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未知との遭遇

未知というものは人間に二通りの反応をさせる。
恐怖とワクワク感。
「自分の知らない」「自分の外部からやってくる」ということは、
恐怖ともなればワクワクにもなる。

親鸞は人は条件次第でどんなことでもすると言った。
この人は善人だからこんな残虐非道なことはしない、なんてことはなく、
その人が現在その行いをしていないのは、
今のところそういう条件が整っていないだけであって、
条件が整いさえすればどんなことでもする。
確固たる「その人」なるものが存在するわけではなく、
すべては「縁」次第であると。
これまでどんなことをし、これからどんなことをするかということは、
言ってしまえば、(本人からすると)偶然に依ると。

仏教でいう縁という教えは、外部からやってくる、
「自分を超えたもの」についての言及だと思う。
神なるものが存在し、「この人間」は有用だからここで試練を与えて鍛え上げようとか、
日頃の行いに免じて苦しみを減らし、幸せを増やしてあげようとか、
そんなもんじゃないと。
すべてはただ因と縁と果でのみ成り立っている。
(無軌道と言っていいかはわからないが)その法則に則ってただただ流れるものであると。

けれども一方で、「宿業」という言葉も仏教にはある。浄土真宗でもよく聞く。
宿業とは過去の行いに応じて現在が与えられるということ。
だがこの言葉が厄介なのは、それが単に「これまでの人生」を指すばかりでなく、
「過去世での行い」も含めるということ。
「前世」とか「過去世」とか仏教らしからぬ(?)浮ついた言葉。確かめようもない言葉。

が、これはおそらく浮ついていることに意味がある。確かめようもないことに意味がある。
「自分を超えている」から。
「今生」での行いによってすべてが決まるなら、人生を良くするも悪くするも自分次第ということになる。
頑張れる頑張れないは置いておいて、とにかくきちんとすることさえできれば、
良い人生にすることはできる、とそういう発想が生まれる。
でも仏教はそんな甘っちょろいことは言わない。そもそも宗教は人生訓ではないと思う。
「前生」を持ち出す意味がここにある。
前世の行いに対する責任などとりようがない。
「自分を超えている」。
すべては縁という法則によって決まっているが、しかし自分を超えている。
法則性という必然と、超えているという偶然。

人は生きていて何に苦しむのか。何に出会うと苦しむのか。
未知。自分の預かり知らないこと。
苦しみとは思い通りにならないということ。
思い通りにならない「外部」のものによって人は苦しむ。
苦しみに直面した人の言葉は「なぜ自分がこんな目に」「こんなはずじゃなかった」。
どんなに善行を積んだところで不意に不幸は訪れる。
「自分はそこそこ良い人間だから大丈夫だろう」というはからいを破って不幸はやってくる。
重い病気や障害を持って生まれてきた人に対して、
本物の仏教者が「それは前生での宿業ですね」ともし言ったとしたら、
それはきっと「身に覚えがなくても過去のあなたが悪いのです」という意味ではなく、
「あなたの行いを超えたものとの関係を考えましょう」ということだろうと思う。
自分の思惑を超えて不意にやってくる不幸、災難。
これをしておけば大丈夫という思惑を打ち砕く。

冒頭に戻って。
「未知」は恐怖とワクワクと両方喚起する。
「知らない」ということは恐ろしいことでもあるし、また楽しみでもある。
だが、死という最大の未知に対して、果たしてそれを楽しみとすることができるか。
死とは「最もどうにかしたいけど最もどうにもしようもないもの」。
ワクワクすることは普通できない。普通は恐怖する。
仏教の核心はおそらくこの「自分の外部からやってくる」「自分を超えたもの」
に対して態度表明することにあると思う。

浄土真宗を見ていてよく思う。
ある瞬間からベクトルが逆転する。
「支配」が「保証」に、「偶然」が「必然」に、「運命」が「自由」に、
「奪われる」が「与えてもらう」に、「やる」が「やらせてもらう」に、
「向こうから一方的に」が「おかげさま」に。

「自分」にとっては管理下に置けない「未知」とは恐怖の対象。
「自分」が脅かされる。
だが、ある種の人には、
「自分が未知を支配したい」から「自分が未知に支配してもらう」へと
自分と未知との主従関係が逆転する瞬間があるようだ。
そのとき「支配」は「保証」に変わる。
「すべてはあちらが決めている」というのでは
こちらの自由意思がないではないか、という気もするが、
まったくそんなことはなく、「すべてはこちらの自由意思でやる」。
こちらの自由はあちらからの拘束であり、保証でもある。
支配されているからと言って窮屈でなく、
自由であるからと言って淋しくもない。

