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創造と生きがい

関心が自分から他者に向かうとき、創造を感じる。
どれだけ自分の欲を叶えようと、どれだけ何かを生み出そうと、
自分だけの満足しか頭にないなら、むなしい。
そんなことは二十歳の頃からわかってた。

誰かのために何かのために生きるとき、
人生を創造してる気がする。
そうして生きたいと思うようになってきた。

創造行為なしでは生きがいは得られない。
自分から発するものが外へ響いていかねば。

最近のテーマ。
創造。愛情。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/03/06 22:00

ネガティブと縁を切る

只今絶賛ネガティブ断ち切りキャンペーン中。
ネガティブな考えとの縁を断ち切ろうと奮闘してる。
断ち切るっていうとあんまり穏やかではないけども。

いつだったか、「人間関係を切り捨てる」というような記事を書いた記憶がある。
今思い返してもあれは間違いではないと思う。
あそこで言いたかったのを今言うとするなら、「ネガティブと縁を切る」ということになる。

僕はもともと日向よりも日陰の方へ意識が向きやすい人間だと思う。
少数派の意見とか人々とか。メジャーよりもマイナー。
だからニュースで事件の報道を見ると、被害者にももちろん同情するけど、
それよりも先に加害者の方に、「ああ、やってしまったか。なんとか思い留まれなかったか」と
こちらにより同情する。これからその罪を背負っていかなくてはならないのだから。
それは可哀想な人を放っておけないということでもある。

だから、ネガティブなものに対して「縁を切る」なんて言うと、なんとなく弱者を切り捨てているようだし、
「弱い者が悪い」と言っているような気さえするけど、別にそういうことじゃない。
「可哀想な人を放っておけない」というこの心は本当に優しさからくるものなのか、というそこの意見の転換。

弱者を放っておいていいのか?
メジャーなものにだけ目を向けていて、それは果たしてフェアな視点なのか?
何かしら手を差し伸べてあげるべきじゃないのか?少なくともそうしようと努力すべきではないのか?
というこの圧迫感。
この圧迫感で、動く。やむにやまれず、手を差し伸べる。

が、これはただこの圧迫感に引きずられているだけなのだ。言ってしまえば自らが作った思い込みに。

段々書くのが面倒になってきたから端折るけど、
引きずられるのは自己が曖昧だから。
自己が自己であることに安心できないから、いつも周りに引きずられて生きている。
周りに合わせて。
「だって、世間に合わせないと生きていけないじゃないか」
この声が一番厄介な声だと思う。
でもこれは戯言なのだ。極めてもっともらしく思えるだけの戯言。
本当は世間なんてない。あるのは自分の頭の中にある世間という名の概念。
自分で作った概念に引っ張られて自己をお留守にする。

この圧迫感を断ち切る。
勝手にやっておけと見放す。やめさせるのではなく、やらせておく。

ネガティブな感情が出てくるなら、それが出るだけの理由があるのだろうし、
そうして確かに出てきたものを押し込めて無視するのは良くない。
って考えがち。特に僕なんかは心理学をかじったからより一層。
でも、こいつの言うことに耳を傾けてはいけないのだ。
聞かないのではない。聞き流す。
でも、基本的には「お前には用はない」というスタンス。

成仏させるのと同じスタンス(笑)
「君がいつまでもここにいるのは間違っている。だから早く成仏しなさい。
僕は君には用はない」

君がいようといなかろうと、世界は存在している。
君のいる世界も美しいが、君のいない世界も美しい。
だから、無駄なことはもうやめなさい。

ここでなぜ「だから」になるのかの説明が難しいところではあるが。
何をやってもいいのだが、だからこそ無駄なことをしてもしょうがないだろう?というニュアンス。
このスタイリッシュな智慧。
本当の優しさというのはこういう智慧から出てくるものだろう。
引きずられて出させられてるそれは優しさではない。

という風に考えてるんだけど、結局どうなのだろう(笑)
人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/12/27 21:54

2014年後半思ったこと。

これから新年を迎えるというときに書くことではないかもしれないけど、
でも、今年の後半どんなことを考えていたかということをほとんど書いていなかったので、
やっぱり今日書いておこうかと。

