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重力

まっすぐに立つ。
身体にかかる重力を感じる。
日頃どれだけ大地に身体を預けていなかったかを思い知る。

いつも、崖から落ちているような感覚だった。
地面が欲しい。立つことができる地面が欲しい。
根なし草どころではない。まるで宇宙を漂っているよう。
上も下もない。当然北も南もない。どこを見ても真っ暗。
真っ暗だと対象がないのだ。「それ」がないから物の位置が定まらない。
ひたすら流されているようで、流されているのだと確かめる物も見つからないから、
本当のところ自分がどうなっているのかもわからない。
崖から落ちているのなら、いっそのこと早く地面に衝突したかった。
衝突すればそこが地面だとわかる。
基準が定まればそこからすべての物の位置を測ることができる。
落ちて初めて、「自分が落ちていた」のだと説明できるようになる。
物を測り、自己を定めることもできる。

そういうことは今までこのブログで何回も言ってきた。
まあ今も思っているのだけど。

でも、地面はあったのだ。
普通に立っているこの地面が。

神を欲していた。真理を欲していた。法を欲していた。絶対の法を。
それは、従いたかったからだ。
正しいものに。
正しいものに従うことによって自己を規定できる。
正しいものに根差すことで、自己を肯定できる。
人が作ったものには従えなかった。
「それ正しいの?」と問われれば、
「そういえば、本当に正しいのかなぁ」と疑わざるを得なくなるからだ。
だから自己を疑わなくても済む絶対のものが欲しかった。
絶対的に自己を規定し、肯定したかった。
そのための尺度が欲しかった。

欲したのはそれがなかったからだ。
どこを探しても見当たらない。
また、どこにもないということもわかっていた。

自分を貫いてくれるもの。
自分を導いてくれるもの。
絶対的に自分を従わせてくれるレール。
ここを歩いていれば安全というレール。

まるで無重力だった。
どこからも「呼ばれない」。
こちらへ来いとも。あちらへ行けとも。
自分に指図してくれる何者もなかった。
あるのはただ「相対者」の言葉だけ。「絶対者」ではなかった。

でも、無重力ではなかったのだ。
当たり前か。だって地球には重力があるのだから。
自己を従わせるものなら確かにあったのだ。重力が。
引かれていた。確かに「落ちていた」のだ。

基準を探していた。自己の位置を定めてくれる。
でも、そんなものないのだと諦めがついてくれば、確かに最初から大地があったのだ。
ずっと衝突していたのだ。
この身体が自分なのか。大地と接する足の裏が自分なのか。それとも大地そのものが自分なのか。
そんなことはどうでもいいのだ。
そんなことはどうでもいい次元で、確かに何者かが大地の上に立っているという事実がある。

最近のこれは諦めの境地なのだろうか。
このまま死んでもいいと思っている。
このままでは死にたくない。こんなあやふやなままでは死にたくない。
こんな中途半端なままでは死にたくない。
人生の何たるかを突き止めるまでは生きたという気もおきないし、
それを掴む前に死んでしまってはきっと、死ぬに死に切れない。
そうやってそれを「力」に生きながらえてきたのだ。
どこからも引っ張ってくれる力が存在しないから、
仕方なしに、「突き止める」という大義名分を自分で用意して、それにすがって生きてきたのだ。
「まだ」でなければ「未来」がない。「先」があると「今」からベクトルを伸ばすことができる。
「課題」を持つことで「すべきこと」という自分を規定する尺度を簡易的に適用できていたのだ。
物を観測できれば観測者の位置も定まるしね。
「今はまだ駄目なのだ。今はまだ中途半端なのだ。」
その言葉を利用して、自己をなんとか保とうとしてきた。
いや、保つどころか、最初からずっと手に入れようとしかしていなかったのだ。
自分自身に欺かれていたのだ。

が、もうこのまま死んでもいいと思うようになってきた。
こんな自分では嫌だと思ってるけど、そんな自分のまま死んで行こうと思うようになってきた。
重力。なすがまま。
この辺のことが、意気込みとしてではなく、素直な感想として思えるようになってきた感がある。
ただ、今自分に覇気があるかというと、まるでない。これまで通り。
それでも、これまで覇気がないのに何とか自分を奮い立たそうとしていたのが
よくわかるポジションではある。
今まで立っているようで立ってはいなかったのだ。
本当に「立つ」とは脱力すること。重力に身を委ねること。
中途半端に立とうとするから、「立っていない」が起こる。
重力に任せた分だけ反作用が働く。それが均衡というものだろう。
本当に運命に引かれるなら、反作用で立てる。
下に引く力と反発して上に伸びる力。
どちらが自分かは何ともいえないが、とにかくそういう現象は確かにそこに存在している。
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決意・覚悟 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/17 22:05