では、どの瞬間にベクトルが逆転するか。
おそらく完全に「自分」の思惑を打ち砕かれたときだろう。
身を守るために支配しようとしていた思惑が潰えたとき。
「自分の身は自分で守らねばならない」と健気に闘っていた人が
ついに自分を守り切れず、「自分が死んだ」とき、
「人は支えられて生きている」ということに気が付く。
多分、そういう構図だろう。

だから、信仰とか帰依とかいうのは、「降参宣言」で、
支配される側の自分であると引き受けることだろう。
神への信仰というものも、それは言い換えれば、
自分の死への信仰、未知への信仰、と言い換えれてもいいのではないか。

どんなに善いことをしていたって、通り魔に襲われて死ぬこともある。
どんな救世主だってタンスの角に足の小指をぶつけたショックで
死ぬこともあるかもしれない。
「そんなことはない」「大丈夫」とすがっていた信仰が夢でしかなかったのだと
教えられるような「未知」に直面したとき、本当の信仰の道が開ける。
そして仏教は、「すべて無だ」「神なんていない、絶対なんてない」
「何の根拠があって大丈夫だなどと思っていたのだ」
「お前が見ていたのは夢だ」と徹底的に叩き落した上で、「だからこそそれが救いとなる」
と発想を逆転させる。というか、「人はそういう過程を辿る」と言う。
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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/02 19:31

泥棒どうぞ

良寛というお坊さんのあるエピソード。
ある夜、良寛さんの家に泥棒が入った。
泥棒は金になるものはないかと部屋を物色するも、金目のものは見当たらない。
手ぶらで帰ることができず、仕方なく良寛さんの寝ている布団を盗んで帰った。
良寛さんは布団を奪われつつも、目を覚ましては泥棒を驚かしてしまうことになり
可哀想だということで、泥棒が帰るまで寝たふりをしていた。
というエピソード。

それから、これも良寛さんだったか誰だったか、
もしかしたらエピソード自体を間違って覚えているかもしれない、
そんなおぼろげな記憶だが、あるエピソード。
ある人の家の米蔵に泥棒が入った。
偶然その現場に出くわしてしまったその人は、泥棒に向かって、
「そんなにいっぺんに米俵を運んでは疲れてしまうだろう。
 またこんな夜中に大量の米俵を運んでいては世間の人に怪しまれる。
 この米は明日私がすべてお金にかえておくから、
 また明日取りにきなさい。今日のところはもうお帰り。」
泥棒は半信半疑で翌日家に来てみると、ちゃんとお金にかえてあった、という話。

こういうのを聞くと、いや、これは馬鹿な行いだろう、と思えてくる。
そもそも宗教家なら泥棒に人の道を説くべきだ。
その泥棒を救ってあげるべきではなかったのか、とか思えてくる。
これが仏教の答えなのか。これが仏教の説く正解なのか。と。

でも、これは正解でも何でもないと僕は思う。
これはただこの人達の「性格」の問題だと思う。

「正しい行い」「正しい人間像」を突き詰めていくと、
やがて一つの答えに行きつくような気がする。
でも、そうすると「正しい人」達は皆同じようなことを考え、
同じような行いをするのだろうか、という気がしてくる。
個性がないな、と。

でも、そんなことはないのだろう。
むしろ、よくできた人ほど個性的になると思う。
良寛さんが泥棒を気遣ったのは良寛さんの優しさだ。
別に正解でもなんでもないし、正解であろうともしていない。

一般的に「高尚な人」のイメージとして、悪人には教えを説き、悔い改めさせるというものがある。
でも、これは言ってしまえばお節介だろう。
本当に高尚な人ほど己を失わないように気を付けているものだ。
ふと宙に浮いた「善悪」という観念に足元を掬われて、自己を失うことはしない。
その上で、その人の性格として、泥棒に盗ませる人もあれば、教えを説く人もあり、
問答無用に打ちのめす人もあり、そこに個性が表れる。
そして見る人はそこに親しみと尊崇の念を抱く。

高尚な人とは自分の誠丸出しの人なのだ。
俗人は自分の誠を着飾ってしまうが故に俗人なのだ。
そしてそんな俗な自分だからこそ、高尚な人に触れると
そこに聖なるものを見、思わず敬意を抱いてしまうのだ。
高尚な人の漂わせるオーラが、己を着飾らないようにとの日々の訓練から
にじみ出ているものであることをどこかで感じているからこそ、敬意を抱くのだ。
そしておそらく高尚な人同士が出会っても、お互いに敬意を抱き合い、頭を下げるのだ。
皆根っこでは俗人であるから、その人の背後に物言わぬ鍛練の跡を見、
自然と頭が下がるのだ。

