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今回は気負わずにいきます

言葉というもの。
意思(こころとおもい)というもの。
難しいものですね。

最近変わった記事ばかり書いていました。
自分の中に“溜めている”という感覚があって、
それを出してすっきりしたくて書いていました。
儀式的な意味もありました。

溜めない生き方を今後していこう、ということですが、
とりあえず一度満足するところまで吐き出してみようという、
そういう儀式的な試みでした。

でも難しいものですね。痛感しています。
すぐに気負いになってしまいます。
気負いが全てを見えなくするのだと気を付けてはいても
そうなります。

“思い”が人間を人間たらしめているのでしょうが
これほどやっかいなものはありません。

まだまだ変わった記事は書くと思いますが、
今回は一息入れます。


僕はFC2ブログをやっているのですが、
このブログには『アクセス解析』という機能が付いています。
それを使うと、どんな検索用語によって
お客さんが自分のブログにたどり着いたかを調べることができます。

そこでこの1月はどんな単語で検索されたのかを調べてみました。

『夏目漱石』系、『金子みすず』系、『太宰治』系。
このあたりが一番多そうです。妥当なところですね。
次いで、相田みつを、南直哉(禅僧)、駒澤勝(親鸞関係の方)
といったところです。

人物の名前以外に、例えば『人生がわからない』などの
このブログでよく取り上げるような内容のものも多いです。
自分と同じような方が来て下さっているのだと思われるので、
ブログを書いている甲斐があったなと思うのですが、同時に、
たまたま来られたその方達に僕に何ができているのだろうとも
思います。
このブログは読者の方にとっては必ずしも親切とは言えないからです。

話がそれました。
実は以前、他の方のブログを拝見していて、
なんでこの単語で自分のブログに来たのかわからない、という
“変わった検索用語”をブログ内で定期的に発表されているのを
見かけました。
それで僕も真似しているわけです。

ですが、残念ながら今月は変わった用語はありませんでした(笑)
いつだったか、「なすはどうしてなすびっていうの?」
というようなものがあって驚いたんですが。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/01/31 21:19

「自分」という壁を立てないこと

自分をさらけだすとは。
最近このテーマばかりだが。
メモ感覚でまとまりなく書く。

神や世界との間に「自分」という壁を作る。
そうすると例えば、声を発したときに
その声が壁に当たってはね返ってくる。

自分のまわり一周が「自分」という壁で覆われていたとしたら
発したその声はその密室内で反響、増幅する。

これが妄想。
頭の中で鳴り響くノイズ。
猜疑心や罪悪感、疑念など。
はね返ってきた自らの思いによって惑わされる。
自分で自分の発した声に振り回される。

骨伝導というのもある。
外部の音を聞くのでなく内部の振動を音として知覚する。
こちらが本当の自己の声では。

カラオケを例に。
発した声がマイクを通して部屋中に反響する。
この声はもはや自己の声ではなく外部の物質だ。
その声が耳に入ってくるときそれは対象化された声となっている。
内部の声はそうではない。
でもカラオケでは内部の声(振動)は
(マイクを通した)ノイズにかき消される。

壁がなければ声は返ってこない。
捨てっぱなし。
自己の声を改まって「自己の声」として聞くこともない。
本当の自己の声は骨伝導として聞こえる。
その振動そのものが自己。

声を発するのと内側が振動するのとは同時だ。
放り出すのと受け取るのとは同時だ。
捨てるのと得るのとは同時だ。
もし壁を作らずに放り出すなら、
ノイズに邪魔されず、内側の声を聞くことができる。
(内側の声と言ってもそれは「自己の声」ということではなく
「声そのもの」が自己だということ。)

「受け取る(受動)」という方面を強調して見るなら、
誰かから与えられている訳で、
それは神とか世界というもの。
「自己」という壁に当たり反響した声を受け取るのではなくて
神を聞くということ。
自己が神の目的語になるということ。

壁に当たり反響した声というのはつまり
「自分はこういう人間だ、こういう特徴がある」など。
自己で自己を認識するときのその内容。
これらは自己ではなく、所詮自己外の対象物に過ぎない。

「聞く(能動)」という方面を強調して見るなら、
ノイズでない、自己を聞くということ。
自己が振動になるということ。
自己が神にアプローチする主語になるということ。

そう考えると自己も神も別物ではない。
自己を目的格として捉えるならその主格を想定することになるし
自己を主格として捉えるならその目的格を想定することになる。
「神にすべてをさらけ出す」と最近しつこく言っているのは
この辺りのことを感覚的に捉えた表現。

念仏というのもこの文脈で考えなければならない。
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我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/01/29 15:46

