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和して同ぜず

最近孔子に興味を持ちはじめてちょっとずつ調べている。
『論語』の中に「和して同ぜず」という言葉があるようだ。
これがこの間のコラボでも話題に上った「同じ日本人という幻想」
と関連していると思った。

皆が「同じ」であることが「和」ではない。
演奏を例に考えてみると、
様々な楽器、様々なメロディ、様々な音符の組み合わせ、
多種多様それぞれバラバラであるにも関わらず、
そこにハーモニーがあると、一つの曲となる。

このハーモニー(調和)が「和」だろう。

皆で同じ音を同じ拍子で出していてもつまらない。
そこには個性がないし、どこか盲目的で狂信的なイメージがある。
その反発で、
「自分に合った」楽器で
「自分らしい」曲を
「いつでもどこでも誰でも自由に」演奏している。
まるでそれぞれが好き勝手な方向にラッパの先をむけているようなイメージ。
これは「和」ではない。

僕の考える「同じ日本人」というのは
この演奏の例でいうと「曲目」に当たる。
皆それぞれが全力で好き勝手をするけど
そこに「日本人」という(任意の)曲名を設けて演奏する。
だから「日本人」には実体がないし幻想。決まっていない。

人間は誰でも汚いものよりきれいなものを望む。
乱れているものより調ったものを好む。
ハーモニーもそうだ。
だからこれは理想でもある。

「日本人」というどうとでも形を成す実体のないものを
どう調ったものにしていくか。
どういうハーモニーにしていくか。
どう演奏していくか。

もちろん構成員によっても時代によっても
内容が変わってくる。
これをどういうものにしていくか、
どういうものにしたいか、
どういうものだったら聴き心地がいいか、
そういう視点が必要だと思う。


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人間観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/06/28 21:01

無意味などとは絶対に認めない

今の僕の状態。
その場で足踏みしてる。

子どもの頃には先に希望があった。
漠然と何かワクワクするものが待っているような気がした。
小学校から中学校、中学校から高校、
次のステップへたどり着けば何か未知のものとめぐり合い
段々と自分が大人になっていくのだと思った。
大人になれば満たされるのだと思っていた。

でもある程度の年齢になって気が付いた。
この先には何もない。
環境とか待遇とかそういうことではなく、
他の何かをこなしたところで変わりなく、
あと待っているのは死だけなんだと気が付いた。
よく考えてみれば生まれたときから死ぬことが決定していた。

そのことが怖くて不安になった。
死ぬこと自体は怖くない。
でも僕という存在やその人生、またこの世界そのものが
無意味なものなのではないかと思えて、
その不安がどうしても消えなかった。

「無意味だ」と断定したわけではない。
「無意味なのではないか」という可能性が怖かった。
その可能性がそれまでそこに存在していた神話を一挙に突き崩した。

無意味などとは絶対に認めたくなかった。
だから無意味ではないことを自らの人生をもって証明してやろうと思った。
でもそうすることで僕は姿の見えない死神にとりつかれることになった。

実は生まれたときからずっと背後にいた死神。
遠くにいるか近くにいるか、そんなことは関係なく
常に背後で待ち構えている死神。
その姿を一目見て、それから煮るなり焼くなり好きなようにしようと思った。
とにかく姿を見ないことには何もはじまらない。

でも結局、僕のこんな行いはさながら
自分のしっぽを追いかけてぐるぐる回る犬と同じだろうか。
ひたすらに己の背後にあるものを見ようとして振り返るが、
振り返っても既にそこにはもういない。
どんなに迅速にどんなに巧妙に振り返ってみても
とらえられない。

その場に立ち止まって回り続ける自分に対して
先へ進めという自分もいた。
どんなに不安であったとしても
それを忘れて前に進まなければ人間として恥ずかしいと。

でも僕にとっての前に進むためのこの一歩は
それが崖から先へ進むことのように思えて
どうしても踏み出せなかった。

もしくは既に崖が崩れ落ち、己が落下している最中にも思えた。
大地から投げ出され宙に浮いてしまってはもう為す術がない。
共に落下している岩や木を掴んでみたところで頼り甲斐がない。

この世界の中で唯一落下せずに
確たるものとして存在するものはないか。
大地はどこにある。
着地点はどこにある。
この落下でさえも飛翔の一形態であると
真顔で言い切る仙人はどこにいる。

もはや自分がいつか着地できることを信じて
じっと耐え忍んでいるのか
それともただ立ちすくんでいるだけなのか
それすらも定かではない。
それが今の僕の状態。


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人生観 | コメント(2) | トラックバック(2) | 2011/06/26 20:37

このむなしさをどうにか

たまに学者や作家(特に仏教に深い造詣を持った)の書くものを読んでいると、
現代人は自分探しに躍起になっているが
自分の中に自分を探してもそれが見つかることはない、
というような文章をよく目にする。

この考えには僕はまったくもって賛成だが、
一方で自分探しをせずにはいられない気持ちもよくわかる。
自分探しという言葉は嫌いだが結局僕がしているのも
それに他ならないのだろうから。

先輩方の世代ではまだそういう発言自体が稀だったろうから
そういう発言は必要だったのだろうけど、
その後を生きていく僕らの世代としては
もう一歩突っ込まなくてはならないのだから・・・
とひねくれたことを考えたりもする。

