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祭りの子ども、大人

先日地元の祭りを覗いて来た。
こぢんまりとした祭りで、良かった。

夜店が出ていて
地元の人もよそから来たと思しき人も賑わっていた。

子どもが射的をしているのを横から見ていて、
何も考えずに楽しむ子どもも
子どもと一緒になって喜ぶ店側の大人も、なんかいいなと思った。

帰り道、こんな僕でも人間を愛おしく思う心をもらっていることが
せめてものなぐさめだなと思った。
これがなかったら今頃僕はどうなっていただろう。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/10/28 20:29

強制終了の呪文

最近疲れきった心を休ませるときの手段が
“もう生きない”
“もう既に終わっている”
“継続させない、既に終わっている”
と言い聞かせることに定着しつつある。
そんな変わった手続きを経なければならないというのは
我ながら面倒くさい人間だと思う。

どうも(何事に対しても)継続させようと思うと精神が拒絶反応を起こす。
小康状態から展開して心身ともに活発になってくると
途端に“何もすべきことがない”という事実に直面させられ再び疲弊する。
心の歯車がギスギスしてくる。
その磨耗を収めるとどめとなるのが上の呪文。

最近体調が優れなかったこともあって意気消沈していた。
意気消沈していたからこそ余計な「我」が出てこず、
ニュートラルな状態でいられた。
それからしばらく居心地良く過ごしているとやがて活動性が出てきた。
活動性が出てくると調子づき始め「我」が出てきた。
「我」が出ると疲弊してくるがこれは止まろうとしても止まれない。
やがてスタミナ切れで意気消沈。

いつものサイクルだが、この一連の流れが急激に速くなった。
前は内部の不協和音に気付きながらも調子に乗り続ける期間がもっと長かった。

「何もない」が答えだとわかってから
それに背こうとすることに対して
もはや心身が受け付けなくなったのか。
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我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/10/27 20:46

ビーズ玉の音楽

僕という存在は
生まれた地点から死ぬ地点にまで張り渡された一本の糸、
その糸に通されたいくつかのビーズ玉の束なのかもしれない。

死へと縦方向に進んでいく。
糸に緩みがあれば玉は横へ振れることもできる。

何もできない僕は、糸がピンと緊張していて玉が横へ動くことがない。
趣味、楽しみ、しなければならないこと、
こういった横の動きができずにただ定められた真っ直ぐ縦の動きをするしかない。

糸の緊張が強いのは糸が切れてしまうことを恐れているから。
糸が切れれば繋ぎとめるものを失ったビーズ玉が方々へ散らばってしまう。
無秩序に、散漫に。
それが怖い。

でももしかしたら
この糸を切ったところにこそ生死を超えた本当の自由があるのかもしれない。
拘束を失い、飛び散るビーズ玉が一つの音楽を奏でる。
縦にも横にも引かれない、
どこからの引力も受けないその玉の一つ一つが
その場所一杯に響き渡る。
「今」の隅々に。「今」となって。
さえぎるものが何もないから。

最近そんなことを思う。
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人間観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/10/22 15:26

太宰治『人間失格』

下の書いたのは太宰治の『人間失格』の中の文章。
こういう文章を紹介しても、
教養になったり知見を広げることになったりは特にしないと思うけど、
ここには一人の人間のリアルなものが表現されていると思うので紹介する。

もちろん、これは小説内の文章なので、
空想上の人物の発言であり、また誇張されているところもあり、
そういう意味では全くリアルではないけど、
小説にしたからこそそこに太宰治のリアルが現れているとも言えると思う。
リアルなものが誇張されることによって歪むのではなく、
誇張されたものこそが太宰治のリアルだと思う。
それはともかくどうぞ。



 めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか
聞こえませんでした。その迷信は、(いまでも自分にはなんだか迷信のように思われて
ならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食
べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど
自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉はなかったので
す。

 つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事にな
りそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食い
ちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけ
たことさえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実
にしばしば、仕合せ者だと人に言われてきましたが、自分ではいつも地獄の思いで、か
えって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっ
とずっと安楽なように自分には見えるのです。

 自分には、禍いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が背負ったら、その
一個だけでも十分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと思った事さえありました。

 つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないので
す。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、
それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨な
阿鼻地獄なのかもしれない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺も
せず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦
しくないんじゃないか?エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、い
ちども自分を疑った事が無いんじゃないか?それなら、楽だ、しかし、人間というもの
は、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない
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好きなことば | コメント(15) | トラックバック(0) | 2011/10/10 15:11
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