大体、人に最も善い影響を与える人というのは、
「正しい人」ではなく、良寛さんのような「誠丸出しの人」じゃないのか。
そういう人に出逢ってこそ、本当に悔い改めようとの意志が芽生える。
どう悔い改めるかは問題ではない。悔い改めようとの気持ちが尊いのだ。
そんな気持ちはどんな人にでもあるのだ。ただ出てこないだけなのだ。
出てくるだけの縁がなかっただけなのだ。
仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/24 20:13

投影親鸞

今、吉川英治の『親鸞』を読んでいる。
昔この人の『宮本武蔵』を読んで面白かったから。

小説やそれ以外のものを通して、色んな人の親鸞像に触れたことがあるが、
どれも僕の描くそれとは何かが違うような気もする。
と言っても僕の中の「親鸞像」にきちんとした形があるわけではないし、
僕自身の持つ親鸞像も時間が経つにつれて大きく変化しているから当然ではあるか。
ただ、人のを読んでいると、本当にこんな人なのかなぁという気はしてくる。

吉川英治さんの『親鸞』も、今のところ本当にこんな人だったのかなぁという印象がある。
本当にこんなに清い人だったのか。こんなに高潔な人だったのか。と思ってしまう。
生まれながらにして凡人とは違うものを持っていた人。明らかに特異な存在。
本当にそうだったのだろうか。頭の良し悪しは知らないが、本当に高潔な人だったのか。
「真面目」という意味での高潔ならわかる。
非凡なる真面目さ。おかしいと感じるものをそれでもいいやと放っておけない真面目さ。
そういう意味での「人より高潔」ならわかる。僕の描く親鸞像もそれだ。
でもあの幼少の頃からのそれは明らかに「聖なる」と称したくなるそれだ。
正直それはどうなのかなあという気がする。

やっぱり『親鸞』という物語である以上、20代から親鸞は大きく悩むことになる。
救いを求めて行に励む日々。痩せこけた「骨と皮」の身体。
でもどうも吉川さんの描く親鸞はどこか清い。
もしかしたら昔僕が持っていたイメージもそんな感じだったのかもしれない。
でも今の僕の描くイメージはそれとは違う。

人は多分「仏に顔向けできない」ようになると、あんなに清いままではいられない。
「私はなんて醜い人間なんだ!」と言っているその口がどうも清い。
多分、仏に顔向けできなくなってしまった人の持つ自己イメージは、
「汚物」「醜の塊」とでも表現したくなるようなものになる。
僕が自分と重ねすぎなのだろうか。

自己の欺瞞に気付いた時、人は仏の真正面には立てなくなる。
仏と自分との間に壁を設け、「秘密」を作る。
仏には見せられない「本当の自分」が出来上がる(自我意識の強化)。
その「本当の自分」の前には仏はいない。日陰の存在なのだから。
でも吉川作「親鸞」の前にはいつも仏がいる。
そんなことがあり得るのだろうか。

「私は醜い」という懺悔を仏に向かってしている。
はっきり言って、そんなことができている内はまだまだ甘いのではないか。
苦しみが浅いのではないか。
本当のところ、「私の何が醜いか」というと、
仏に懺悔して、聖なる行に打ち込むことによって、「清い自分」になろうとしている、
そのことが何よりも醜いのだから。
「仏に許される自分になる」、それが何よりも醜く汚い心なのだから。
親鸞聖人ほど自己分析の厳しかった人はそうはいないはずで、
その聖人がその程度の自己欺瞞に気がつかないわけがない。
「もっと厳しい行を自らに科すことによって、清浄な身となるのだ」と
何の疑いも持たずにただそんなことを考えていられるわけがない。
「はて、なぜ私は今清浄な身になろうとしているのか。
 なってどうしようというのか。なって何をしたいのだろうか。
 実のところ自分は一体何を求めているのだろうか。」
そんな疑問が頭をよぎらないわけがない。
自分と重ねすぎか?

