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富める者

富める者でなくては与えられないと思っていたよ。
僕は貧者だ。
何も与えられない。
むしろこんなにも飢えてる僕の方に施しがほしいくらいだ。
足りない足りない。苦しい苦しい。どうすれば明かりが見えるのか。
一体どこに明かりが。もう無理なのか。やっぱりもう無理なのか。
でも諦められない。諦めきれない。
こんなとこで終わりたくない。でももう嫌だよ。
なんでこんなことになったかなぁ。
天でも神でも何でもいいよ、なんでこんな人生になったの?
なんでこんな辛い思いをしないといけないの?
これに耐えることに意味はあるの?
意味がないならさっさともう終わりたい。
だから応えてくれ。なぜ何も言ってくれない。
欲しい欲しい。助けが欲しい。
でもどうせ誰にも僕は救えない。
自分でなんとかするしかない。
苦しいよ、どうすればいいの?
どうすれば楽になれるの?

貧者だ。

飢えて飢えてひもじくて仕方がなかった。
こんな自分に与えられる物なんてないと思ってた。
そんな発想すらなかった。
ただでさえ足りないと思ってるのに、与えたら空っぽになってしまう。

でも空っぽになったらいいんだよ。
空っぽになっても与えられるものはある。

僕がいる。

僕がいるということを与えられる。
それは自分で手にしたものじゃないから失いようがないのだ。
何かをして手に入れたものじゃないから取られる心配もないのだ。
心配とも不安とも無縁のもの。

僕がいるということを与えればいい。
世界に。隣人に。
ただ隣にいるだけの人であればいい。
みんな既にそうであるように。

貧しいと思うから貧しくなる。
裕福だと思えばいくらでも裕福になれる。
それはものすごく単純なことのような気がする。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/24 21:54

歪み

歪みってなんだろうか。

とんでもない怒りが湧いてきたとき。
あるいは深い深い憎しみが湧いてきたとき。
そのとき人の心は歪むのか?

そんなことはない。
怒りも憎しみも、心を歪ませるものではない。
「こんな感情抱いてはだめだ」「自分がこんな醜い感情持つはずがない」
そう思ったときに初めて人の心は歪む。

ずれてしまったものを「元の状態」に戻そうとする、その力、
それこそが歪みなのだ。

「クリアな心」「あるべき心」に戻ろうとする力が、怒りたがってる心を捻じ曲げてしまう。
怒りも憎しみも、ただの自然現象。それが出てきたなら、それが自然なのだ。

体の場合。
手足の長さが左右で違ったとする。それは歪みなのか?
なんとか左右でそろえようと無理をするとき初めて歪みになる。
「私は歪んでない」と言い聞かせ体を「標準」に合わせようとしたときに歪む。
左右の長さが違うのなら、それがその人の自然なのだ。

性格の場合。
「自分がこんなこともできないわけがない」「こんな欠点があるわけない」
と思い込み、「普通」のふりをしようとしたときに、歪む。
人よりできない。劣っている。
それは歪みではなく、その人にとっての自然。

なぜこんなにも「普通」とか「標準」とかいう観念に支配されてるのだろうか。
なぜありのままの自分を受け入れられないのだろうか。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/05/29 12:06

思い込み

余計な思い込みって結構ある。結構どころかかなりある。
しかも、それらはかなりタチが悪い。

僕は幸せになってはいけないんじゃないかって。
満たされてはいけないんじゃないかっていう思い込み。
ほどほどの幸せ見つけられたらいいね、身の丈にあった幸せ見つけられたらいいねって。
色んな悪いことしてきてるし、色んな人に迷惑かけてるから、
それらの報いをちゃんと受けないといけない。
だから、そんなに堂々と胸を張って生きてはいけない。
迷惑のかからない形で、人を不快にさせない程度に、できたら胸を張れたらいいね、
そういうあり方見つけられたらいいね、って。

