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“こんなことをしている場合じゃない”

寝る前にいつも思う。
今日も一日を無駄に過ごしたと。
困ったことにその日一日が充実しているほど
夜眠れなくなる。
肝心なことが何もわからないまま
また時間だけがあっという間に過ぎてしまった
という後悔と焦りで。

布団に入ると怖ろしくなる。
“こんなことをしている場合じゃない”
でもどんなことをすればいいのかがわからない。

人間に出来得るすべての行為、
そのどれをしたところで満足できない。
偉人になろうと人格者になろうと
世界に大きな貢献をしようと多くの人を救おうと、
“こんなことをしている場合じゃない”という声はきっと消えない。

何をしたところで、僕のしたいのはそんなことじゃない。

したくないことはしない、ということではない。
何に対してもそれをする甲斐が感じられないというのは
生命力をひどく蝕むことになる、それで困るということだ。

僕は自分のすべきことが見つからなくて苦しんでいるんじゃない。
何をしてもすべきことじゃないのがわかっているから苦しいんだ。
無数の選択肢の中のどれを選ぶかで迷っているんじゃない。
そもそも選択肢が存在しないことがわかっているからうろたえているんだ。

人生において最重要の要点をつかまない限り何をしたところで同じことだ。
その点をつかまないで何をしてもそれはごまかしに過ぎない。
適当に外のものにすがって生きているだけだ。

でも、“こんなことをしている場合じゃない”と言う声に従ってきたが
いまだにどうにもならないのなら、
従うことが必ずしも正しいわけではないのかもしれない。

呑まれているんじゃないか。
圧倒されているんじゃないか。
程よく距離が取れればそれでいいんじゃないか。
そう思わなくもない。
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焦り | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/29 22:04

苦しくても僕の人生じゃないか

僕が間違っていた。

目の前に壁のように立っているこの問題を解決しない限り
人生を楽しめないと思っていた。

でも例えそれを解決できたとしても、
僕はどうせ完全に自分に自信を持つなんてことはできないのだろう。
どうせ人生を楽しく生きることなんてできない。

“あれさえ解決できれば”、
そう思うことで僕はそれに囚われていた。

結局僕も“こんなのは本当の人生じゃない”
と思って生きていたのだろうか。

現にある「今」をひたすら否定していく哀れな人生。
いつか来ると信じる「楽しい人生」を夢に描きながら
眠気まなこで生きていく現実。

苦しくても僕の人生じゃないか。
それは成長へと繋がるから尊いんじゃない。
いつか実を結ぶから尊いんじゃない。
僕の人生の一部分だから尊いんだ。

どんなに恨めしく思っても
これが今の僕を構成しているのだから大切にしないと。

苦しみを大切にすることなんてできない。
苦しみを楽しむことなんてできない。
でも苦しんでいる僕自身なら大切にすることも楽しむことも出来る。
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いま・ここ | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/07/19 21:18

もし神というものが

神はなぜ善人だけでなくわざわざ悪人まで創ったのかという
話がある。
別に特定の神を信仰していない僕が言うのはおかしいが、
僕なりに思うことがある。

全ての人が善であればいいというのは
良く言えば(神にとっての)叶わない理想、
悪く言えば建前なのではないかと。

全ての人が(世間の人が言う意味での)善でなどあるわけがない。
誰でも辛いときは誰かに八つ当たりしたくなるし
それが訓練で克服可能であったとしても
訓練前の子どもにはどうしようもない。

神は、この世界の真理は、
人間全てが善でない世界を「失敗」あるいは「未成功」と呼ぶのだろうか。
僕の中の神は決してそんなことは言わない。

仏教にしてもそうだ。
全ての人が悟りを開けばそこは浄土だろうが
全ての人が(普通に言う意味での)悟りを開けるわけがない。
生まれたばかりの赤ん坊に悟りが開けるわけがないのだから。

仏教徒は一応悟りを目指す。
布教もする。
でも全ての人が悟りを開いていない現状を「失敗」とは言わないだろう。
「失敗」と言うとすれば
それはその人の責任においてそう言うのであって(そういう人は尊敬する)、
仏の側の「失敗」なのではない。

本当に「悟り」「全てが善人」という地点なんてあるのだろうか。
それが実現された「瞬間」は報われるが、達成以前も以後も報われない。
「瞬間」なんてのも無限に分割できるのだから、
結局誰も神も報われないことになる。

神に「こうあるのが理想だ」と望まれている人間と
「別に望むものはないけど」と無関心でいられている人間と
どちらが幸せか。

最初に「建前」という言葉を使ったが
それはあくまでも神にとっての建前であって
人間にとっての建前ではない。

悪は人にとっての失敗で
神にとっての失敗ではない。
罪は人にとっての失敗で
神にとっての失敗ではない。

神は善人を望むにもかかわらず悪人が大勢いる現状を
不本意にも思わないし
思い通りにならなくてイライラもしない。
「想定内」なんて言葉も違う。

“全ては神の意志”と別に言ってもいいが
あまりそれを言うと話がそこで終わってしまうので
無闇に言わない方がいい。
神の意志だろうが何だろうが
その人生は自分で生きるしかないのだから。

仏教の阿弥陀さんなら悪人であればあるほど
気にかけて下さるそうだ。
出来の良くない子ほど世話が焼けるという親心か。
だからといって出来の良い子も愛おしむ。
それが親心のありがたさか。

本当のところそんな存在があるかないかなんてどうでもいいことだ。
「ある」と言う人には、たまには「ない」と考えてみては、と思うし、
「ない」と言う人には、たまには「ある」と考えてみては、とか思う。