「世界がどうなろうと知ったことではない。もういい。ほっといてくれ」と思っているときでも、
「う~ん、やっぱり死のうか」と思っているようなときでも、
幸せがすぐ近くにあるような、そんな匂いを感じるときがある。

やがてくる幸せではなくて、今現にある幸せの存在に感づいた、というような。

こういう言い方をすると、「見ようとしないだけで、
今どれだけ自分が恵まれているかに目を向けなさい」と言っているような気がするけど、
決してそうじゃない。
むしろ、僕はそういうセリフは極力言いたくないタイプの人間だから。

恵まれていようと、地獄にいようと、
そんなことに関係のないところに幸せというものはあるんじゃないかなと思う。
「~だから」幸せなのではなく、幸せはそれ単体で存在するのでは。
理由も損得もなく。

感情と不幸はリンクしてない。昨日の晩そう思った。
どんなに苦痛の中にあろうとも、反対に喜びの中にあろうとも、
そんなことと幸せとは直接的な関係はない。

人生に絶望し、これから自殺をしようとするそのときでも、
その人はその状況の中に幸せを見出すこともある。
例え、見出しつつも自殺を実行しようとも。

だから、自殺者を不幸と決めつけるのは良くない。
もしかしたら自分の人生を肯定しつつ、亡くなっていった可能性もあるのだから。
人生を肯定しつつも死を選ぶ人と、肯定し死を避ける人との違いがどこにあるかというと、
幸福感が第三者(神)への感謝に結びついたかどうかによるんじゃないかと思う。
それが信仰というものの正体だろう。

苦しい状況の中にあると、自分が今不幸の中にいると思い込む。
あってはならない状況にあるのだと。道を逸れてしまったのだと。
でも、その道こそが本道だとも言える。

神はその道へ行けと言った。
多分、神は、自殺者に「自殺しろ」と言う。
そして「よくやってくれた」と言う。

同時に、自殺を思い止まった人にも、「よく思い止まってくれた」と言う。
要するに、絶対肯定なのだ。
何をしようとも逃れられない。

かなり語弊があるし、どういう意図で僕がこれを言っているかは伝わらないだろうけど、
神を人格化するとこうなるんじゃないかなと思う。

「不幸だ」という感覚は思い込みによるものだ。
辛かろうと、人生の本道から逸れたわけではない。
私怨により人を殺めようと、それが神の道に従うことでもあるわけだ。
でも、「最初からすべて決まっている」とはあまり言わない方がいいというのが一番のポイントでもある。
「決まっているだろう」と言われると、「決まってなんかいるものか」と言いたくなる。
多分、どっちも正解だ。

それでも、あんまりこういうことを言ってると、
前向きになろうとして書いてるように思われてしまうような気がして、それはちょっと気に食わない。
こんなにため息ばかりつきながら書いているのに。
はい、今年はこれで終わり。
人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/31 19:00

輝けなくなった星

今読んでいる本。
ニーチェの自伝のようなもの『この人を見よ』。
それとパウロ・コエーリョの『ベロニカは死ぬことにした』。
どちらもまだ途中だが、とりあえず思うことを。
僕にとっては、同じことを訴えかけているように感じられる。

が、文章を書こうとしてもうまく書けない。
まとまらない。書きたいことが多すぎるのとまだはっきりしていないのと。
気力があれば何回かに分けてポツポツ書いていこうかなと思う。
一応あらかじめ言っておくと二つの本に共通している思う
(今僕が一番はっきりさせたいと思っていることでもある)のは、
このブログでたまに使う言葉でいえば、「精神力」ということ。
あとそこから派生して「人間的な情を断つ」ということ。
といっても「ガンバリズム」とか「ストイック」とかとは関係のない話なのでご安心を。

まず『ベロニカ』について。
何気なく手にとって読んでみたのだが、驚いた。
ついこの間『知れてしまっている』という記事を書いたところで、ベロニカのあの独白を聞いたから。
特にこの辺のところがすごい。
『そのうち、わたしも馴染みのバーやナイトクラブに通うようになり、世界の不公平や問題について話し、映画館に行き、湖の周りを散歩するようになるだろう。・・・』
から始まる、これから自分はこういう人生を歩む『だろう』の羅列。
恋人もできるだろう、結婚もするだろう、子育ても順調ではないがなんとかやっていくだろう、と。
一部取り上げるならこんな感じ。

