだ。
「生きろ」と「死ね」をその場に応じて使い分けるのが本当の宗教家だろう。
「死にたい」という人がいたら
「そうか。わかった。」と己の全存在を賭けて引き受けるのが本物ではないか。

あまりにも固定観念にとらわれすぎている。
本来それを壊す役割を持っていた宗教がもう機能しなくなったからだ。
でも今さら「宗教」と言っても
既に強烈なイメージが出来上がっているからその言葉は役に立たない。
代わりに「スピリチュアル」という言葉が流行っているが、
これもたいていは「より良く生きよう」という
固定観念の枠内のものなのでインパクトが弱い。破壊力がほぼない。
「宗教」に代わる新たな言葉がないものか。
本人に宗教と気付かせずに宗教をやらせるような。

「宗教家」と言うと大体の人が
「善の塊のような人」及びそれを演じきっている人か、
もしくは新興宗教の危険な教祖のイメージを持っていると思う。
でも、(後者は論外なので置いておいて)
本当に人生に対して真摯に向き合った人が「善一辺倒」でなどあるわけがない。
むしろ優れた宗教家であるほど善よりも悪に馴染みがあるはずだ。
(悪人ということではない。)
そのことをもっと知ってほしいと思う。
善・正義至上主義の裏で泣いている人がどれだけいることか。

宗教というとただの善という仮面でしかないと思われている。
でも本当の宗教とはあらゆる固定観念を壊していくものだ。
世間が善しか見ていないなら悪を突きつけるのが宗教だ。
世間が倫理・道徳しか説かないなら
学校の「道徳の教科書」を燃やしてしまうのが宗教だ。
よく「これは例外」と言う、その例外が平然と起こり得るのが宗教だ。
「これは正しい」「これは間違っている」と簡単に割り切りすぎだ。
その割り切れない部分にこそ宗教がある。

あらゆる固定観念を壊していって
最後に壊すのが「自分」という固定観念だろう。
本当の宗教なら必ずそこに行き着く。
だからこそ宗教は危険でもある。

宗教、宗教と何度も繰り返したので嫌な思いをされた人もいると思う。
僕自身「宗教」という言葉はあまり好きじゃないしできれば使いたくない。
一応断っておくが、特定の教団に入信するのを勧めるわけではない。
「組織」ほど固定観念がはびこりやすいところはないからだ。
僕が言いたかったのは要は“固定観念を壊したい”ということに尽きる。
固定観念を壊すような発言はエネルギーがあるときにしかできないが
またポツポツと今後書いていこうと思う。
固定観念を壊す | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/17 14:10
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