親鸞聖人は29歳のとき、法然上人に出会うことによって、
その「清さ」を捨てることになる。
それは確かに法然上人の力は大きいものだろうが、
でも、それ以前に親鸞聖人の側にもそれだけの準備がなされていたはずだ。

それなのに、今吉川英治作『親鸞』の29歳時を読んでいるが、
その欺瞞に気付いておられる気配がない。
確かに聖人は六角堂百日参籠をなされた。
でもその行をされながら、「自分はなぜこんなことをしているのだろう」
「こんなことをしてどうにかなろうとしている自分とは一体何なのだろう」
という思いを持たれなかったわけがない。
でも小説には「厳しい覚悟を持って」というくらいにしか書かれていない。

でも、もしかしたら、
小説が親鸞視点で書かれていて、迷い時代には迷いの世界の描写の仕方、
で、一転して安心時代には安心時代の描写の仕方、
つまり「自分が後生大事にしていたあの清さとは、なんて醜いものだったのだろう」
と反省する、という風に切り替える、
そういう仕掛けで書かれている小説なのかもしれない。
でも、残念ながら返却期日が来たので小説は図書館に返してしまった。
これから法然上人に会うという一番いい場面で。
結局吉川さんの意図はわからないまま。またその気になったら続きを読もうと思う。

僕は自分のことをずっと、真面目でそこそこ高潔な人間だと思ってきた。
でも一皮むいてみればそんなものは幻だったと思い知った。
清く正しくそして強く、自分に厳しく他人に優しい人間。
そういう人間になろうとしてきた。そうでないと感じたときはなお一層努力した。
自分を誤魔化さず偽らず、自分がおかしいと思ったことは他人がどう言おうと
曲げずに、それを徹底していくのだ、例え周りに味方が一人もいなくとも、
僕はこれをやらずにはいられないのだ、
これをやめたら僕は僕ではなくなってしまうのだ、そう思って頑張ってきた。

でも、それが「しがみつき」であると知ってしまったとき、
その様が「醜態」であったと知ってしまったとき、人はもう歩けなくなる。
希望も誇りも尊厳も奪われてしまったとき、人はもう歩けなくなる。
誰かに奪われたのではない。自分で偽物であると認めてしまったとき、
もうそちらの方向へ向かうことができなくなる。
自分そのものが欺瞞、
「何かをしようとする」自分そのものが生臭い汚物だと感じてしまったとき、
人はもうどこへも行けなくなる。
どこへも道が伸びておらず、どこからも光が射してこない。
その闇。
その闇がどの「親鸞」にも描かれていない。
それを不満に思う。
仏教風景 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2014/06/02 23:05

聖地巡礼

今日、京都の吉水の草庵(安養寺)へ行ってきました。
ここは法然上人が浄土の教えを説かれた拠点であり、
またそんな法然上人のもとへ通い詰めた若き日の親鸞聖人が
信心決定(安心を得た)された地でもあります。
言うなれば聖地なんですが、人はほとんどいません。
あの辺り一帯は観光地で、近くには平安神宮、知恩院、高台寺、建仁寺、清水寺という
京都でも有数の観光スポットがあるんですが、吉水の草庵には人はほとんどいません。
行ったのは今日で3回目ですが、今まで人には2人しか会ったことありません。
「東山」の寺々を見下ろすようなやや高い位置にあることと、
それから「普通の小さなお寺」であるということがその理由だと思います。
でもだからこそ僕はここが好きです。
喧騒から離れられます。

本堂(?)は誰もいませんのでしんとしています。
奥から寺の人が家事をしている物音が聞こえてきます。
夫婦であったり親子であったりの会話も聞こえます。
たまに宅配も届きます。
そんな生活感あふれるところがかえっていいです。
知恩院や東西本願寺にも行ったことはありますが、
確かにあそこも心が落ち着き清らかな気分になるところではありますが、
周りの目もあってかどこか羽目を外せない雰囲気があります。
その点吉水の草庵はそこにいると段々なんでも許してもらえそうな気分になってきます。
今日はとうとう大の字で寝ころがり、
ごろごろしながらおそらく2時間くらいいました。

途中で別の参拝客が来たのでそのときは慌てて座り直しました。
その人は何かお経のようなものを唱えていましたがそれが何かはわかりません。
最後に蓮如上人の「白骨の御文」と思われる一節が聞こえてきたので、
もしかしたらその人も親鸞聖人の聖地としてこられたのかもしれません。
やや気まずかったですが、斜め後ろに座って最後まで聴かせてもらいました。
何か話そうかと思いましたが、何となく気まずい目線をお互い交わした後、
その人は帰って行きました。
しばらくの間その人の歌声がお堂の外から聞こえていましたので、
よほど気分が良かったのでしょうね。
いつもああいう熱心な信仰者を見ると不思議な気分になります。
彼の目に一体僕はどう見えただろう。

それからまた大の字へ。
最初はさすがに足は玄関の方へ向けていましたが、
なんとなく本尊の方へ向けたくなってきたので足はあぐらにして反対向きに寝ました。
やってみるとやっぱりそっちの方がしっくりきます。
腹を見せ万歳した格好なので、無防備感アップ。
結局、見性体験(禅用語?)とは音を外のものとして聞くのではなく、
内のものとして聞くということじゃないのか、とか、
今目の前にある阿弥陀如来にしても、法然上人、親鸞聖人という方々にしても、
僕の世界を荘厳するために在って下さる存在じゃないのか、とか
そんなことをぼんやり考えながらしばらくまどろませてもらいました。