『日々新たに』

「日々新たに」、今朝そんなことを思った。
いつでもその都度のことに集中しているのは難しい。
気を緩めればいつまでだって呆けていられる。

集中し「続ける」のは難しいし、何より気力がもたない。
何かを続けるにはその分だけ気を張っていなければならないからだ。
しかし「日々新たに」というのは何かを続けるというよりは
その都度リセットをするということだろう。

リセットというのは原点に帰ることだろうが
それは原点のままで居続ける「維持」と考えるより、
外れたら戻る「回帰」と言った方が正しいだろう。

だから「日々新たに」というのは「新たに状態」を継続しようと気を張るのではなく、
その都度「あ、新たにというのを忘れていた」と振り返ることだろう。
そうすれば疲れない。

新たなものに出会うとその刺激が強い分リアクションも大きくなる。
たまにならそれもいいが、それがいつも続くと逆に疲れるのではないか、
という気持ちを持っていた。
刺激が多いというのはストレスが多いということでもあるのだから。

だがこれは勘違いだったようだ。
呼吸も、ずっと同じ空気だけを吸っていてはやがて苦しくなるが、
つねに新鮮な空気を吸っているなら気持ちがいい。
その気持ちよさは活力を生む。

「日々新たに」暮らしていると、
リアクションを取る回数が多い分エネルギーをより多く消費するだろうが
(わぁきれい、とか、あぁすごい、とか)、
その感動が新たなエネルギーの元となるから問題ないのだろう。
決してエネルギーが枯渇することはないと思われる。

この「日々新たに」というのは座右の銘にしてもいいくらいだ。
座右の銘というのは自分とはかけ離れたものを掲げるのだろうから。
こんなことを書いていたって「新たに」を意識できるのは
1日の内にほとんどないだろう。
だからこそ座右の銘たりうる。

決意・覚悟 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/01/10 22:02

報われない問い

2006年9月14日

きっと○○をすることも、△△に熱中することも、僕が望んでいることではない。
僕の望みというのは、僕が今直面している「何をすべきか」という
この問いに答えることだ。
その問いは「なぜ生きているのか」とか「人生とは何か」という言い方もできる。

きっと何をしても、この問いに対する答えにはならないだろう。
ただこの問いを紛らわすことにはなることかもしれない。
でも、一度この問いにとり憑かれたらもうこれを無視することはできない。
恐ろしいほどの力を持って僕を捕らえて放さない。

そして僕に命じる。
「何かをしろ」と。

でも、僕には何をすればいいのかがわからない。
以前は、○○をしたり、△△をしたり、という人としての当たり前の生活を
すればいいのだと思っていた。

でも、それは違うのかもしれない。
果たして、それらの事をしたところで僕の望みは叶えられるのだろうか。
きっと気を紛らわすことはできても、本当の満足は得られない。
もしかしたら、そもそも満足などできないものなのかもしれない。
いつ折り合いをつけるか、それが鍵なのかもしれない。
かと言って、中々この問いからは逃れられそうにない。



この問いは今も持っている。
というより、今はさらに自分の中の大きなものとして居座っている。
報われない問い。
2006年に書いたものだからこの問いを持つようになって
少なくとももう6年以上になるのか。

報われる問いならいい。
でも既にこのときに感じていたように、これは何をしても報われない問い。
それでいて放棄することのできない問い。

「何かをしろ」という。
「では何をしろと言うのだ」と聞く。
返事は返ってこない。
フラストレーションだけが残る。
それを発散することは一応はできる。
でも発散した後の虚脱感が予想できるからしない。
溜めたまま。

「何」に当てはまるものはない。
見つけていないのではなく。
どんな選択肢を用意しても無駄である。
これは何べん人に説明しても伝わらなかった。
また自己にやましさがあるからあまり言いたくもなかった。

最近その問いを持ったまま生きればいいと
アドバイスしてくれる人があった。
折り合いをつけることを目指すのはいつ頃からかやめた。
苦しい苦しいと言いながらもその問いに答えることのみを願った。
今も勝負の途中。
決意・覚悟 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/01 20:52

余力を残すな

もったいぶらずに書こう。
すべて書こう。
考え中でも書こう。
間違っていても書こう。
恥ずかしくても書こう。
照れくさくても書こう。

驕るのでもなく卑下するのでもなく。
ありのままを書こう。

見せるために書くのではない。
見せて保管するために書くのではない。
捨てるために書くのだ。
捨ててもう持たなくともよくするために書くのだ。

世界の中に入って考えなければ
自分に都合の良い妄想がどんどん生産されてしまう。
“自分はまだとっておきを残している” など。

馬鹿な。
全力を出せよ。
余力を残すな。
何のための出し惜しみだ。
逃げているだけだろう。

世間や社会に対してなら言葉で向き合え。
神に対しては心で向き合え。
言葉では誤魔化せても
心では誤魔化せない。

神に嘘は通じない。
神だから嘘が通じないのではない。
嘘が通じないから神なんだ。

そういう存在を己の内に持つこと。
それからの逃走が不可能だというものをあえて持つこと。
逃走可能なら本能的に逃げる手段を講じてしまう。
逃走不可能なら逃走しようがない。
隠しようがないから隠せない。
この不思議な逆説。