『そんなある日、旦那が初めて愛人を囲って、わたしはたぶん、看護婦の叔母さんみたいに思いきり騒ぎ立てるか、また自殺するか考えるだろう。でもその頃には、わたしももう、年をとりすぎて、臆病になって、わたしの助けを必要としている二、三人の子供がいて、全てを捨てる前に、彼らを育てて、この世界で居場所を見つけてやらなければならない。わたしは自殺しないだろう。わたしは癇癪を起こして、子供たちを連れて家を出ていくと脅すだろう。全ての男たちのように、わたしの旦那は負けを認めて、わたしを愛しているし、もう二度と浮気はしないからと説得するだろう。』

念のために書いておくがここで言っている「旦那」とはまだ出会ってもいない架空の人のこと。
そんな架空の人とこれから送るであろう日々の想像。
あともう一つ断っておかねばならないのは、抜き出した部分がそういう印象が強いだけであって、
これは別に被害妄想ではないということ。
ベロニカは別に「これからの人生辛いことしか待っていないわ」と言って悲観的になっているのではない。
辛いこともあるだろうし、楽しいこともあるだろう。充実した人生だろう。やりがいのある人生だろう。
さまざまな困難に出会うだろうし、その度自分はボロボロになるが、乗り越える度に一回り成長している。
そんな人生が待っている。
そんな先の知れた人生が待っているくらいなら
『まだ勇気があり、死ねるくらいに十分健康であるうちに、今ここで全てを終える方がいい』
という悲観なのだ。
今までの経験上、これは多分同じ感覚を持つ人にしかわからないのだろうと思う。
そこで悲観に繋がる理由が。
普通それらは「辛いこともあった。楽しいこともあった。色々失敗をして色々学ぶことができた」
とプラスに作用する要素なのに、ベロニカにとってそれは「知れ切った味気ない事実」でしかないのだ。
まだ経験していないにもかかわらず、もう経験したような事実なのだ。
どんな想定外のイベントも、知れ切っているのだ。
僕の言葉でいえばだが。
だから、僕にとってベロニカのこの一連の独り言はものすごく生々しく聞こえる。
これから自分の身に起こるどんなイベントも、死の前には無意味、という虚無感。

といっても当然ベロニカがただ悲観しているだけの物語ではない。
この後色んな人に出会い、色んな考えに出会っていく。
まだ最後まで読んでいないが、多分そういう話。
多分テーマになっているのは「狂う」ということ。
そして印象的な言葉、『隣の人の邪魔になるとか考えるのはやめなさい』
この辺りのことが「人間的な情を断つ」と言ったところ。
別に無感情になれという意味ではなくて、
簡単に言えば「世間体を気にするな」と受け取ってもらってもいい。
世間体を気にするのはなぜか。空気を読むのはなぜか。
なぜ「おかしなこと」を言えないのか。
なぜ変人、狂人と思われたくないのか。
なぜ正しくあらねばならないのか。
なぜ人にはいい人と思われたいのか。
なぜこの場ではこうするのがマナーだろうかなどと考えるのか。
なぜ人にはやさしくしないといけないのか。
なぜ人を傷つけてはいけないのか。
理由は簡単なようで、でもよくよく考えてみると難しい。
「人間的な情」とはそれのこと。
暗黙の了解としているようなそれ。場の圧力とか。
『ベロニカ』で問題としているのは多分それじゃないかと思う。

で、多分ニーチェもそれを意識している。
ニーチェについて一番書きたいのはニーチェ自身の言葉でいえば
「生命力」とか「活力」ということについてだが、それは今回は疲れたのでまた今度に。
今回はちょっと想像してみたら面白かったこと。