僕ははっきり言って、
今の「自分として生きるべき」という風潮に対しては、
嫌悪感に近い違和感を覚える。
それは先輩方の言う通り、
「自分」を中心にしている限り
いつまでたっても納得することができないからだ。

自分を成長させてそれが一体何だと言うんだ。
自分を豊かにしてそれが一体何だと言うんだ。
僕の頭の中では絶えずこんな声が響いている。

目の前に現れてくるものによって心を振り回され、
幸せだと思ったりやっぱり苦しいとか思ったり
うれしいと思ったり悲しいと思ったり、
そんなことを盲目的に何度も繰り返しながら
その内に死んでしまうなんてむなしすぎるじゃないか。

自分の目の前に現れてくる物事にきちんと「出会う」には、
自分の中に中心を持たなければならない。
絶対的なものを持たなければならない。
相対的なものに拠りかかってもフラフラ揺れるだけだ。
でも現代人には神を信じることは容易にはできない。
自分に都合の良い「神」を持つことができても
それは相対的なものにすぎない。

やっぱりなんとしても自分という「存在」や「人生」を
貫き支える心棒がなくてはならない。
僕にはこの問題をどうしたらいいかなんてわからないが、
方向としては「自分として生きる」ということを
考えていけばいいんじゃないかと思っている。

最初に否定しておいてなんだが、
今の「自己尊重」の風潮は方法が間違っているだけで、
方向としては間違いではないと思う。

自分を大切にして自分らしく生きることは、
それが自分の快になるから推奨すべきなのではなく、
それが人間の道理なのだから目指すべきなのだと思う。
従うべきなのだと思う。
最近そう思うようになった。

なぜそれが道理なのかには理由はない。
下手に理由を挙げればこじつけになってしまう。
でも人間が自己を開発しその都度創造して生きていくのが、
この世界に生きる存在としてのあるべき姿なのではないか
というちょっとした実感が生まれつつある。
この方向で間違ってないと思う。

だから現代人がすべきなのは、
自分探しをやめる方法を探すというよりも、
自分探しをせずにはいられない気持ちと
すべてをむなしいと思う気持ち、神を求める気持ち
とが交わる点を探すことだと思う。


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自己完結のむなしさ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/22 20:37

コラボ企画 「『伝える』ということ」

今回はいつもと違います。
考えすぎ』というブログを書いていらっしゃる
「まこっちゃ」さんという方と、コラボ対談をさせて頂きました。
対談と言っても、メールでのやりとりを
何回か繰り返したというものですが、
当人達は真剣になって取り組みました(はずです)。

それにしてもまこっちゃさんの文章は読みやすいです。
それに比べて僕は・・・。

何を言っているのかわからなければ飛ばして下さって結構ですので、
長いやりとりですが見て下さると大変嬉しいです。

テーマは「『伝える』ということ」です。
「コミュニケーション」については誰しも関心があると思いますので、
そういった意味でも面白い内容になっていると思います。


では、読んで下さる方は↓「続きを読む」からどうぞ。
続きを読む
コラボ企画 | コメント(0) | トラックバック(1) | 2011/06/12 16:34

それでは磨かれる前の「原石」が、報われない

なるべく心を磨きたい。

最近ふと思ったのが、「心を磨く」というと
普通は「原石を磨いて宝石にすること」を想像すると思う。
でも昔から言われている「心を磨く」ということの意味は
多分それだけではないんじゃないかな、と。

原石をを磨くというのは、
たゆまぬ努力を続けていけば徐々に心が磨き上げられ
いつかは光り輝く、ということだと思う。
その輝きはひたすらに磨き上げてきた努力抜きにはあり得ない。

ところが、同じ「磨く」にも部屋の掃除などの「磨く」もある。
「原石」の方は輝くのは磨きに磨き上げた後だが、
「部屋の掃除」なら
雑巾で窓を磨けばそれなりにきれいになる。
その代わり少し怠ればすぐにほこりが溜まってまた汚れる。

前者は理想的、段階的。そして前進。
後者は現実的、瞬間的。そして直立。

理想を追い求めて前方しか見ないでいると
やがて足下の石につまずく。
結果しか見ていないと今が疎かになる。

「原石」は磨き上げられ完成に到るまで賞賛されない。
でも、それではそこに到るまでの過程が報われない。
汚くよごれたままの「この今」が「今」報われていない。

人間はきっと何十年の鍛錬の末にしか
光り輝くことがないというわけではない。
ほこりが溜まったテーブルでも雑巾でさっと拭いてしまえば
それでもう十分快いほどにピカピカ輝く。

人間がたゆまぬ鍛錬の末にしか報われないのだとは
信じたくない。
一日掃除をすればその一日はきれいだ。
別にそれを積み重ねてはじめてきれいになるのではなく、
一日掃除をすれば一日はきれい、それでいいと思う。

放っておくと汚れるだけで、もともとはきれいなんだ。
きっと昔の偉人が言う「心を磨く」というのは
こちらの意味合いも兼ねている。
むしろこちらの方が強いかもしれない。

おかしなことを仕出かさないように
間違いを犯さないように
常に心を清く保つ。
磨いてきれいにしておく。

などと普段ほとんど掃除をしない僕が言ってみた。


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人生観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/06/10 20:44
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