もし神というものが、
世間の人と同じような言い方で“悪人は去れ”と言うのなら、
僕はそんな神になど何の用もないし
そんな神は僕にとって何の救いにもならない。

僕が勝手に絶対者とはこうでないと気が済まないというだけの話だが。
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人生観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/07/15 23:43

普通の幸せ

普通の幸せ。
それでいいのじゃないか。
普通に笑って楽しく。
そんなに不幸なオーラを撒き散らかさなくても。
周りが迷惑だから。

普通に笑えばいいじゃないか。
普通に明日が楽しみだなとか思えばいいじゃないか。
早く手を打たないと人生が取り返しのつかないことになる
いやもうなりつつある
とか思って冷や汗を垂らしてるけど、
もう人生は始まってるんだから。

悩み苦しみもそれは人生の充実だ
と人はいうかもしれないけど、
どうせなら楽しく生きたい。
その苦しみでさえも楽しみたい。

ああ苦しい苦しいと言いながら
時間よ止まれ、問題を今すぐ解決しその後楽しく生きるのだ
と言いつづけながら
そのまま死んでいきたくはない。
今のままいくと確実にそのコースだ。

待ってくれないものに向かってひたすら待ってくれと言い続けながら
やがて終わる一生にはしたくない。
勝ちたくもないし負けたくもない。
どちらにももう疲れた。

どんなに覚悟を決めようと、寄り道するのはわかってる。
どんなに反省しようと、繰り返すのはわかってる。
神経をすり減らさないための軌道修正に
いつの間にか神経をすり減らしてしまっているのもわかってる。

そんな行ったり来たりの人生に疲れた僕は
普通に笑うっていうのはどういうことだったかとふと憧れる。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/14 21:58

やっぱり理想は大切ですか

世間で普通に使われている言葉で
せっかくいい言葉なのにちょっと誤解して使われていて
もったいないなと思うものがいくつかあるから、
また思い出したときにでも書いていきたい。
(なるべく文句にならないように)

今回は『理想』について。
(つい1、2年前までこの言葉が大嫌いだったのに
 まさか自分がこんなことを書くとは)


禅僧の良寛和尚が大地震で被災した知人に宛てた手紙の中で
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。
 これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」と言った。

この部分だけを抜粋するから余計にそう思えるのだが、
一見するとかなり冷たい言葉だ。
普通の人にはこんな無神経なことはとても言えない。
だが、良寛さんだからこそ言えた本当に心のこもった言葉なのだろう。
「この人だから」良かった。

皆がそういう発言をしようということではなく、
そう言ってくれる人が社会の片隅にでもいてくれるのは有り難い。
同じように、個人の心の「片隅に」理想があればそれでいい。

理想というと、実現させなければならないもの、
また実現できなければ落第の判を押されるもの
というイメージすらもあるが、
ここでいう理想とはそういう
理想と自分とを同一化するような種類のものではなく、
常に自分の目の前にあるようなもののことだ。

「理想」というと普通(少し極端だが)は
実現させ実益を産まない限り単なる妄想であり無駄である、
現実味がない、地に足がついていない、などと功利主義で考えるが、
理想は本来、理想のままであり続けるから意味がある。

確かに理想は自己を向上させるものだが、
現代でそう言ってしまうとどうしても功利主義と結びつくので、
「向上」というよりもその場その場で自分は今どうなのかとチェックする
鏡のような役割と思ったほうがいい。

世の中はそんなに段階的にできているわけではない。
生まれたときが0で死ぬまでには100まで行きたい、と、
それも大事だがそれだけではなく、
理想を0に置いて-1か-2になったらその都度0に戻す
という考え方も大事にしたい。

これは理想を簡単に手の届く範囲にまで下げるということではなく、
例えば“人に不快な思いをさせない”を理想にしたとすると、
これを実行するのはそれなりに簡単にできることだ。
腹が立って暴言を吐いてやろう仕返しをしてやろうと思った時に、
いややっぱりやめておこうと思えばある程度我慢できるものだ。

でもだからといって、人に腹を立てることが全くなくなるなんていうことは、
はっきり言って一生ない。
それが人間というものなのだろう。
腹を立てたくなるような機会はいくらでもある。
だから簡単に0に戻し得るにも関わらず、
これは一生存在し続ける理想となる。

理想を段階的に捉えるなら、それが達成されれば
それでその理想はもう御役御免で消えてしまう(そして次の理想が生まれる)が、
ここでいう理想は一生叶わない理想としてあり続ける。

理想は同一化すべきものではなく、
歩め(歩みを止めれば失格だ)と追い立てるものでもなく、
常に目の前にあって自身の姿を映し出す鏡だ。
永遠に叶わないがそれを理想として掲げることに意味がある。
己の中にそういうものを持つことに意味がある。

(段階的でなく)目の前にある理想だから
そこからかけ離れることもなく、
また反省すればいいだけで極端に自己を卑下しなくてもいい。

外出する際に鏡で身だしなみをチェックするのと同じで、
ゴミが付いていれば
「こんなところにゴミが付いているなんて人間として終わりだ」
などと思わないで
気が付いたら取ってしまえばいいだけだ。

鏡自身は「完璧人間であれ」なんてプレッシャーは与えてこない。
ただ汚れを汚れのままに映し出すだけだ。
それを見て自分を整えていけばそれでいい。

1から2、3と来て100まで登り詰め、次は200だ、500だ、
と先にまだ何かが待っているんだと思うことでしか人間は中々生きていけないが、
これではこけてしまったときが悲惨なので、
社会の片隅にでも良寛さんのような人がいてくれたらどんなにいいかと思う。
全員がそうなる必要は全くないから。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/07 21:43
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