この自伝を見てまず驚いたのが、章のタイトル(笑)
「なぜわたしはこんなに賢明なのか」
「なぜわたしはこんなに利発なのか」
「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」
中身をみても、この人はどれだけ自尊心が強いのか、
こんなに堂々と自分はいかにすごいかということを書く人間が実在するのか、
というどう受け取っていいのかわからないような印象を持ってしまう。
この人は本当に自尊心が強い人なのだろうか。
というか、自尊心が弱すぎるからこその見栄の塊のような人なのか。
それとも別の狙いがあるのだろうか。
そこのところはちょっとわからない。
でもちょっと「あり得る」候補として想像してみて面白かったのは、
僕の中ではニーチェは人間的な情を断とうとしている人になっているから、
ニーチェはただ周りなど気にせずに思っていることを正直に書いただけなのでは、
ということ。
ここまでひどくはないにしても、きっと誰もが心の中ではこんな汚いことを考えている。
人よりも自分の方が物事をわかっていると思うし、周りは皆馬鹿に見える。
すべての点において自分が優れているとは思わないにしても、
「何かしら一つ」の点において、「誰にも譲れない」一つの点において、
「密かに」自分は優れていると思っている。
「何も優れたところはない」という点で自分は特異だと思っているパターンもよくある。
口には出さない。
なぜか。それを言うことはタブーだから。そんな自分だけの秘密。
そこに賭けている。自信の最後の砦のようなもの。
それを手放すと自分が自分でなくなってしまいそうなもの。
そんな自分の芯のようなものは口には出さないし、出せない。
まあ、そんな芯に限らず、自分の方が優れているという誰にも言わないが
内心では皆思っていることをニーチェは(わざわざかどうかはわからないが)書いた。
それをパッと見「この人変わってるな」と思ってしまうというのは、
それだけ僕らが常識に囚われていることの証拠でもある。
そういう風にニーチェが、自分がすごいと思っているからすごいと書いただけ、
なのだとしたらちょっと面白いなと思った。
どんな批判にも屈しないほどに「完璧な自分」だから書いたのではなく、
また誰にも理解されなくても「本当に」自分はすごいのだとの信念があるから書いたのでもなく、
すごいと思うからすごいと感想を書いただけ、なのではないか。
違うと言われたら、「はあ、そう思いますか」と。

ではなぜそれはタブーなのか。
社会生活が・・・そんなのは当たり前すぎるので別の観点から。
やはり人間的な情だ。場の圧力とか、嫌われたくないとか。
あとは「間違いを犯せない」からだ。
皆自分が正しいとは心の底では思っているのに、
「でも、実際のところどうなんだろう」「思い込みに過ぎないかもしれない」
「主観に過ぎない」と知っているから、それを堂々とは口に出せないのだ。
特に公の場では。
皆自分が主観から離れられない存在に過ぎないことを知っている。
だから「本心」が言えない。
その証拠に子どもは平然と自分のすごさをアピールする。しかも嬉々として。
そのすごさが「まやかしであるかもしれない」とは考えないから言える。
知恵をつけると考えてしまうから言えなくなる。

この構図。
自分が主観に過ぎない、一つの点に過ぎない、
どれだけ手を伸ばしても世界すべてを手に入れることはできない、
世界そのものになることはできない、
どれだけ絶対者に憧れても相対者に過ぎない、という構図。
全体の中のたった一つでしかない。
宇宙に漂う星の一つに過ぎない、という構図。
ニーチェのやろうとしたのはこの構図からの脱却だろう。
単に「神」だけの問題ではない。
「本心」が言えないことからの脱却、の問題でもある。
かつて一つの星が「自分は特別美しい」とふれ回っていたが、
やがて似たような、それでいてそれぞれユニークな星がいくつもあることを知り、
もう以前のようには輝けなくなってしまった。特別でも何でもないのだから。
優れても劣ってもいなくて、「皆同じ」なのだから。
そんな星の救済の問題。