帰る段になって、外へ出てみると、
感覚が研ぎ澄まされたのか何を見ても美しく見える、ような気がします。
普通映画にしても写真にしても、見せたいものにフォーカスを当てて背景をぼかします。
でも、寺を出てしばらくの間は世界の見え方が変わってしまって、
何を見てもそれが主役のように感じられ、
すべてのものにスポットライトが当たっているような気がして、
世界は本当に美しいんだなぁとしみじみ思いました。
逆に言えば、今までそれだけ鈍かったんでしょうね。
その感覚は、全部「気がする」程度です。
でもその感覚は大事にしていきたいものです。
すぐに消えてしまいましたしね。
今日は充実した一日でした。
仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/24 21:44

「仏まします」3 (不可解)

これはおまけです。
前々回、前回はこちら。
「仏まします」1 (危険性)
「仏まします」2 (感謝)



不可解とは何なのか。
人に「不可解」はわかるのだろうか。
人が不可解と認識するのはどんなときか。

どれだけ考えてもわからない、
だからこれは解けない問題(不可解)なのだろうと。
でもその場合、自分に能力がないから解けないだけかもしれない
という憶測も立つ。
いずれ能力のある人が現れれば解けるかもしれない、との予測。
だから、自分に解けないという理由だけで不可解ということはできない。

門外漢だが、数学の問題だとどうか。
どういうとき解けない問題と判断されるか。
問題自体に誤りがあると確認できたとき、か。
問題の中に矛盾が含まれる場合か。

数学の場合は問題自体が持つ矛盾とその根拠は証明できるのかもしれない。
しかし数学以外ではどうだろう。
そもそも数学というのは、世界をある角度で切り取ってできたものだろう。
その「数学的世界の切り取り」自体が間違っているかもしくは
未発展段階、つまりそれを超えて包むさらに高次の切り取り方があるかもしれない
という予測を否定することはできない。

何にしてもこの「かもしれない」という予測がある時点で不可解の断定はできない。
やはり人が「不可解」だとわかるにはわかる根拠がなければならないが、
しかしその根拠が正しいという根拠も示さなければならなくなるし、
これでは終わりがないから
やはり人間には不可解だと知ることはできないのだろうか。

そもそも人は不可解をどう認識しているか。
不可解で代表的なものは、生死。
自分はなぜ生まれたのか。なぜ死ぬのか。
さらに、自分はなぜ自分なのか。
自分になぜこの一生が与えられたのか。
というのもある。
これらは不可解だとほとんどの人が思う。
ここでとりあえずの断定がある。

だた、注目すべきはここからで、
人は不可解と思いながらもそれを解こうとする。解きたいと願う。
「考えても分からない」とは頭ではわかっていても
それを解かずにはいられない。
これはつまりそのときその人は「不可解」だと認識しているようで、
実は「未可解」と認識しているのではないか。
いつか解決するのではないかと願いをかけている。
そんな願いが悟りを求めさせたり、神の啓示を求めさせたりする。

やはり人間に不可解は認識できないのだ。
それが大事な問題であるほど未可解としてしまう。
いつか解くことができる。そう信じる。

何回も言った通り、仏は不可解だ。
仏教ではよく仏の神秘を「不可思議」と言って讃嘆しているが、
これは単なるオーバーリアクションではなくて
事実を言いとめている語なのだろう。
だが「不可解」が人間と完全に切り離されて存在しているわけではない。
どこかに「不可解」なる領域があるわけではないだろう。
人間が求めるところにそれはあるのだ。
求めるからそれが「不可解」になる。
出会うからそれが「不可解」になる。
出会ったときに「不可解」は初めてその意味を持つ。
どう表現したらいいのかわからないが。

事故にあったとき、重いに病気になったとき、大切な人をなくしたとき、
人は「なぜ」と問う。
その「なぜ」こそが不可解の正体で、
これこそがすごく大切なことなのではないかと最近は思うのだが、
まだよくはわからない。
仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/05 23:07

「仏まします」2 (感謝)

前回の続き。
「仏まします」1 (危険性)
「仏まします」3 (不可解)