これが多分一番タチの悪い思い込みなんじゃないかな。
最近変わった変わった言うけれど、何が一番大きく変わったかというと、
これを「思い込み」だと断定するようになったところかなと思う。

のびのびするのが一番!したいことするのが一番!
身の程をわきまえようとしてたのは誰のため?
みなさんのため。
みなさんに気にいられるため。嫌われないため。
それが社会で生きていくということ…ってよくよく考えてみるとそれは本当なのか?
卑屈な人とのびのびしてる人、果たしてどちらが皆に好かれるだろうか。

顔色を窺うのも結局は自分のためだし、どうせ自分のために生きるなら、
自分の本当に心地良いことを追求した方がいい。
それに、本当はポーズなんじゃないのか?
ほら、ちゃんと反省していますよ、ちゃんと真面目に生きていますよ、っていう。
自分の人生を満喫するのを遠慮したのだから、さぞかし利のあることをしているかと思いきや、
そこでしているのは結局ポーズという…。
一体誰の人生かわからない。

そして、ありがたいことに、心地良さを徹底的に追及するなら、
あんまり人様に迷惑かけないようになる。
度の過ぎた悪いことはできないように人間はできてる。
後味悪くなるし。
むしろしたいことしないでしたくないことばかりしてるなら、
そのイライラを消してしまわない限り、かえって周りの人に悪影響与える。
それがわかってもなお、したいことをしないなら、
それは「したいことをしない」というのをしたがってるだけ。気に入ってしまってる。
「僕は卑屈でいたいんです!ほっといて下さい!」っていうわがまま。
でもこの願望はやっぱり盲目から来てるものだと思う。
本当に視界がはっきりしてくるなら、
こういった無駄なしがみつきは自然と減ってくるんじゃないかなぁ。
それはやっぱり、したくてしてるというより、盲目ゆえの「思い込み」に分類されると思う。
間違った思考回路が出来上ってしまってる。

って思うようになった。
人間には、自分に対しても他者に対しても悪いことをすると「不快」に感じてしまう良心と
間違いとわかったものを続けていくことをできなくするだけの悟性?が備わってるとも。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/01/23 22:51

幸せの定義

幸せとは。
幸せな出来事があったときに幸せになるんじゃなくて、
生きてること自体が幸せなんだと最近思う。
『「生きてること」は稀有なことだし、楽しいことも悲しいこともあるけど、
それらがあるのは生きているからこそだ。「だから」幸せなのだ。』
っていうのとは違う。
○○だから幸せだっていうのじゃなくて、
生きてること=幸せ、なんじゃないかと。

生命とは何か。命とは。
「生命」の定義の中に「幸せ」も含まれてるんじゃないか。
幸せとは生命のとる表現の一つではないのか。

生きてるということそのものが歓喜でもある。
花をみるとよくわかる。
花は全身で歓喜を表してるように見える。
あれが命のわかりやすい姿ではないか。

生命の歓喜、それが幸せなんじゃないかって思う。
だからあんなことがあったこんなことがあったというのとは関係のないものだと思う。
少なくとも今の僕の中ではそう定義されてる。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/01/21 21:00

修行マニア

世の中には修行マニアというものがいる。
自分を痛めつけて精進して、痛めつけて精進して、ってそうやってしか生きられないマゾヒスト。
まぁ、僕がそのタイプなんだけど。

根っこの部分ではそうなんだと思う。
修行らしい修行は全然したことないけど、タイプとしてはそういう部類だと感じることが多い。
変な話だけど、自分を責めると安心できるのだ。
「耐え難い苦痛」に耐えてるときこそ、ある意味最もイキイキとしているのだ。

あとは潔癖癖。これも修行マニアの特徴だろう。
自分の過ちを訂正し、間違った習慣を改めて、一歩一歩前進していく。
自分との闘い。誰にも気付かれなくても、一歩一歩着実に歩んでいく。