で、ニーチェが言ったのは、本人がどう言ったかは忘れたが、
「世界を自分の好きなように、自分の都合のいいように解釈したらいいじゃないか」
ということ。
星の例で言えば、「自分を中心に宇宙が存在するのだ」ということ。
普通にこれを受け取ったら、とんでもないことを言ってるように思える。
でもそれがまた常識に囚われている証拠でもある。
「自分勝手に解釈してはいけない」
「『解釈』では正しくない。『事実』が知りたい。少なくとも安易に断定はできない」
などと考え、抜け出せない世界に沈み込む。
ニーチェが言っているのはその世界からの脱却。
あれも正しくこれも正しい。絶対的な観方はなく、観る場所によってものの正しさは変わる。
「その中で色んな観方をしていきましょう」ということでもなければ、
「無限に問うていく、この問うということの中で生きていきましょう」ということでもないと思う。
あくまでも脱却。
「好き勝手に決めつけたらいいじゃん」と。
決められない人に決めろと言う。問う人に問いをやめろ答えを出せと言う。
決められないのは「正しさ」を軸に生きているからだ。真理を追っている。
真理を追っているからこそ、決めたいのだが、それゆえに決められない、というフラストレーション。
でもそれは真理を追っているからだ。「絶対なんてない」と口では言いながら、期待している。
いわば中途半端。これを徹底させると「正しさ軸の生」から外れる。
だから、「何でも言える」。
例え、「間違っている」と批判されても、腹を立てるかどうかは別として
「ああ、そうですか」という話になる。
間違っていたら間違っていたのだろうしそうでなかったらそうでないのだろうと。
「間違ったことを言ってはいけない」という強迫観念から解放されているから。
その強迫観念が「神」とか「世間」とかいわれる「人間的な情」。
理想の話ではなく責任の所在の話だが。

ふう、疲れた。思っていたよりもずっと書いてしまった。
疲れたので今後も書くかどうかはわからない。
とりあえず書くとしたら、ベロニカは、僕の言葉だが、
「宇宙の中の一つの星に過ぎない」という構図に呑み込まれて
人間としての生命力をほとんど失ってしまった。
輝けない星になってしまった。
それが再び精神(内から発する光)を輝かせるようになっていく、という話(じゃないかと思っている)
ということと、
ニーチェが言いたいのもこの生命力の大切さだろうということ。
観念ではなく、もっと身体的なニュアンスでの「生命力」。
人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/15 17:40

波の満ち引き

今朝起きたら、憑き物が落ちたように身体が軽かった。
長らく留まっていた悪い波もようやく去っていったか。
しかし、体調によってこんなに世界の見え方が違うか。
毎度毎度思い知らされることではあるが。
今も決して絶好調というわけではないが、
それでも見える景色に生気を感じる。
久しぶりに「楽しむ」ということがどういうことだったかを
幾分かは思い出せた。

生きること=楽しい。
生ということのその中に既に喜びというものが含まれている。
生命とは生かす意志。
草花を育むあの力。ワクワク。悦び。

これはもっと調子がよかったときに感じたことであって、
今はそこまでは感じていないが、その一端くらいは感じている。
これが調子が悪いと、生きること=苦行、になる。
「楽しむ」という発想がすっかり頭から抜け落ちる。
ものの考え方が丸っきり変わる。感じ方だけでなく考え方まで。
だってつい昨日と今日では丸っきり違うから。

しかしどちらが本当の自分かというと、どちらも本当の自分なんだろう。
調子のいいときと悪いときと、どちらの言葉に真があるか。
なんて言っても、やっぱりどちらも自分なんだろう。
その体調の波も含めて自分なんだろうなと思う。

100ある真理への階段のうち、1段目のときと2段目のとき、または10段目のとき、
どの瞬間の自分が最も「自分」であったか。
どの自分をもって自分の代表とするか。
やはりどれも自分なんだろう。
これから何をしようとも。どんなミスを犯そうとも。例え人格破綻者になろうとも。
それが自分であるということが自分というものを保証してくれているのかもしれない。

真理を追いかけている間は真理へどれだけ迫れたかこそが自分を測る尺度となる。
が、そんなことを超えてどの瞬間でも自分であり、また自分ではないのかもしれない。
人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/28 21:14

道を歩む

何が正しくて、何が間違っているか、と言っても、
そこに基準となるものがなければ、何を言っても薄っぺらい。

「こうするべきだ」「いや、ああするべきだ」
そんなこといくら言っていても、基準がなければそれは不毛な争いだ。
逆に基準があるなら、人に批判されてもそれでいいのだ。

