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光と闇の振り幅

前回に書いたように、常識を壊すようなものを書きたい。
下に引用したのは哲学者・西田幾多郎の小篇『人心の疑惑』の中の文章。


『心を苦しめ身を役して五十年の飲食をつづけ、
 その結果は焼いて棄つべき臭肉を何十年か維持しまた子孫を遺したまでであって、
 しかしてその子孫がまた同じ無意義の生活を繰り返すものとすれば、
 何とこれより馬鹿らしきことはあろうか。
 かくのごとき生命はむしろ早く打ち殺して茫々の中に投じさる方が
 いかに爽快であるかもしれぬ。
 人間は牛馬のことを笑うがわれらも無意義の性欲のために駆使せられて終生役々たるのは、
 鼻緒に縄をつけられて引きまわされる牛馬とあまり違わぬようである。』


「何としてでも生きなさい」と言う人もいれば、
上に引用したようなことを言う人もいて、
そのどちら側にでもなるべくスムーズにコロコロと移動する自由を保障するのが
安定した社会じゃないだろうか。

人は窮地に陥るほど宗教的になる。
そのときに社会が「常識」しか認めないのでは、報われる人も報われない。
人間というのは世間が考えている以上の振り幅を持っている。

「闇」をメインにする必要は全くないが
(そもそもメインはいつでも「光」だからこれはあり得ないが)、
「闇」を受け入れるだけの知恵を持った社会が熟した社会だと思う。
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固定観念を壊す | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/18 21:30

それが本当の宗教か

今の世の中には宗教が足りないと思う。
むしろ多すぎるくらいだと言う人もあるだろうが、
僕の言いたい宗教とはそういうもののことではない。

僕の中では宗教とは
「いかに生きるかとの問いの場に在ること」という程度に考えている。
世界に宗教は数え切れないくらいあるだろうが、
まともな宗教に共通しているのはきっと「自我の死」だと思う。
それゆえに宗教は危ないものになる。

世の中に宗教が足りないと言ったのは
「危ないもの」が足りないという意味だ。
もっと言うなら常識しかないということ。
常識や倫理しかない。
常識外・規格外・世間外・道徳外がない。
日向しか見ずに日陰をなかったことにしている。
社会(世間)がきちんと整えられすぎていて、逆に人間として不自然だ。

常識があれば必ず非常識がある。
でも非常識はないことにされている。
社会の中に常識と非常識を共存させるのは困難だが、
それを許す数少ないものが宗教で、それが宗教の社会的な役割だろう。

宗教の究極は「自我の死」なのだからどうしても非常識な面を持つ。
宗教家には「生きなさい」と杓子定規に言うイメージがあるかもしれないが、
本当の宗教家なら時には「死ね」とも言うはずだ。
「生きろ」と「死ね」をその場に応じて使い分けるのが本当の宗教家だろう。
「死にたい」という人がいたら
「そうか。わかった。」と己の全存在を賭けて引き受けるのが本物ではないか。

あまりにも固定観念にとらわれすぎている。
本来それを壊す役割を持っていた宗教がもう機能しなくなったからだ。
でも今さら「宗教」と言っても
既に強烈なイメージが出来上がっているからその言葉は役に立たない。
代わりに「スピリチュアル」という言葉が流行っているが、
これもたいていは「より良く生きよう」という
固定観念の枠内のものなのでインパクトが弱い。破壊力がほぼない。
「宗教」に代わる新たな言葉がないものか。
本人に宗教と気付かせずに宗教をやらせるような。

「宗教家」と言うと大体の人が
「善の塊のような人」及びそれを演じきっている人か、
もしくは新興宗教の危険な教祖のイメージを持っていると思う。
でも、(後者は論外なので置いておいて)
本当に人生に対して真摯に向き合った人が「善一辺倒」でなどあるわけがない。
むしろ優れた宗教家であるほど善よりも悪に馴染みがあるはずだ。
(悪人ということではない。)
そのことをもっと知ってほしいと思う。
善・正義至上主義の裏で泣いている人がどれだけいることか。