継続ではない

すぐ継続しようとする。
すぐ途中にあるのだと思ってしまう。

ここにおいてもう過去は完結しているんだ。
ここにおいてもう未来は決定しているんだ。

わざわざ持ち越す必要もないし
わざわざ乗り込む必要もない。

現在は単なる通過点ではない。
生命は単なる儚いものではない。
続きで考えるから今をいつまでもあるように受けとってしまう。
今において既に死に既に生まれ変わっている。

「このまま生きていてもしょうがない」
そういう所にいつもいるように心がけないと。
すぐに横道に逸れる。

このままで生きていくのだとしたら
あと1分生きようと100年生きようと同じことだ。
世間に対してはどうでも、
己自身に対しては恥ずべきことだ。

何を残そうとそんなものはいつか消えてしまう。
あってないようなもの。
そんなものに浮かれて時間を潰すくらいなら
消えないものを今すぐ掴め。

何も今が嫌だから別の人生を求めているわけではない。
今でも別でも何でも、
とにかく一度死んで
「自ら」生まれてこないことには話にならない。
それでもって初めて「人間」だと言える。
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いま・ここ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/01/25 20:07

余力を残すな

もったいぶらずに書こう。
すべて書こう。
考え中でも書こう。
間違っていても書こう。
恥ずかしくても書こう。
照れくさくても書こう。

驕るのでもなく卑下するのでもなく。
ありのままを書こう。

見せるために書くのではない。
見せて保管するために書くのではない。
捨てるために書くのだ。
捨ててもう持たなくともよくするために書くのだ。

世界の中に入って考えなければ
自分に都合の良い妄想がどんどん生産されてしまう。
“自分はまだとっておきを残している” など。

馬鹿な。
全力を出せよ。
余力を残すな。
何のための出し惜しみだ。
逃げているだけだろう。

世間や社会に対してなら言葉で向き合え。
神に対しては心で向き合え。
言葉では誤魔化せても
心では誤魔化せない。

神に嘘は通じない。
神だから嘘が通じないのではない。
嘘が通じないから神なんだ。

そういう存在を己の内に持つこと。
それからの逃走が不可能だというものをあえて持つこと。
逃走可能なら本能的に逃げる手段を講じてしまう。
逃走不可能なら逃走しようがない。
隠しようがないから隠せない。
この不思議な逆説。

自分が思うということは
すなわち神が思うということ。
自分と神との間に一切のプライバシーも持たない。
このプライバシーがいわゆる我(ガ)。

そういう存在を心の内に置いておくこと。感じておくこと。

一年経って今頃になってなぜ自分がブログを始めたのかが
見えてきた。
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決意・覚悟 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/01/21 21:22

このまま惰性で生きるのか。

前世もその前の世も、そのまた前もずっと
無限に六道輪廻を繰り返してきて
今に至る。

そしてこのままこの調子で生きれば
来世もその次の世も、そのまた次もずっと
無限に六道輪廻を繰り返すのだろう。
終わりはない。

別に六道輪廻があるともないとも思っていないが
最近そんな風に思う。

前世はこれまでの自分。
来世はこれからの自分。

前世は「今」の前の自分。
来世は「今」の次の自分。

前世は生まれる前の自分。
来世は死んだ後の自分。

僕の「今」は―
はっきり言って惰性で生きている。
それが現世。
惰性で生きる現世。

このまま終わるのならば
次もその次も永遠に同じように惰性で生きるのだろう。
これまでずっとそうしてきて、今そうであるように。

「遇い難き仏縁」。そんな表現がある。
これまで縁がなかったのだろう。
だからこうして未だに居る。
ようやく遇い難き仏縁に遇いつつあるのだ。
これを逃せばまた永遠に六道輪廻。

僕は死した後、どう生きるのか。
今生の命が尽きたとき、来世でどう生きるのか。
来世とは未来。「今」の次のこと。
「今」の一分、一秒「先」のこと。

苦しい苦しいと口癖のように言うお前。
ではその苦しみがなくなった後、お前はどう生きるつもりなのか。
お前に来世のビジョンはあるのか。
苦しみの世界から死した後のビジョンがあるのか。

「今」惰性で生きれば永遠に同じことを繰り返す。
だから「今」死した後、「次」はどう生きるのか。
「今」六道輪廻を解脱しない限り、
永遠に解脱することはない。

「時間軸」は幻。
過去も未来も前世も来世も幻。
あるのは「今」だけ。
永遠に「今」だけ。
ではその「今」の次にお前は何を見るのか。
何を望むのか。
何を願うのか。
さあ覚悟を決めろ。
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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/01/20 20:13
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