なぜ仏というのか。
最近、と言ってもここ数日でふっと閃いたことだから
これが正しいかどうかは十分に疑わしいが、
ちょっと自分なりに納得できたことがある。

俗に言う感謝の心が仏の心の表われの一つではないか。

どうも僕は感謝という言葉にはずっと違和感を持っていた。
例えば人によくしてもらったときに感謝するのは尊いことだと。
確かに感謝の気持ちは自然に出てくるし、
それを相手に伝えれば相手もまた気持ちよくなる。
そしてそのことは人間関係をよくするだろうし
社会もまた円滑に機能するだろう。
しかしそれをもって尊いとは言いたくない。
それは社会を保つため、個人にあっては上手く生きるという
処世術や人生訓のようなもので、
それはやはり良いとは言えても、尊いとは言えないだろうと思う。

早い話が感謝するもしないも個人の勝手と言われ得る話であって、
それは普遍的な意味(人間万民に奨励すべしという)での尊さとは異なる。

それにそもそも人によくしてもらって感謝の気持ちが湧くというのは
ただの快感情ではないかという思いが僕にはあった。
自分にとって都合のいいことが起こったからうれしくなったと。
だから感謝の気持ちは忌むべきだとまでは言わないが、
かといって尊いと言って讃美するのもどうかと思う。

心理学の精神分析という学説の中に、
乳幼児期のまだ未発達な心を支配しているのは快・不快という感情で、
彼にとって快を与えてくれる者は「良い人」不快を与える者は「悪い人」と
大きくその二つに分けて対象を見ている、というものがある。(確か)
つまり、よくしてくれる者は味方で、害をなす者は敵だという
自己中心的な心は、心が形成されていくかなり初期の段階からある
人間にとって原初的ともいえる心性なのだ。
だからだろう、精神分析に限らず心の発達理論の中では
自己中心性からの脱却というのは一つの大きなテーマとして扱われている。

別にそんな雑学を知っているからではないが、
どうも僕には良いことをしてもらったから感謝する、
そしてそれは尊いことだから奨励する、というのには違和感があった。

まあ、そんな感じで、やっとここから結論になるが、
はっきり言って肩すかしのようなつまらないものだと思う。
結論は、感謝の情にはただの快感情だと言って割り切ることができないような
ものがあるのではないか、ということ。
そんなことはみんなとっくにわかっていると言われそうだが、
僕はそうならそうで、その証拠がほしかった。
今、証拠がわかったわけでは全くないが、
自分なりに厄介なものとして他から浮いていた問題を
少し普通の位置に整理しなおすことができた気がする。

なぜ仏教を築いてきた人達が、誤解されれば法が乱れる危険が
十分にあるにも関わらず、「仏」と言ったのか。
そしてそこで言われる「仏」とは一体何なのか。
それを解く一つの鍵として思い浮かんだのが、感謝ということ。

感謝というのは、普遍性を持ち、初めて尊いと言えるものであり、
わざわざ仏の心と言い得べきものではないか。
感謝の情というのは人間外の感情なのだ。
人間からはでてきようがないもの。
人間から出てくるのはせいぜい快と不快だけ。
物をもらったとき、助けてもらったとき、
もちろん嬉しいという感情が湧いてくるが、
それだけではなく、相手に対して恩を感じるようになる。
嬉しいというのは自己内を駆け回る感情だが、
恩というのは相手に向かう感情だ。
(もしかしたら唯一の社会的感情かもしれないと思ったが
 このレベルでの愛情も存在するだろうから唯一ではない。
 いわゆる無償の愛も人間外の感情だろうか。
 だとしたらこれも仏の心の一つの表われなのかもしれない。)

やや古い理論かもしれないが心理学の中には
人間の心は刺激と反応にのみよって成り立っているとするものがある。
それとはずっと広い意味でだが仏教もおそらくそういうスタンスで
考えていくものだと思う。
物をもらった結果嬉しくなった、ご飯を見た結果食欲が湧いてきた、
と洞察していく。
だが、刺激―反応方式だけでは感謝の情について説明ができない。
説明できる道理がない。いわれがない。
つまり人間からは起こるべくもない感情なのだ。
起こるべくして起こるのは物をもらって嬉しいという感情と
それに付随する相手を味方とする認識だけであって、
そこから、相手にお礼をしなければ気が済まないというような
感情が起こってくる道理はない。いわれはない。
いわれがないというのは、生まれてきた理由がないというのと
同じ次元でのいわれのなさのこと。絶対的に説明不可ということ。
心理学ならば条件付けとして感謝について説明できるかもしれないが、
(お礼をすることで様々なメリットが得られるとの学習、など)
それはやはりこじつけだろう。
つまり仏の心と言って指したいのは、
いわゆる心理学理論では説明ができないが、現にあるそれのことではないか。
(そう言いきるのは危険だが。
 言いきることができる問題なら最初から先人が言いきっている。
 言いきってしまうことができないから問題なのかもしれない。)