宗教というとただの善という仮面でしかないと思われている。
でも本当の宗教とはあらゆる固定観念を壊していくものだ。
世間が善しか見ていないなら悪を突きつけるのが宗教だ。
世間が倫理・道徳しか説かないなら
学校の「道徳の教科書」を燃やしてしまうのが宗教だ。
よく「これは例外」と言う、その例外が平然と起こり得るのが宗教だ。
「これは正しい」「これは間違っている」と簡単に割り切りすぎだ。
その割り切れない部分にこそ宗教がある。

あらゆる固定観念を壊していって
最後に壊すのが「自分」という固定観念だろう。
本当の宗教なら必ずそこに行き着く。
だからこそ宗教は危険でもある。

宗教、宗教と何度も繰り返したので嫌な思いをされた人もいると思う。
僕自身「宗教」という言葉はあまり好きじゃないしできれば使いたくない。
一応断っておくが、特定の教団に入信するのを勧めるわけではない。
「組織」ほど固定観念がはびこりやすいところはないからだ。
僕が言いたかったのは要は“固定観念を壊したい”ということに尽きる。
固定観念を壊すような発言はエネルギーがあるときにしかできないが
またポツポツと今後書いていこうと思う。
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固定観念を壊す | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/17 14:10

下向きの飛翔

何もかも自由だった。
自由すぎて逆に身動きがとれなくなった。
かえって“こうせよ”と言ってくれる声が欲しかった。

足場がなくなり崖から落下しているような感覚。
落ち続けてもう何年。
上も下も右も左もない真っ暗な宇宙を漂っているような感覚。
いまだにどこにも行き着かない。

気付いた。
己が落下しているのだと思い怖くてもがいていたが、
これは飛んでいるのだ。と考えることもできる。
何にも縛られずに自由に空を飛ぶことができたらどんなに気持ちいいだろう。

自由すぎて怖かった。
でもまさしくそこにこそ本当の自由があるのだという気がする。
着地できる地面がないことに気付きつつ、
それでもやがてどこかに行き当たり着地するのを願わずにはいられなかったが、
もしかしたら飛んでいるこのままが本当の自由なのかもしれない。

落下したその時点で既に飛んでいた。
でもそれに気付かずにひたすらもがいていた。
この自我を一度ボキッと折ってしまわないと。
落ちるしかないなら素直に落ちるのが本当の自由だ。

崖下に衝突するのが怖くてもがいている。
しかしこれは衝突させるしかない。
そもそも衝突する地面がないとわかっていながら
なぜ衝突を恐れる。
永遠に地上に落ちてしまわないのならそれはもう飛翔じゃないか。

これは落下ではない。
下向きの飛翔だ。
漂流ではない。
遊泳だ。

それがわかったならどう行動すべきかはもう決まっている。
問題は“何をすべきか”ではなく“やるかやらないか”だ。




とりようによってはかなり危ない文章ですが、
どうぞご心配なさらないでください(笑)
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我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/15 21:28

己を偽ってはならない

僕が欲張りなのか。
―いやそうじゃない。

嬉しいことも悲しいことも交互に繰り返すだけだ。
ちょっといいことがあっただけで
「人生は良いものだ」とかそんな寝言を言ったり。
そんなものに振り回され続けて死にいきたくはない。
それだけで終わりたくない。

“それが人生の妙味だ”
“与えられた今を受け入れろ”
“喜び以外に幸せはない”
“些細なことにも感謝を”
“どう受け取るかは自分次第”
“悪いところばかり見ないで良いところを探せ”

そんな寝言にはもう騙されない。
惑わされない。
ふらつかない。
騙されてやる必要もない。

己を偽ってはならない。
人にどう言われようと僕は僕のやることをやるだけ。
そろそろふらつくのはやめろ。
本当は何が正しいかなんて最初からわかっている。
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決意・覚悟 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/09/08 21:37

『神谷美恵子日記』

最近昔好きだった本をよく読み返している。

ハンセン病(らい)の患者の治療や『生きがいについて』などの著書で
有名な精神科医の神谷美恵子さんの日記(『神谷美恵子日記』)を少し読んだ。
1939年(25歳)と1949年(26歳)の部分。
相変わらずこの人の文章を読むと燃えてくる。
自分と同じ位の年齢のときのものだから余計に感じるものがある。


