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秋風は哀愁を誘う

散歩していて。

“これで終わったら僕の人生何もないなぁ。”
“何も残さなかったなぁ。”

そんな思いがどこからともなく溢れてきた。

“もう考えなくて済んで、
 もう苦しまなくて済んだ。”

意図的に実験的に
それでも不可避にやってきた外的な要請から
一旦そういう“場”に立った。

これで終わるのは嫌だなぁ。
寂しいなぁ。
そりゃないよ。
何にもしてこなかった。

あたりの山はもうすっかり紅葉づいて
野原の秋草も寒風になびいている。

沈鬱でもない。
悲痛でもない。
陰惨でもない。

僕自身も、僕の感情も、何とも形容ができない。

風に吹かれる度に皆一斉に波をうってみせるススキ。
“おお、君らは次の世代にバトンタッチしていくんだろう。”

秋や冬の草木には同情は相応しくない。
健気にも朽ちたその姿の内には、芯のしっかりとした温もりがある。

けれども同じように朽ちてゆかんとする僕の身体を
僕は傍から眺めていても
僕の精神はそこから温もりを嗅ぎとってはくれない。

“すべてのものが次の世代へ次の世代へとバトンタッチして
 そうしていつまでも続いていく。”
“僕自身もその営みの一部を担っているのだろう。”

きっと“できる人”なら哀愁と歓喜と感謝に打ち震えるだろう。
でも今の僕の心の中にあるのはただ哀愁ばかりだ。

ああ、何も残さなかったなぁ。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/11/27 15:34

“己”を打ち建てる

“嫌なことがあってもこれからいいことがある”
“明けない夜はない”
“大きな視点から見れば些細なことだ”
“ピンチはチャンス”

ずっとそういう甘い言葉を遠ざけてきた。
浮ついたものとしてきた。
いわゆるプラス思考。

でもそれらの考え方を実践してみると確かに気が楽になる。
上手く生きていく上では確かに有効なもの。

でも僕は楽になりたくなかった。
地獄の底にどっかりと座りこんで、
歯を食いしばって黙って耐えながら、
その中から出てくるものだけを“本物”とした。

浮ついたものは徹底的に遠ざけ、
一時的な感情の起伏には振り回されないようにしてきた。

苦しみだけが僕の唯一の原動力だった。方向性だった。
だから慰められるのも心を軽くするのも避けた。

どこにも方向性を見出せなくなった数年来の僕にとって
唯一持つことができた方向性が“苦しみ”と“人間はいつか死ぬ”だった。
それによって僕の混沌は何とかギリギリのところで秩序を維持し、
“悩む”ことができた。
“真理を掴む”という方向性と原動力が与えられた。

けれどもずっとわかっていた。
“悩みが解決した後どうするのか、何もない”。
かなり意識的にわかっていただけに厄介だった。

僕はある意味マゾヒスティックだった。
己を痛めつけて痛めつけてそこから出てくるものだけを人間の“本当”とした。
人から与えられたものでは安心しきることができないのはわかっていたからだ。

よく人のいう、“一瞬一瞬の幸せ”というのは僕から最も遠いものだった。
けれども僕のたどり着くべき“答え”がそこにあるのはわかっていた。
ただ僕はそこへたどり着くルートを自分で歩まねば気が済まなかった。

人生という「生まれてから死ぬこと」の正体がわからないのに、
しかも既にそれに参加しているのに、
一瞬一瞬の些事に気を向けてなどいられない。
一刻も早く解明しなければならないことがあるのに、
それを忘れて日常に打ち込むことはできない。

でも僕の求める答えは確かにそこにある。
人生という“時間軸”から降り、“瞬間”に解体されること。
抗いを止めて虚無に飛び込み、それでも“要諦”を掴んでいること。

苦しみがなくなれば何もすることがない。
―なら人生を謳歌すればいいじゃないか。

それができない僕はこんな面倒なプロセスを踏んで
それをやろうとしている。
己の中に己だけに通用する建造物を打ち建てることによって。
そして僕は初めて僕として生きようとしている。
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「自己」を見つめる | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/11/22 21:42

心の中にある壁

身体感覚に焦点をしぼった話。
僕はものを書いてもあまりカタルシスは感じない。
力量のせいもあってか、自分の気持ちというか
気迫とか勢いを文章に乗せられないからだ。
口で話す言葉にも乗せられない。
呼吸にも乗せられない。
どこかひっかかったような感覚がある。

内のものが外へ出ようとするのを止める壁のようなものがある。
この壁は内側からすれば、外へ溢れ出すのを防ぐ壁となり、
外側からすれば、内に侵入させないための壁となる。

ちなみに外側から見たときのこの壁は、看板でもある。
この看板によって他の人と交流する。

僕はこの壁が分厚くて頑丈なために内と外との流通が滞りがちだ。
この壁が壊れるときというのは、
誰かに心を開いて「もういいや」となったとき、
または自暴自棄になり諦めきって「もういいや」となったとき。
情けないようなうめき声を出すときもそう。

