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特に何もないです

久しぶりに何かを書いてみたい気分。


今朝思ったことは・・・

罪悪感について。

何かちょっと暗いのでまた今度に書こう。


人のためになるようなことでも書ければいいけど、
今の自分にそんなことを期待するのはやめておこう。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/05/30 20:31

生まれて、死んでいく。

ああ、そうだったか。
僕は自分を認められないんだ。
自分を受け入れられないんだ。

そもそもが受け入れられるものではないのだから。

僕は秘密主義者とよくいわれる。
自分のことはあまり明かさない。
感情を明かさないのではなく、
自分の身の事実を明かさない。

例えば自分の家のこと、
自分の過去、経歴など、いわゆるプライバシーというもの。

その内容に特別恥ずべきところはないと思っている。
でもそれが「自分にまつわる」ということにおいて、
僕にとってそれはとてつもなく恐ろしい事実に感じられる。

僕が過敏なだけできっと他の人にもそういうところは
あるんだと思う。
『自分』は受け入れられない。

僕は必死に自分の“中身”を隠そうとしてきた。
認めまいとしてきた。
「こんなのは自分じゃない」大げさに言えばそういうこと。
「なんで自分が」「なぜ僕は僕でなければならないのか」
「こんなはずじゃなかった」「自分に限って」・・・。

実は認めまいと反発しているそちらが偽物で、
事実として『こうである自分』が本物の自分なのかもしれない。

僕は、生まれて死んでいく。
それはとても受け入れられることではない。
でも、生まれて死んでいく、それが僕。

誰かの子として誕生し、
生を送り、
やがて生を収めていくのだろう。
その生が今ここにこうしている。
これが僕なんだろう。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/05/21 20:45

そもそも土台が見えてません。

最近、空とか山とか花とか、あるいは自分の手を見て、
「あれ、これなんだ?」と思う。
「そうか、こんな形だったか」と。
相当な暇人の思うようなことではあるが(笑)

当たり前だと思って全く顧みてこなかったが
「そもそも当たり前って何だっけ?」と不思議な気分になる。

世間ではよく
「手足があること、目が見えること、耳が聞こえることを
 当たり前と思わないで、感謝して生きよう」ということを言う。

僕はひねくれ者だから、
基本的にこういう善人臭のする言葉には
生理的と言いたくなるくらいの拒絶反応を起こす。

それがない人と比べて「自分が恵まれている『から』」感謝しよう
と言っているような気がしたり、
自分の手足としてきちんと働き、この自分に不満足ではなく
満足、快を与えてくれる。『だから』いいヤツだ」と
言っているような気がしてくるから。

「幸せは何気ない日常の中にある」と言うにしても、
「ああ自分は幸せだ、良かった」と安心したいだけじゃないかと思う。

「感謝すれば幸せがやってくる」と言うにしても、
「幸せがやってくる」ための手段として
感謝している節が強いのではないかと思う。
それならエサが欲しくて芸を覚える動物と同じだ。

いくらひねくれ者とは言っても、
別にこれらのフレーズそのものが悪いとまでは言わない。
ただ、それを言うその口にやましいところはないか、と思う。

標語は教室の黒板の上など、いつも目につくところに掛けておけば
いいのであって、
皆で口を揃えてそれを何度も唱えているとなると、
そこに狂気じみたものが混ざってきはしないか。

幸せと満足とは別物だと思う。
多くの人は“幸せであることに満足する”と考える。
でも僕は“満足することを幸せとする”のが本当だと思う。

おだてられたり何かいいことがあって
「予は満足じゃ」と踏ん反りかえって過ごすだけなら
むなしい人生だと思う。
主体性がない。
積極的に欲しいものを得ようと奮闘したとしても、
それは結局「欲しいと思う衝動」に振り回されただけだから
やっぱり主体性はない。

幸せとは主体的であるところにしかないと思う。
従属的なものはすべて快楽にすぎない。

与えられたものに『自分が満足を得たので』感謝する、
では駄目だと思う。
そもそも僕にはその『自分』が何かわからないし、
そのわからない自分に何か良いことがあったりしても
それでもって「幸せだ」とはどうしても言えない。

“自己に手足があることを当たり前と思わない”と言うが、
でもその人は『自己』のことは当たり前としている。
「ああ、幸せだなぁ」と感じるその自己については無頓着でいる。
皿に盛られた料理には満足しても
それを食べる主体としての自己の“生き甲斐”には無頓着でいる。

自身の成長を喜ぶ風潮があるが、
その成長する自分が何なのかがわからないなら
結局むなしい喜びだと思う。

その考え方を極端に推し進めてみると、
そもそも生まれないのが一番の幸せということになる
のではないかと思う。
危なっかしい発想だが、
多くの人の価値観の根底にはそれだけ危なっかしいものが
あるのだと思う。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/05/15 20:22
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