・・・とそういう「キャラ」になりきれているときはイキイキしてる。

修験者とかにこういうタイプの人間は多いんじゃないかなと思ってる。
僕もたまにものすごく心が引かれることがあるのだ。
「ああ、『精進』のみを求めて生きていけるような『清い』世界に行きたい。
 そんな世界で生きられたらどんなに幸せだろうか」と。

前世は修験者だったんじゃないかとわりと本気で考えたこともある。
そして多分その修験者のときに思ったのだ。「もう二度と修験者になんかならない」と(笑)
だって、一皮むいてみたら、ただのマゾヒストなのだから。

「(真面目な)修行僧」というと、世間の人のイメージとしては、
「はあ、御苦労さまです」という感じの、別に憧れもしないけど、自分を厳しく律している、
(変わり者というニュアンスを含む)「偉い人」という認識かなと思うんだけれど、
で、修行僧の方もそう言われてまんざらでもないような感じになるんじゃないかなと思うんだけど、
でも、この人は本当はそんなに大層偉いわけではなくて、
ただ、そうやってしか生きられないだけの人なのだ。
というか、そうやって汚いものを洗い流し洗い流ししても、
まだ駄目だ駄目だと言って、結局清い世界では生きていけない哀れな人なのだ。
そういう暗いものを最奥に秘めながらも、
人に会って「へえ、よくそこまでやりますねぇ」なんて言ってもらえると、
「俺はこの世に不満なんて何ひとつない」なんて本気で思ったりする。
人を誤魔化すんじゃなくて、自分自身を誤魔化してる。

「自分にはまだこんなに駄目なところがある」と、普通は気にしないような細かいところも反省して、
常に自らを追い込むストイックな姿に、実は自分自身惚れていて、
そうやって惚れている間だけは生きていけるような気がするのだ。
でもこれは誤魔化しているに過ぎない。
本当はいつも「生きられてない」と感じているのだ。

「改めなければならない」と思うことによって生きる推進力を得てる。
「成長してる」と思うことによって、得てる。
そうやってしか自分の存在価値を実感できないのだ。
厳密には「実感をキープしてる」のではなく、「実感を得ようとしてる」のだが。
止まると死ぬ。だから走り続けねばならない。
これはこの間も書いた通り。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/09 21:48

こだわりに込めた願い

久しぶりに何か書こうという気になった。

人にはそれぞれユニークな癖がある。
他人から見れば不思議でしょうがないのだが、
本人にとってはそれをするのがある意味で自然なのだ。
むしろ我慢しているとどこかむずむずしてくる。

こだわりも癖だと言っていいと思う。
小さなこだわりもあれば、どうしても譲れないような大きなこだわりもある。
己のすべてを賭けていると言いたいようなこだわりもある。
他人から見れば不思議でしょうがないのだが、
本人にとっては深刻なのだ。
客観的に見ればそれはやってもやらなくてもどちらでもいいようなことなのだが、
本人はそこにある種の正義のようなものを見ている。
が、そう思っているのは本人だけなのだ。
客観的にみれば大抵のこだわりは本当につまらないようなものなのだ。

こだわりとは、そこに力を入れているということ。
身体をみてもわかるように、動くためにはそこに力を込めなければいけないが、
その込め方や筋肉のどの部位に込めるかにも人それぞれ癖がある。
またどう動きたいかにも癖がある。
そうするといつも緊張している部位が出て来て、それはやがてコリとなる。
こだわりとは凝りでもあるわけだ。
身体のどの部位が凝りやすいかは生まれついてのものや置かれている環境によって
人それぞれ異なる。
自分の癖を知ることは大事なことだと思う。
そして凝りが他の部位であってもおかしくなかったのだということを思うのも大事なことだと思う。

唐突で話が飛ぶかもしれないが、人は癖を無くすために生まれてくるんじゃないかと最近思う。
別にそれが事実だとか言うつもりもないし、本気でそう思っているわけでもない。
でもそう閃いた時、心がすんなりと受け入れた。