呼吸にしても、
全身を使って全力で運動した後などの息には気持ちが乗っている。
堰き止めるストッパー(壁)を通さずにスムーズに外へ出、また入ってくる。

これらに共通しているのは余計な力を入れないということ。
余計な力みが壁を造り内外の疎通をさまたげる。

力みをやめるには全力で力むしかない。
一度全力で力むからこそ脱力できる。
良くも悪くも緊張のピークから解放されたとき、心身の力みが取れる。
絶望したり失望したりして途方にくれているときに
自分の内側から「自分は本当はこういうことがしたかったんだ」という
「本音」が聞こえてくるのは、
そのときに余分な力が抜けているからだ。

罪悪感や劣等感はこの壁を分厚くし、自閉させる。それを卑屈という。
世界を信用できなかったり脅威に感じたりする以上、
なかなかどうしようもないが、
目を背けているのは自分自身が先じゃないかと思うときもある。
僕自身のこととして。

目を背けるから壁ができ自閉する。
人としてまずいなと思うから思わず目をそらす。
誰に怒られるでもなくまず自分から先に目をそらす。

そこで僕の発声は、
義務上、相手に届くようなボリュームを持たせようとしながらも
それが口から外へ出て欲しくないような気持ちをも伴った
矛盾したものになる。

きちんと相手(世界)の前に正座して、
面と向かって目を見て対座できたらどんなに清々しいだろうと思う。
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我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/11/19 15:23

自分を律すること

自分で自分を律することはできない。
「しなければならない」と言うのも自分なら
「しなくてもいい理由」を見つけ出すのも自分だからだ。
「してはいけないこと」に関しても同じ。

自分の頭の中でグルグル回ることになる。
自閉的になる。

自分を律するには自分の中にもう一人誰かがいなくてはならない。
尊敬する人、「この人は」という人、もしくは神仏。あるいはもう一人の自分。
仰ぐような気持ちを持つことが一番いい。

仰ぐというのは自分を投げ出すこと。
さらけだすこと。
自分をコントロールしようとすることではない。

律するというとコントロールするというイメージが湧くが、
自分で自分をコントロールできる部分なんてたかがしれている。
人間というのはそんなに強いものじゃない。
してはいけない理由もしなければならない理由も簡単にでっちあげる。

世の中には精神論が溢れているが、
人間にとって気迫や気概というのは
それほどコントロールが可能なものではない。
もちろんそれを間接的に操作していくための技術もあって、
それは経験によって熟練していくだろうが、
それにしても精神論が多すぎるように思う。

ともかく、
心の中に自分ではない誰かがいると自分を律していける。
そういう人を持っている人は幸せだと思う。
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自力 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/11/18 21:41

めずらしくスピリチュアルについて

最近スピリチュアル系のブログをいくつか見る機会があって、驚いた。
どこかの誰かのブログでよく見るような文章が書かれていた(笑)
もしかしたら僕のブログはスピリチュアル寄りに分類されるのかもしれない。
今まで合理に合理を積み上げて(論理ではない)やってきた
自負があるだけに驚いた。
そういえば僕はよく神とか仏とかいうフレーズを使う・・・。

スピリチュアルについては、ブログで書いたかどうかはわからないが、
それがサプリメント感覚で摂取されていることや
人間中心主義の延長でしかない(と思える)ことから
あまり好感は持ってこなかった。

でも、彼らの言っていることはそんなに間違ってはいないとは思う。
僕のわかる範囲では。
少なくとも自我に関する認識については僕も共感できる。
「真我」とか言い出すと僕はお手上げだが。
人間の心理作用を徹底的に分解していって浮かび上がってくる「自我」、
これに対する認識や洞察は正しいと思う。

ある意味で、大昔から伝承されてきた人間に関する知恵が
スピリチュアルによって再び多くの現代人に継承されていると言える面もある。
そう考えると単純に批判もできない。

ただ、“人間は幸福になるために生きている”というようなことを言われて、
もちろん慰められたり幸せに生きられるようになる人もいるだろうが、
これはそんなに簡単に誰でもが口に出せるような言葉なのだろうか。
その重みのなさに僕はひっかかる。

同じ言葉でもそれを言う人のリアリティによって
大きく変わってくるものがある。

「いまここ」というのもそうで、
確かにそれを意識することで生きやすくなることは十分にあるだろうが、
「いまここ」をもっと徹底的に押し進めて
自分の生きてきたこれまでをすべて捨てて、
これからの可能性もすべて捨てて、
何もかもなくしてしまおうというそういう覚悟をしたことのある人のいう
「いまここ」というのはおそらく多くの人のそれとは大分違う。

僕は「いまここ」という言葉の真価は、
生きやすさや感動を得るために座右の銘にすることではなく、
そうして生きることが人間の道理だと「覚悟」した人に使われてこそ
発揮されるものだと思う。

己のリアリティから切り離されたものを
皆が平板に呪文のように繰り返していると
宗教の教団にしてもスピリチュアルの人にしても、
どこか近寄りがたい雰囲気が出る。
反対にどんな非常識なことでも
それがその人の誠から出たものなら尊重したい。

僕はやっぱり「さぁ、宇宙の大いなる目的に従って生きよう」と言う人より、
最近紹介した相田みつをとか宮沢賢治のような人が
ひたすら自己と向き合っている姿を見せられる方が
背筋が伸びるし、強く清く生きようと思う気持ちになれる。


*単なる個人の感想です。
スピリチュアルについてもほとんど知らないのに書いてすみません。
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世の中 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/11/17 21:44
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