1939年
『軋轢のある、神経の緊張した、なやみの多い世界でないとだらしがなくなる。』

『こういうような「健康な」社会が社会進歩の理想だとすると少々考えねばなら
 ない。
  凡庸なる民衆を作り出す物質的にゆたかな平和な社会と、少数の優れた
 人を出す軋轢の多い社会とどちらがいいかと言われたら私のSollen[あるべ
 きこと]の念は前者を選び、私の野性は後者をえらぶだろう。』

『私は自分一個のためにもう十分苦しんだ。今はもはや自分のために苦しん
 でいる時でも喜んでいる時でもない。』

『誰しも真摯に己が進むべき道を求めて行けばそれでよい。どの道がより尊い
 と言う事はない。
  しかし私は私、と言う事も今度一層はっきりした。』

『私は私の問題をもはや彼(注:兄)に考えてもらおうとは思わない。だって私の
 問題は彼にとって問題になり得ないもの。(中略)そして自分の問題は神様と
 の間のみで決めるべきなのだ。誰にも―いいか誰にも、神様のみに聞くべき
 処を迄聞いてはならぬ。私はこの間ちがいを時々犯して来た。』

『ああ、今私は「私でありたい」純然たる願いで一杯だ。かり着で生きる事だけ
 はしたくない。』

『病気の人の相手をして自己満足するのが私の目的ではない。病的なものに
 は私はもう心からの嫌悪を感じる。(中略)だから私は人を、人の心を、体を、
 社会を、健全にするために一生を燃やしつくしたいのだ。』

『自分をもてあます、祈る時のみ平安。
 主よ私の心の混乱をどうにかして下さい。私にはもうわからなくなりました。』

『たとえ失われても惜しくもない。要するに装飾的なものではないか。
 (注:高い語学力ゆえの国際的な舞台での活躍の機会について)』

『私も、もし私の使命と信ずるところを単なる便宜などのためにすてたら自分自
 身に対するrespect[敬意]を失うだろう。否、それは自分に対してというよりも
 もっと大きなものだ。
  学校をやめて以来、もっと常識的な道をと考える様につとめればつとめるほ
 どself-respect[自尊心]を失って、けものの様になるより他なかった。
  人の使命というものは、その人の存在意義にかかわるから、これほど大き
 な事なのだ。単に自分一個の幸不幸の問題ではない。
 地味に、コツコツと勉強し、生活したい。寒い処でふるえながら勉強し働きたい。
 家庭と仕事の間の板ばさみになるのも私らしいと思う。あまり楽な処にいると
 水から出た魚の様に無気力になる。』

1940年
『人間はこうして、生涯に幾度か生物が脱皮する様に、全然過去と決別して新し
 い生活へ移るものなのだろうか。そして死がその最後のものなのかも知れぬ。
 今の自分にとって、過去との決別はまだ痛い。しかし新しき未来の光は日々い
 やまさりてまぶしい。十年近くもの間、苦しむために生きていた様だった。その
 意味は?と考えると深淵をのぞく心地。「苦しみ」という事は、何故、あるのだろう。』

『宇宙を創り、その中に、かかる「我」を創りて置き給いし者を思うほどの平安は
 またとあろうか。何が起こってもよいのだ。このまますべて中途半端で死んで
 も、あるいは長寿を全うしてこの世にいささかなりと足跡を残そうとも、根本的
 に大した違いはないのだ。創られし目的に忠実に生きる、それだけだ。』

『悲劇の原因が己の本質に根ざすことを知った者には愚痴はない筈。』



多くの人から尊敬される人物だが、
彼女の為したことが偉大であり人格的に優れたことなのだから
尊敬されるべきなのだ、とは僕は思わない。

この人にはこうするしかなかったのだと思う。
自分と真摯に向かい合って生ききったという意味において
この人は尊いのだと思う。
そんなことを昔考えていたのを思い出した。
とにかく今の僕は発奮させてくれるものを求めている。
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好きなことば | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/04 22:25
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