癖はどんなに直そうとしてもなかなか直るものではない。
そこに力を入れたがっているのに、入れずにおくことはなかなか難しいのだ。
癖は外側から矯正できるものではない。
では、どうすればなくなるか。
やり切れば自然と納まるのだ。
片側への歪みは、歪み切らせてあげることで、自然と平衡を取り戻す。
過去のトラウマも心のしこりも同じ。
なくそうとしてなくなるものではない。全力で痛みを発散することによって成仏する。
燃料を使い切れば、もう運動を起こしようがなくなるのだ。
動機がなければ動きようがない。

さっき、癖を直すために生まれてくると言ったが、
だからそれも、癖を出さないように我慢しながら生きなさいということではなく、
むしろ反対に全力で癖をやるしかないということなのだ。

人生レベルのこだわりというのは、周りとの衝突を生みやすい。
自分のことを思って書いている。
でも、そういう癖を持った人間として生まれてきた以上、それをやり切るしかないかなと思うのだ。
例えそこに何の正義もなくとも。
もちろん、後天的に手に入れる癖もある。
でも、それも含めて、それをやるために生まれてきたんじゃないかなと思ったりする。

昔は、自分のこだわりに正義を見ようとした。
淋しい思いをすればするほど、そこにこだわった。
誰も理解してくれないけど、自分のやろうとしていることは正しいことなのだ。
自分は人間ならば絶対やらねばならないことをやろうとしているんだ。
自分こそが真っ当なのだ。やらない方がどうかしているのだ。
とそう言い聞かせた。そう全力で思えなかったからこそ。
でも、その正義というものは、僕が「正義と見ていた」だけだった。
正義と見れば見える。見なければ見えない。
純粋な正義などないのだ。別に正義に限らず。
僕のこだわりは、客観的に見れば別にやってもやらなくてもどっちでもいいようなものなのだ。
そう見抜く客観的な目が欲しい。

きっと、やり切ってしまえば、なんて無駄なことをしていたのだろうと思うのだろう。
やらなくてもいいことをずっとやっていたと。
でも、そう思えるためには、全力でやり切るしかないのだ。
ちょうど脱力するには一度全力で緊張しなければならないのと同じように。
生まれ持ったその動機の分を使い果すまで。その分量は人それぞれ。

癖なんてものはないに越したことはない。
でも、そのない方がいいようなものを、
あえてするために持って生まれて来たという観点を持ってみるのも面白いと思う。
その癖が結果悪へ繋がろうと善へ繋がろうと、ただ引き受ける以外にないのかなと思う。

その癖にどんな願いを込めているのか。それを想像することの大切さを思う。
「偉業をなすため」とか「使命」とかそうやって主観に逃げるのではなく、
幼さゆえにやらなくてもいいような失敗を何回も繰り返している我が子を見守るような客観的な目で
自分のこの癖は何をやろうとしているのか、どんな願いを持っているのかと、
見抜くのではなく、見守ることの大切さを思う。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/09 20:33

人間と呼吸

・ふと、自分は誰でもないと思うと気分が楽になる。
『○○○○』という名前を持った社会的存在ではなく、誰でもない。
そう思うと気持ちが晴れる。
それだけ「自分」というものに縛られているんだろう。
「自分はこういう人間だ」と。
罪悪感とか劣等感がどれだけ日常を息苦しくさせていることか。
しかもそれらはただの思いこみ。


・自分は誰でもなく、これまでしてきたこと、起こったことに何一つ間違いはなかった。
これから起こるどんな悲惨な未来も大したことではない。
うん、ちょっとした生命の躍動を感じる。
別にプラス思考で現実をごまかしているわけでも、これらが事実だというわけでもない。
ただ、イキイキしてくるとそういう風に思えてくる。
何なら、今ある現実がすべて願って得たものだと思ってもいい。
人間の値打ちはどれだけ現在を肯定できるかで決まるんじゃないだろうか。
現在を肯定できている人は幸せ者だ。
ただそんな人も次の瞬間には無常に押しつぶされて不幸になっているかもしれない。
そういう状況でも現在を肯定できるなら、
その人は単に幸せ者であるばかりでなく、「大した人物」だ。
その点で言えば、僕は人間として下の下だ。


