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今年の漢字一字

もうすぐ2011年が終わる。
このブログを書き始めたのが今年の1月の末だったから、
ちょうどほぼ一年になる。

このブログでの今年一年を表す漢字一字を考えてみた。
『直』でどうかなと思う。

もともと口数の多い方ではないし、自分自身のことも話す方ではない。
むしろ周りの人達からはよく“秘密主義者”と言われる。
そんな僕がよくブログを一年も書いてこれたものだ。

このブログでは、誰にも見せないような自分の一面を見せてきた。
意図的に。挑戦として。実験として。

(皆そうだろうが)僕は本当に親しい人以外には、
自分が悩みを抱えているということは言わない。
なるべく気付かれないようにしている。

でもここではそれを書いてきた。
それをこそ書いてきたと言ってもいいくらいに。

誰にも通じなくても伝わらなくても関係なく
書き続けようと思って書いてきた。
このブログの中に「僕という人間」を存在させようとした。
「一人の人間の真実」を書きたかった。
だからこのブログは僕にとっては単なる「ガス抜き」以上のものだった。

死への願望も書いた。
苦しみの具体的な中身も書いた。書こうとした。
こんなものは誰にも見せられない面だ。

「正直に」「素直に」「真っ直ぐに」、
そしてできれば「愚直に」。

また、分解して無秩序に方々へ散らばるがままにさせていた「心」を、
新たに創り「直」そうと努力してもいた。
(これは今年だけで終わるとは思えないが)

そういう意味で今年の漢字は『直』がふさわしいと思う。


こんなブログですが読んで下さった方には感謝しています。
特にコメントを下さった方にはお世話になりました。
来年も同じような調子でしょうが、
どうぞ宜しくお願い致します。
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未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | 2011/12/28 20:55

自分は泣こう

少し縁があって宗教法人の大本というところを知り、
以前興味を持って調べたことがある。

大本の教義などには霊界や神の話が出てくるので、
それは僕には「わからない」としか言えないが、
そういうものを抜きにすごく魅力的な人がいる(故人)。

三代教主補(三代教主の旦那さん)の出口日出麿(ひでまる)さん
という方で、その方が若い頃に書かれた日記を読んで、
一気に引き込まれた。

以下はその方の日記をまとめた『生きがいの確信』の中の詩。
これを人に見せるためではなく、
自分の日記として書かれたというところに僕としてはものすごく魅力を感じる。



血みどろになって
どうやらこうやらここまできた

ふり返ってみれば
おおぜいの人たちが
自分のたったさっきまでたどった路を
自分があえいだと同じように
喘ぎつづけている

みよ あの急勾配の坂を
あそこで自分は
どれほど苦しんだことだろう!

喉はかわく 息はせまる
肉にくっついた重い荷が肩をしわらせる

ああ だめだ! と
心中で幾度叫んだことだろう

辛抱なさいもう少しだ
そう言って
自分の背を押してくれた人があった

ああ あの時 あの人がいなかったら
自分はとうに息がきれていたのだ!

選まれた者だけが
登れる山だって?
いいや、そんな不人情は
自分が人間である限り
言うことは許されぬ

見ゆる限りの兄弟たちが
ひとり残らずここへ来て
ともに手をとって踊る日までは
自分には踊れぬ

見ゆる限りの兄弟たちが
ひとり残らずここへ来て
ともに手をうって笑う時までは
自分は笑わぬ

見ゆる限りの兄弟たちが
あの血みどろの世界から
解放されてしまう日までは
声を限りに
自分は泣こう
今日も泣こう
明日も泣こう
あさっても泣こう

神さまどうぞ
今少しく試練を和らげたまえ
今少しくさばきを軽くしたまえ

神さまどうぞ
すべてを許す救いの綱をたれたまえ
彼らがみんなここへ来るまでは
自分は祈ろう声をかぎりに
今日も祈ろう
明日も祈ろう
あさっても祈ろう
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好きなことば | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/21 20:30

頭上に拳骨

「行ける!」
と、うなだれていた首をもたげて空を仰いだ途端、
頭上に拳骨。

ひび割れ崩れ落ちていく大地。
退路もなく。
ここを中心にして四方から亀裂が今にも迫ってきている。

“もうどうしようもない”

なんて何回思ったことか。

迫り来る大地の裂け目は今にもこの足先に触れそうなのに、
まるでスローモーションになったかのように
そこから先(終末)へはなかなかやって来ない。

ヨロヨロとでも確かにお前は立っているのだと、
今現にお前は立っているのだと、
そのことに気付け気付けと言わんばかりに。

いや、スローモーションにしているのは僕自身か。
いつまでこれを続ける気だ。

まだか!さあ早く!
と言われても
愚鈍で臆病な僕にはなかなかおっしゃる通りにはできず。

ありがたいのか、
面倒くさい人間になってしまった僕には
「ここだ」と思った瞬間に平手打ちが食らわされる。

そんなにでもしてもらわないと
鈍くて面倒くさがりな僕はなかなかわからないんだな。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/14 20:31

“本当は せつない夜なのに”

少し以前のこと。
何のきっかけもなく突然JUDY AND MARYの曲が聴きたくなった。
特別この人達のファンでもなかったのに、
当時の少年時代の自分が妙に思い出されてきて感極まった。

『るろうに剣心』というアニメが好きだった。
その主題歌でもあった『そばかす』という曲の中の
“本当は せつない夜なのに”
という部分を聴くとなぜか泣きそうになる。
歌詞の意味とはあまり関係なく。
他にも懐かしくなぜか泣けてくる曲がたくさんあった。

そのときの感情をメモするような感じで携帯に書いておいたので
滅茶苦茶な文章だが、一応そのままで書かせてもらう。



わけもわからずとりあえずここまで生きてきました。
明日死のうと数十年後死のうと生まれてすぐ死のうと同じなのに。

時間を超越してこの音、
甦る幼年期の甘えた気分がありがたく。

いつか死ぬのに。
どんな経験をしようとやがて死ぬのだから同じなのに。
何年で死のうと。

時間を超越して与えられた感動。
よく生きたと。
それは継続に対するものではなく、
時間を超越したもの。

生そのものを肯定してもらえたような。
肯定も時間も幸福も神も自分もないようなところで感動、
とにかくかなしいようなありがたいような。

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いま・ここ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/11 14:48

南直哉さん

書店でなにげなく手に取った本。
南直哉さんの『賭ける仏教』。

中身は読んでいないが
帯に書かれている文章が目にとまったので。

『生そのものが苦であるならば、死んでしまってもよいではないか。
 なぜ死んではいけないのか。
 人はみな何となく生きて、苦しんで死ぬ。
 それでいいのか。
 いや、死をあまり意識しない人は、それでいいかもしれない。
 しかし私のような人間はなぜ生きるのかと問わずにいられない。
 そのとき、私の生きる支えになってくれそうな仏教が
 何を言っているかわからないのでは困る。』


「それでいいのか」
その言葉が重く響く。
相変わらずこの人の言葉は他人事とは思えない。

「人はみな何となく生きて、苦しんで死ぬ、それでいいのか」
案外とこのあたりの感覚、
こう問わしめる感覚のことは何回説明しても、
誰もわかってくれない。
わかってくれそうなものなのに、
なぜかわかってもらない。
聞いている人もわかってくれているつもりであるかもしれないけど、
やっぱりわかってくれてはいない。

そこにはやっぱり寂しさを感じるときもある。
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つぶやき | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/12/08 20:40
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