自分が思うということは
すなわち神が思うということ。
自分と神との間に一切のプライバシーも持たない。
このプライバシーがいわゆる我(ガ)。

そういう存在を心の内に置いておくこと。感じておくこと。

一年経って今頃になってなぜ自分がブログを始めたのかが
見えてきた。
決意・覚悟 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/01/21 21:22

己を偽ってはならない

僕が欲張りなのか。
―いやそうじゃない。

嬉しいことも悲しいことも交互に繰り返すだけだ。
ちょっといいことがあっただけで
「人生は良いものだ」とかそんな寝言を言ったり。
そんなものに振り回され続けて死にいきたくはない。
それだけで終わりたくない。

“それが人生の妙味だ”
“与えられた今を受け入れろ”
“喜び以外に幸せはない”
“些細なことにも感謝を”
“どう受け取るかは自分次第”
“悪いところばかり見ないで良いところを探せ”

そんな寝言にはもう騙されない。
惑わされない。
ふらつかない。
騙されてやる必要もない。

己を偽ってはならない。
人にどう言われようと僕は僕のやることをやるだけ。
そろそろふらつくのはやめろ。
本当は何が正しいかなんて最初からわかっている。
決意・覚悟 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/09/08 21:37

自分の人生をそれだけで終わらせない

2008年10月6日

『もし人生における苦が悪いものだとしたら、
 僕はそんな人生を生きたくはない。

 そんな生き方だったら、
 人生に苦が一切なくて、常に幸せでいたいと願いながら、
 いつか死んでいくのだろう。

 僕にとってそんな人生に何の意味があるんだろう。
 ただ快だけを求めていて、そしていつか人生が終わる。
 空しい。
 一体何のために生きているんだろう。
 快も不快も幸福も不幸も関係なくて、
 そんなものを目指さないで、もっと覚悟を決めて生きないと。

 いつ終わるかはわからないが、
 その終わる時に向けてひたすら生きていく。
 自然と死ぬのを待つのではなくて、自ら死に向かって生きていく。

 生き急ぐのでも死に急ぐのでもない。
 自分の人生を、ただ快を得てよかったなぁ、不快を得て辛いなぁ、
 とそれだけで終わらせない。

 自らの人生を生きる。
 当たり前だけど難しい。
 その覚悟を決めて生まれてきた人はいないだろう。
 だからいつかどこかで覚悟を決めなければならないんだ。
 僕にとってはこれが一人前になる登竜門。
 決して惰性で生きるな。
 覚悟を決めろ。』


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決意・覚悟 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/05/09 20:23

心を重視しすぎて行動をないがしろにしてしまう

2006年9月1日

『心が変われば行動も自然に変わっていく。
 これは一つの真実だろう。
 すなわち、良い行いをするようになりたければ、
 心そのものを変えれば良いという風に。

 だが、これは僕に限ったことだが、
 この真実を口実にして怠けている部分があった。

 行動を変えるために必死に心を変えようとしていた。
 これは悪いことではないだろう。
 でも、一つ気をつけなければならないことがある。

 心を重視しすぎて、
 行動をないがしろにしてしまう可能性がある。

 “要は心を変えればいいのだから、
  行動は特に変える必要はないだろう。
  行動は後から変わってくる。”

 こういう考え方に陥ってしまう。
 僕はそうだった。

 でも、行動も大事ではないかと思った。
 行動を変えようと思わないと
 結局は何も変わらないのではないか。

 “行動を変えようと思うのは心が変わった後の自分だから、
  今の自分はそんなことを考えなくてもいい。
  無理に行動を変えようとする必要はない。”

 こういう考えでは駄目だ。
 これは単なる怠けだ。
 もちろん怠けているとは言っても、
 必死で生きていることに変わりはない。
 けれども、それでいいというわけでもない。』


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決意・覚悟 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/05/07 21:02

真ん前だけを向いて

まあわかっているさ。
どんなにうれしいことがあっても満足できない。

僕が本当に求めているものはこんなものじゃない
と思う感覚こそが
実は間違ったものではないかと思って昔は迷っていたが、
さすがにもうわかってきた。

別にこの感覚自体は間違っているわけではないだろう。
嬉しさも悲しさもそれを貫く芯がなければむなしく消えてしまう。

そのむなしさとの対面。
当分付き合っていかなくてはならないのは明白なこと。

相棒に久しぶりに会った気分。
わかってる。
僕は真ん前だけを向いて歩こう。


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決意・覚悟 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/04/28 21:15
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