道心があれば何が正しくて何が正しくないかが定まる。
道心とは、それに則って生きていくということだからだ。
それに反しているものは誤りであり、過ちとなる。
だから反しないように常に点検して生きていくことになる。
それがないのにあれが正しいこれが正しいと言ったところで、
それは実に軽い、フワフワした言葉なのだ。どれだけの理屈を込めようとも。

と、そんなことを考えていて、これは西洋的な神への信仰に似ているなと気が付いた。
神の是を是とし、神の非を非とする。
何を賞賛し、何を罰するかは神の定めたところに従って決められる。
ここに秩序が成立し、倫理も成立する。
清く正しく生きるべき方向が示される。

西洋で言う神への信仰というものが東洋で言う道心ということにあたるのかもしれない。
少なくとも、近いものではありそう。
キリスト教などでは道心ということは言われているのだろうか。

西洋社会において、今はどうかしらないが、神を信仰することはごく普通のことなんだろう。
皆、神を信仰している。
東洋においては、道心を持つに至るところまで行った人はほんの一握り。
「宗教家」の中でもほんのほんの一握り。
西洋では、信仰が広く行き渡っている。信仰の門の中へは入りやすい。
でも、全体的に見ればそれは浅い信仰かもしれない。
東洋では、信仰の門の中へは入りにくい。
そのかわり、入ってしまった人たちの信仰は堅く深い。

東洋には唯一絶対の神はいない。
だから、道心といっても、何を道とするかは「任意」のものとなる。
しかしお釈迦さんの最期の言葉は「自灯明 法灯明」だった。
「自らを拠り所とし、法を拠り所とせよ」と。
つまり、自=法(絶対)なのだ。
自と法がイコールで結べるようになったとき、道心の芽が出、そこに道が開かれる。
そしてその道を拓いていくことになる。

それは任意の道ではない。
それが最も自然な道なのだ。
それが最も自己である道なのだ。

人は容易に自己を手放す。
それを手放さないようにといつも鍛練することが道を歩むということなのだろう。
自己が自己に還ろうとすることに理由はない。
「それは正しいのか。それは絶対的な道なのか」といくら言われたところで、
そんなことはその人のうわ言にしか聞こえない。
その人のいう「絶対」と自分の歩む「絶対」と、どちらに実があるかは明らかだからだ。
もし真に受けてしまったときは、それを恥とする。
自己をお留守にしたことを恥とする。
それが道を歩むということだと思う。
人生観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/23 22:00

夢の、過失の、痛いの

今日の夢。
兄が溺れていた。
なんとか助け出したがもう手遅れかもしれない。
兄が湖の中にいることは一度確認していた。
でも溺れているとは思っていなかった。
助け出してから、なぜあのとき気が付かなかったのだろうと己れを責めた。
その悲しみ。痛み。


思えば、僕がずっと抱えてきたのは「悩み」「やりきれなさ」「むなしさ」「モヤモヤ」であって、
「痛み」「悲しみ」ではない。
確かに僕にも耐え難い「悲しみ」も「痛み」もある。ここには書かないが。
でも僕の日常を占めているのは「悩み」であって「痛み」ではない。

世の中には本当に大きな「痛み」を持った人がいる。
自分の過失で我が子を失ってしまった人。
震災で家族を失った人。
その人達の「痛み」に直面したとき、一体僕はどう「ある」のだろうか。

僕は人間にとって一番厄介な感情は罪悪感だと思っている。
自分が被害者で加害者が別にあるなら問題ない。
問題ないと言っては失礼かもしれないが、
「あいつのせいで」と思える相手があるなら、それはある種まだ救いがあるのだ。
でも、自分が加害者である場合。そしてその罪から自分を傷つけている場合。
あいつのせいで、とは思えないのだ。自分が悪いとわかっているのだから。
どこにもぶつけられない感情。内向するエネルギーが心身を蝕んでいく。
これが僕の一番の「辛さ」。