感謝は単なる自己満足ではないと、
そんなことは最初からわかっているといわれそうだが、
僕の中ではこれが少し整理できたことはかなり大きい。
長らく手がかりすらつかめなかった感謝と仏と別々に二つあった問題が
結びついてくれた。
感謝の情が出てくるのはいわれがない、不可解だ。
仏も不可解だ。
その不可解の部分でつながった。
根拠がわかって納得したのではない。
根拠のわかりようのないものであるとわかることでやや納得できた。
どうやらそういう納得の仕方というものもあるようで、
もしかしたら大事なことほどそういう納得の仕方になるのではないかとか思う。
仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/05 22:51

「仏まします」1 (危険性)

こんな長い記事を書いたのはこのブログ始まって以来だ。
普通文章と言うのは結論部分が最も大事で、力も入る。
だが今回書いたこれは、思いついたばかりのことなので
結論があやふやで頼りない。
しかも、振り返って思うと、結論よりも、
自分がずっと何を問題にしてきたのか、それを書きたかった気持ち
の方が結論を書くことよりも大きかったかもしれない、とも思う。

続きはこちら。
「仏まします」2 (感謝)
「仏まします」3 (不可解)


唐突だが
なぜ仏教は、「仏」なんていうことを言うのだろう。
それがずっと気になっていた。
「仏教」なのだから「仏」があって当たり前なのだが。

仏教のアプローチの仕方は、
徹底的に現実を見据え、その洞察から普遍的なものを抽出していこう
というものだと僕は思っている。
禅宗はとくにそうだろうが、曖昧なものは許さない、
形だけのものや神秘的なものに惑わされない、という。
だからこそ彼らの言葉には不思議な説得力がある。

しかしそうすると当然仏なんていうものは出てこない。
ひたすら現実を見つめていくのだから、そこから仏は出てこない。
「仏は」と言った瞬間に一気に話が抽象的になる。
きっと悟れば「仏」という言葉で言い表さなければならない
何かのことがわかるのだろうとは思っていたが、
それがわかる前に「仏とは~だ」と言えば
あの厳しい目を持った先達たちにきっと叱られる、と思った。

仏教に神はいない。
が、しかし「仏」という言葉を使えば、たとえそれが唯一神ではなくとも
「神」と言っているのとあまり変わらなくなる。
そんな恐れのある言葉をなぜわざわざ言う必要があったのか。
アプローチの初めに抽象的なものがあると、
そこからは信じるか信じないかという問題にならざるを得ない。
これはどう考えても仏教の矢印と正反対だ。
「現実から普遍へ」であるべきなのに「普遍から現実へ」はおかしい。
一つひとつ石橋をたたいて渡るように、
確実な足場を確かめながら歩かなければならないはずなのに、
有無を言わさず、まず信じて渡れ、
それから確かめていけばいい、というのはどう考えてもおかしいい。

「迷い―悟り」の対比、「此岸―彼岸」の対比はまだ心情としては納得できる。
その図式を通してそれを求めずにはいられない人間の姿が見えてくるから。
でもなぜ「凡夫―仏」と分けるのか。
それがわからない。

確かに仏は神とは異なりあくまでも人間で、釈迦を唯一の仏と仰ぐとしたら
仏とは「すごい人」の意を表す代名詞になる。
これならまだわかる。
だがなぜ大乗仏教はわざわざ大日如来や阿弥陀如来など
「人でない仏」を説く必要があるのか、これがわからない。

「仏性」という厄介な言葉もある。
「人間の中にある仏になる可能性」などと言われるが、
なぜわざわざ人間と仏を区別する必要があるのか。
人間の心の中にあるのなら、人間の心として扱えば良いではないか。
「とても高貴な心」を表す過剰表現として「仏」と言うのなら、
好きではないが、納得はできる。
だが、明らかに先達の言う「仏」という語は、
「超人」の過剰表現というニュアンスではない。
明らかに違うものを見据えている。あの厳しい目で。
でもそれがわからない。

仮に常人の心の中に未開発な高貴な部分があったとして、
それを目覚めさせるのが仏教だったとしても、
そこで「仏」という必要があるとはあまり思えない。
(ちなみに禅宗と真宗をかじった感想から言えば
 仏教の目指すところは、高貴な心「を目覚めさせる」ではなく、
 高貴な心「に目覚める」という感じだろうが。
 いずれにしても、危険を冒してまで「仏」という意義があるとは
 あまり思えない。
 長いが「未開発(もしくは無自覚)の尊い心」等で済む話だ。)

