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そのままこの身に返ってきた

『なぜ生きているのか』
そんな問いをずっと抱えてきた。

“この世界に意味なんてあるのか。
 ない。
 生きるべき方向もない。
 正しいことなんてない。
 そんな真っ暗な闇の中でどうやって生きていく。
 地面がないなら、どうやって一歩を踏み出す。
 一体どうしたらいいんだ・・・”、と。

その問いがそっくりそのまま返ってきた。

“どう生きればいいかわからない。”
“いや、わからなくていいんだ。”

それはわかるものではないんだ、という安心。
地上から天に向かって「どうしたらいいのか」と訴えてきたが、
その天が「いやわからなくていい」と答えてくれた。

こちらから天に向かって願いを飛ばしても拡散するだけ。
天の方から降りてきた。

「生きる意味がない!」と飛ばした泣き言が、
そのままこの身に返ってきた。
やっぱりそれが答えだった。
そんな気がする。

答えはとっくに出ていたのに、
それを認めたくないのが人間というもの。
認めようとどれだけ力んでも精神論。
相変わらず不安。
徒労に終わる。
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ふっきれ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/02/26 16:32

本物がわかれば偽物がわかる

本物と偽物。
本物を得るからこそ偽物がわかる。

本物がわかると
それは単なる知識となるのではなく、
あらゆるものの価値判断を定める点となる。

だから意味がある。
それ以外を偽物と定める。

あらゆるものが無価値になった現代世界で、
あらゆることを価値付け、生きがいを見出させる点。
すべての価値を定める。

人間が人間としての本分を尽くす。
ここに人間としての生きがいがあり、
人生の意味はそこにしかない。

それ以外の物事すべてを無価値にする点。
唯一の価値判断の基準となる点。

他の考え方より価値が大きいとか、
筋が通っているとかいうことではない。
それだと相対に過ぎない。

本物がわかるからこそ、それ以外が偽物なのだとわかる。
そこであらゆることの価値が決まる。
何が本当で何が本当でないか。

価値の大きさを比べたところでどんぐりの背比べにしか過ぎない。
本物がわかればそれ以外の価値はなくなる。
価値がなくなるから
それが増えたり減ったりしようとあまり騒がなくなる。

真理はよく光や鏡にたとえられるが、
それはあらゆるものの本当の姿を映すからだ。

相対でない理由はここにある。
本物がわかれば偽物がわかる。
でも偽物がわかっても本物はわからない。
というより、偽物だけをわかることはできない。
必ず本物がわかるのが何よりも先立つ。
その真理性が偽物の偽物たるゆえんを明らかにするから。

人間における問題はそれ一つ。
あとはとるに足らない些事。

相対の世界に落ちないようにと徹底してきたことが
やっとこさ報われようとしているような気がする。
ようやく真理の輪郭が見えてきた。
あとは目のかすみを取るだけ。
それが何よりも大事。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/02/23 20:43

頼りない

何が大切で
何が必要で
何が善いかもわからずに
二元性の、相対性の世界でふらふらと。

あれがいいとかこれがいいとか。

あれがいいと思えばそちらへ急いで駆け込み、
それが悪いと思えば慌てて撤退し。
実に頼りない。

何が善くて何が悪いかを見抜く眼ももたずに、
勝手に批評し判断し、
そしてその判断に自ら足下を掬われ・・・。

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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/02/22 21:14

人間の儚さ

形としての自分。
縁が姿形として現れたこの自分。

この身体。
この心。
この顔。
この声。
この名前。

形としての自分を受け入れられなかったのか。
形は脆く儚い。
いずれ、なんていわずに、一瞬でなくなる。

ちょっとしたことですぐに感動する。
「この感情は本物だ」と思う。
でもそれもあっという間に色褪せる。
単なる記憶になる。
それを認めたくないから記憶を何度も再現しようとする。

心も儚い。身体は言うまでもない。
どれだけ「自分という存在は本物だ」と思っても、
いつの間にかできたかと思えば数十年でまた消えていくような
儚いもの。

その儚い事実を受け入れられなかったのだろう。
受け入れられないから、事実と反した存在となる。
それが人間というものの持つ業。

「自分は永遠だ」と思いたいのだろう。
でも悲しいことに
完全にそう思い込むこともできず、
そうかといって事実を受け入れることもできず、
結局不安な一生を送る。

この事実との遊離が人間の本質でもあり、
人間という存在に救いがあるとすれば、
そこにおいて以外にあり得ない。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/02/21 20:52

傲慢な「自己責任」

「自己責任」と言うと謙虚な感じがする。
「すべて私の責任です」と。
でもそれが本当に「すべて」を指した場合は、
それは謙虚ではなく、傲慢だ。

そもそも人間は
自分の意志で生まれてきたのではない。
その身体を選んだのでもない。
その時代を選んだのでもない。
その場所を選んだのでもない。
その両親を選んだのでもない。
死ぬときも選べない。
死にかたも選べない。

根本的なところで、
人間は絶対的な受動性を抱えている。
このことまでも「私の責任です」と言うなら、
それは謙虚ではなく、傲慢だ。

譲らねばならない部分は譲らねばならない。
分を越えてはならない。
「自己」にすべての責任を負えるものではない。
それにも関わらず自己にしか責任を帰することができないのが
現代人の苦しさだと思う。
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人間観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/02/13 21:14
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