・僕が自分を省みて、周りの人を断罪しているかどうかに気を配り、
自分の非を嘆くのと同じように、
周りの人によって自分が断罪されたからといって、
それはその人の責任であって、僕が気にすることではない。
なんだ、簡単なことなんだな。
自分の中に正しいものがあるのだから、わざわざ周りに合わせる必要はない。
人に批判されるのは嫌なものだ。批判されるのがわかると顔を伏せたくなる。
だが、批判する方が間違っているのだから別にそれに合わせる必要はない。
人より自分の方が正しいから威張っていいのではなく、
一個の生命であるから威張っていいのだ。
同じ理屈で他の人も威張って良い。
威張ってもいいのに中々威張れないのだが、それは僕の問題。
僕だけの問題。


・スピリチュアルブームや哲学、思想、道徳というものと、
宗教というものの違いが少しわかってきた気がする。
それはやはり以前から勘付いていたように、
宗教は「なぜそれをやるのか」と問う以前の問題なのだ。
とそんな気がする。
問うたら最後、救済はない。問うこと以外に苦しみはないからだ。
なぜプラス思考になるべきなのか。なぜ明るく生きるのか。
他にも様々な「こういう風にしなさい」「こう生きるのが正しい」などの
「生き方のススメ」があるだろうが、なぜそれをやるのか。
なぜと問える次元でそれらの言葉を使ったとしても、その人達はただの幸せ者にすぎない。
その人達が「よくできた人」に飛躍するか否か、それが宗教的な次元の話。

幸せ者はいつ不幸せ者に変わってもおかしくない。
変わったら、それはその人に過失があると断罪する。
では断罪された人に救済はないのか。
結局「本人次第」という言葉ほど宗教と縁遠いものはない。
その「本人」の次元で悩む人が宗教を欲するからだ。
宗教と言っても特定の教団に限った話ではない。
「自分はこう思う」というところに落ち着けず、
「絶対の正解」「誰がどう考えても誤りは見いだせないもの」なしには
安心できない人に「あなたはそう思うんだね」と言ったところで救いはない。
その人はあなたにも、別のあなたにも、その他のあなたにも、
「そうだ」と思って欲しいんだから。
そういう疑似宗教をやっている人に「お前は誰か」と問いかけるのが本当の宗教の次元。


・「集中」という言葉。
それは普通「一点集中」という意味で使われる。
色んなことに気をかけていると「注意散漫」と言われる。
だが、何にも集中しなくなるとどうなるか。「一点」を持たない集中とは。
かえってすべてのことに集中できるんじゃないか。
すべてのことに気を遣えている状態。それは何にも集中していない状態。
無であることによって全体を覆い尽くす、というまぁ僕のお気に入りの形。
「一点」を持つと、人は苦しむ。悪い意味で「人間になる」。

「一点」の世界では人は「なぜ生きるのか」と問う。
また「これ」という目標を持たねば生きるのが難しくなる。
「これ」のために生きるのだという、生きがいや
自分が存在していることには「こういう」意味があるのだ、
との実存の肯定手段を持たねば生きるのは難しくなってくる。
だがそれらは実は生の一点集中なのだ。「これ」にすがる。
「これ」を中心にあらゆるものの位置が決まる。
だが残念なことに決して崩れない「これ」などはないのだ。

人間は呼吸的存在なのではないかと最近思う。
点でもないが、動的でもない。
「動的」というとそれをどこかから眺めているようだから。
視「点」がない。そうするとあるのはただ吸って吐くという呼吸だけ。
ただ生きて死ぬ何者かの存在。
存在を存在(点)として捉えない観点。点から眺めない観点。