でも、自らの過失で自らの「悲しみ」を作り出してしまった場合。
上の「我が子」の例のような。
責める相手がいない。自分が悪いのだから。
自分を呪う。
自分を殺したくなる。でも殺したところでそれが逃げであることはわかっている。
生きても罪。死んでも罪。どこにも生き場がない。
きっとそんな苦悶があるだろう。
それは罪悪感も同じ。
でも違うのは、それが堪らなく「痛い」ということ。
涙に直結するような、鋭い痛み。
罪悪感は、鈍い痛み。
「悲しみ」の人は「辛くはない」のだ。
「辛い」のは生きようとしている人だけ。生きるのが辛いのだ。
その点罪人は生きようとの意志があるのだ。
「生きる」のが「辛い」のだ。
でも、「悲しみ」の人は、ただただ「痛い」のだ。
どうしようもなく「痛い」のだ。
もしかしたら上記の苦悶もなく、ただただ「痛み」の中にあるのかもしれない。

そんな人がいるこの世界。
そんな人を前にして、僕は一体どうある。
そんな人がいることを知らずして、僕は今一体どうある。
そんな人がいるこの世界で、僕は今一体どうある。
そんな人がいることに思い至らなくて、人生観も何もない。
「生きたい」人生観はもう終わりにしたい。
「生きている」人生観。「ともに生きている」人生観。それだ。

生きたい。でもそれを邪魔するものがたくさんある。
「それをどうするか」。
それはもう終わりにしたい。

「痛み」のある世界。
その世界で「どうあるか」。
「どうあるべきか」ではなく、「どうあるか」。事実今自分は「どうあるか」。
そういう世界観。人生観。
人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/21 15:33

反省点なし!

ふぅ・・・。
今回はちょっと長かったな。
1週間以上、暗かった。
やっとちょっとだけ気分が晴れてきたかな。

胸が詰まる。
息苦しい。
「今暗い波が来てるな」
わかっていた。
でも呑まれた。
呑まれていることはわかっていた。
「今僕は負の連鎖の中にいるな」
わかっていた。
「見よ、何を見ても味気ない」
「見よ、外を歩いてもなぜか後ろめたい」
「結構きてるな、呑まれてるな」
わかっていた。

正解はわかっていた。
『胸にあるモヤモヤ、ムシャクシャ。
これを何とかしたい、どうすれば、何か間違いがあったか』
「おいおい、とか言ってそんなことを考えてるのがもう負の連鎖だろう。
考えれば考えるほど息苦しくなる。
何とかしようと思えば思うほど胸が詰まってくる。」
そんなことはわかっていた。

「そうさ、僕は今自分の中に湧き起こった暗い感情に呑まれているのだ。
反射的にその感情を拒否したから呑まれたのだ。
取り合わなければいい。そういう波が来てると思って、去るのを待っていればいい。
それまでは暗い生活になるが、まあ、それが今あると言うのも自業自得だ。一つの縁だ。
ムシャクシャさせられるのではなく、ムシャクシャしにいけばいいのさ。
拒否するからいけない。検閲なしに生きればいい。」
正解はわかっていたのだ。
でも呑まれていた。
「あ、これ違うな」と思いながらもそれをやらずにはいられなかった。
不快感に完全にやられてしまっていた。
何の見誤りも過失もなく。

で、今朝起きると気分が落ち着いていた。
なぜ?
何もしていない。本当に去っただけなんだろう。
「あ、去っただけなのか」と自分の言葉に教えられる。
自我が弛むとそういうことがわかる。
自我が硬いと「正解」でさえも自我の餌になる。
自我がとろけてくると「正解」が活きてくる。

わかっていたんだ。
「今の僕の中での『神』という言葉。これはただの観念にすぎないな。
順調なときは神との繋がりを感じられる。
苦しくなるときはいつも神が余所の世界の誰かになってしまっている。
自我のせいだ。自我が強くなればなるほど神が遠ざかる。
周りが皆敵に見えてくる。皆が自分を批判しているように思えてくる。
自我が悪い。神が遠い。」

で、今日。自分が間違っていなかったことをしる。
そしてそういうことをやっている、というか流れている、
生命というものに思いを馳せる。
人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/16 22:14
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