そもそも高貴な心に目覚めようという教えには強制力がない。
目覚めたい人、苦しくて堪らない人はやればいいのであって、
そうでない人はやる必要はない。
だからこれには救いの強制力がない。
僕個人としての宗教に求める絶対条件はその強制力だから、これでは困る。
万民に適用される普遍的な強制力がないと絶対の教えとは言いたくない。
それでは薬かサプリメントの仲間でしかない。

余談だが浄土教は阿弥陀如来を信仰する教えだが、
その阿弥陀如来が「万民を救う」という願いを叶えるために仏になった
(空想上の)人で、
仏教というものがもし「やりたい人がやる」方式のものだったとしたら
万民を救うと言われた阿弥陀如来の心とは反する。
「求める人は必ず救う。でも求めない人のことは知らない。」が
阿弥陀の精神だとはとても思えない。
「一人残らず救う」というのはそんな条件付きのものだとは思えない。
仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/05 22:47

仏教あれこれ

すこし仏教について。

仏教には○○如来とか○○菩薩などある。
こういうのを見ると胡散臭く思える。
それについて少し説明。

如来などに限らずあらゆる仏教用語は
話者が(一時的にでも)仏教フィールドにいるときにだけ
成り立つ言葉ではないかと思う。

仏教の世界に入って世界や人生、人間の話をするなら、
「如来」「菩薩」それどころか「往生」「成仏」などの言葉は平然と成り立つ。
なぜか。
仏教体系の中で話しているのだから。

それでは客観的でない、仏教という己の立つポジションを「選んで」、
その物差しを世界に当てはめているではないか、それはフェアでない、恣意的だ、
と言いたくなるが、よく考えてみるとわかる。
フラットで客観的な立ち位置などない。

例えば、「僕が」中国人とアメリカ人について批評したとしてもそれはフェアではない。
それは僕が「日本人」だからだ。
既に特定の立脚地から出している見解だからフェアではない。

だから「仏教フィールド」で語るのがおかしいとは必ずしも言えない。
特定の視点を持たないでものを語ることはできないから。
よく言われるように、そういう意味では近代科学の「客観性」は幻。
必ず見る視点がある。見る主体を抜きに云々している。

仏教は人間が陥るその辺りの認識の不確かさを突く。
人間がものを語るなら必ず「自分」という視点を持つ。
それを我(ガ)という(多分)。
我は誤り。だから我抜きでの認識について示そうとする。

仮に僕が「世界」と表現しているそれを、
僕でも誰でもなく、視点を一切持たないで表現するとどうなるか。
何とも言いようがない。言語化不可能。

「世界」という言葉は僕の視点だから言えることであって、
その「僕」ですら恣意的な概念に過ぎない。つまりフラットな視点ではない。
厳密に見れば僕も世界の一部だから、僕を「僕」の視点で語らないとすれば、
それは「全体」としか言いようがない。
でもそれはただそう言うだけであって何の説明にもなっていない。

仏教ではこの「全体」単位でものを見ていく。
(ちなみに全体を見る客観的で抽象的な視点が別にあるのではなく、
 全体そのものの中に具体的な視点がある。)
そうすると、「娑婆」「穢土」「浄土」などの言葉を使う方が
実用性や具体性があり、それを使う方が自然になる(のだと思う)。
用をなさない言葉に存在意義はない。
ちなみに法という意味での世界なら、「真如」「法界」などとも表現する。

これらの言葉は単なるラベルではなくて、
ラベルの中に対象物を含んでいる。
具体的な働きを持っている。
真理について語ろうとするなら、
どうしてもラベルとそれを貼られる対象物とは一致してくるのだと思う。
これも「視点」と「言葉」の性質上。

だから、仏教フィールドで世界を語ることは恣意的なこととは限らない。
「如来」と言っても「はあ、そういう人がいるのか」と思う必要はなく、
人間の心の中に「如来」と表現されることで活きてくる
何らかの心理学的な体系があるということ。

その真偽及び仏教自体の真偽は当人次第。
先達を見て判断するしかない。
仏教が真だとわかっているなら入門する必要はないから。
正しいと思えないなら別にキリスト教フィールドなどに行ってもいい。
おそらくキリスト教もその辺りのことは踏まえているはずだから。

ただいえるのは、真理に触れるなら必ず何らかのフィールドを必要とするということ。
フラット幻想を持っていては一向にたどり着けない。
見ている「自分」が何者かも分からずに
その自分に「見えているもの」を信用するのはある種の暴挙だ。
完全オリジナルなフィールドを創るのもいいが、
そんなことができる大天才は何千年に一人だろうから・・・。

仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/07/06 21:56
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