人は「点(対象物)」を手に入れることによって人になった。
が、無常であるところの点に絶対性を求めずにはいられず、
薄暗い迷路の中へ入り込んでしまったのもまた人間の性のゆえだった。
けれども、点を知ることの恩恵は大きく、
苦しみなく点を扱うことができれば、それは人間として最高の人生ではないか。
それこそ「できた人物」だろう。

苦しみや不幸といったものは現在を肯定できなくなったところにだけ存在する。
現在を「何かが上手くいっていない・どこか間違えている」と思い込み、
それを「点(ターゲット)」とすると、問題解決と称しながらの完全なる奴隷的受動生活が始まる。
「生きる」が始まる。「何かのために生きる」その「何か」が点。
が、本当は人間は生きてなどいないのだろう。
ただあるのは呼吸だけだ。点のない視点。
呼吸、呼吸といって何が言いたいかというと、
何も点を持つなということではなくて、点を使えということ。
吸う(生)のも点だし、吐く(死)のも点だ。
それをどちらかだけに決めてしまわないで両方掴む観点があるんじゃないかということ。
単なる「幸せ者」は点の奴隷だが、「できた人物」は点の主人だ。
この奴隷から主人への飛躍が宗教の次元だ。
哲学も道徳も、奴隷としてそれらに使われてしまったら良くて「幸せ者」しか生まれない。
が、主人としてそれらを使えるなら、この人類の遺産は大きなものとなる。
こういうとはっきりしそうだが、かえってぼやけそうな気もする。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/06 14:11

内と外

内と外。
呑み込みと吐き出し。
僕は結構これにこだわっている。

自分にないものを探す。
足りないものを探す。
あれさえあれば。ああなっていさえすれば。
あれができるようになりさえすれば。
あれがわかるようになりさえすれば。
自分の人生もっと変わるのに。
という呑み込み。
それがないがために今自分は幸福ではないという。
現状を肯定できない理由を自分の欠陥に求める型。

それと
これさえなければ。
あんな出来事さえなければ。
こんな環境にさえいなければ。
という吐き出し。
自分には今自分を幸福にさせない余計なものがあるという。
こっちは肯定できない理由を自分の汚点に求める型。

前者は内に取り込む方向で、後者は外へ吐き出す方向。
だが、厳密に言えばどちらも「外に合わせる系」。
置かれている環境なり人生なりに対して、こちらが合わせていく方向。

そういえば、人生訓やことわざには矛盾するものが多い。
「あるがまま」とか「受け入れなさい」とか言ったり、
「諦めるな」とか「屈するな」とか言ったり。
スピリチュアル系とか宗教系ではわりと「抵抗するな」ということを言うか。
他力とか「おまかせ」とかもそう。己の意志で大いなるものの働きを阻害するなと。
これは外に合わせる系。

キャリア系の自己啓発ものだったら、「諦めなければ夢は叶う」とか言う。
「主体性を持て」「自立心を持て」「自分を譲るな」とか。
これは外を操作する系。
外のものに合わせるのではなくこちらが主体的に介入していく。

どちらが正しいのか。
どちらの言い分も正しく見える。
時に応じて、と言うのは結局何も言っていないのと同じだろう。

確かに、受けいれでいうと、
いつまでも現実を見ないでいるのはよくないように思える。
現実を引き受けねばならなくなるときもある。
だが、反対に負けを認めるのは妥協ではないかと思える場面もある。
簡単に諦めず頑張った方が得られるものが多いのでは、と。
やはり引き受けも大事だし、反発していくのも同じく大事だ。

僕もブログで両方書いている。
「なんでこんなに自分の感情を無視していたんだろう。
 もっと肩の力を抜いて受け入れればよかった」とか。
「好きなようにやられていた。主体性を手離してはいけない。
 もっと反発、奮発していかなくてはならない」とか。
一体引き受けるのか反発するのかどっちなのか。

でもこの種のどちらも正しいが相反する二つの人生訓も、
要は使い手次第なのだろう。
矛盾としか受け取れないならそれは力量不足ということになるのだろう。
この二つは実は同じことを言っている。

だいたい追い込まれているような状況にある人は、
「もっともっと、こんなものでは駄目だ。もっとちゃんとしなくては」
という外に合わせるモードになっていると思うが、
そういう人にも訪れるほっとする瞬間。
そのときの言葉は大体
「なんでこんなにがんばっていたのだろう。こんなに頑張る必要はなかった。
 自分は自分のままでよかったのだ。何を気にしていたのだろう。
 もっと自分を大切にするべきだった」といったところだ。
ちなみにそこに何らかの真理を見た人が「あるがまま」という言葉を流行させていく。

「もっともっと」と膨れ上がっていた自我が何らかのきっかけに出会うことによって
「ふぅー」という脱力と共にしぼんでいき、「元のサイズに戻る」。
呑み込み系で頑張ってきた人が「吐き出し」に転じたとき束の間の救済が訪れる。
そして不思議なことに、大体こういうときその人は、
現実を受け入れていると同時に、主体的でもあるのだ。
自分の意図やはからいを手離すことによって、かえって「自分」という意識が鮮明になってくる。
おそらく主体的であり、イキイキとした生命力のようなものが人間の性としてあって、
それが余計なものがなくなることによって目覚めてくるのだろう。
僕がたまにブログで書く「ちくしょう」とか「なめやがって」という言葉は、
現実を否定する言葉ではなく、現実を一旦吐き出して距離を置き、
現実からの「呑み込まれ」(主体性を奪われる)を回避した上での、
現実の受け入れなのだ。一旦距離を置くことによって精神が躍動する。
これでは説明になっていないだろうが、
現実を引き受けることと主体的であることとは矛盾しないのだ。

だが、吐き出しによって救われた人も、その救済期間が終了すると、
その人の語る「吐き出し」という言葉の内容は実は「呑み込み」に転じている。
「あるがまま」という名の現実否定。「自分らしく」という名の自分否定。
「あるがままであることによって私は救われるのだ」というしがみつきは、
紛れもなく「外に合わせる系」。また自分を偽り始めている。

なぜこんな文章を書いたかというと、昨日ふと、
「自分の内でもなければ外でもない。
 が、確かに自分の内にあり、また外にある。
 これは呼吸そのものだな」
と気付いたからだ。
内に取り込む(引き受ける)のが正しいのか、外へ出す(主体的である)のが正しいのか、
どちらが正しいのかと考えたときに、
これは丸っきり呼吸だなと気が付いた。
吸うだけでも吐くだけでもなく、両方揃って呼吸となる。
空気を吸って自分の身体を充実させるが、空気は自分ではない。
だが確かに自分の内にある。

人間とは呼吸する生き物だ。
というか、呼吸こそが人間のすべてではないかとさえ思った。
「どちらが正しいか」を求めると一つのことしか目に入らなくなり、
人間を点で捉えることになる。
が、人間は呼吸する生き物だ。点ではない。波だ。
その人間の捉えどころのなさ。実体のなさ。本体のなさ。
内にあって外にあって。生があって死があって。
空気が入って生き、空気が抜けて死ぬ。
無限から有限が生まれ、やがて無限へ還る。
生だけが人間ではない。波の中に人間がいる。
う~ん、どう説明していいかわからない。
というか何を言いたいか忘れてしまった・・・。

人間いかに生きるべきかと問うたとき、
禁欲・知足という発想もあるし、自由に好きなことをして生きるのがいいという発想もある。
これはどちらも正しい。
だがこれはどちらも正しいとわかる人にのみ有効なことであって、
どちらかしか見えない人にとってはまったく(と言っていいだろう)役に立たない。
この言葉の本来の重みを引き出すことはほとんどできない。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/29 23:00
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