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言う方か聞く方か

かなりどうでもいい話ですが・・・。

頭の中で何か考える。
そのとき頭の中でしゃべっている。

言っているのが僕なのか
聞いているのが僕なのか。

『僕が言う』『僕が聞く』
どちらにしても能動か。

僕は『僕』という言葉で主体を表したい。
でもそれは言葉である以上客体でしかない。
僕は僕の主体を『僕』で表せない。
主体性ではなく主体そのものを。

主体は永遠に謎。
それが知られるときはいつも客体として。
この僕の主体とは一体何なのか。
僕が『僕』と思っているものは実は僕ではない。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/06/28 20:49

弱さを認められない弱さ

自分のここが至らない、あそこが悪いと結構チェックする。
“向上心”というと聞こえはいい。

本当はただ自分の弱さを認められないだけだった。
“欠点を持った自分”を受け入れられないだけだった。

認めたくないから全力で克服しようとする。
だから外面はパワフル。
でも実は弱い。
弱さを認められない弱さ。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/06/22 20:30

ずっと負けてしまいたかった

<今回の記事内の表現や内容に対して不快に感じられる方も
 いらっしゃるかもしれません。
 あらかじめお詫びします。>

先日不思議な夢を見た。
ちょっとショッキングな夢だ。
二つの夢を見て、
その両方共で映画なりアニメなりを観ていて、
その中の登場人物の腕が切り落とされた。
二つともで。

起きてから不思議だなと思いしばらくぼんやりしていると、
ふいに“欠けた存在”という言葉が浮かんできて、
そうするとなぜか心が少し落ち着くような妙な感覚が生じてきた。

“『欠けた存在』とはそうだ、僕のことだ。
そうか僕は『不具者』だったのか。”
(言葉は悪いですが・・・)


僕は今まで自分なりにあれこれ考えていて、
その中で、どうも自我というのは欠陥を持っている存在だ、
穴を持っている存在だという風には思っていた。

哲学好きの友人もそれに近いことが哲学でも言われている
と言っていたので、
僕自身は哲学や思想というのはほとんどしらないが、
まあそういう方向で考えて間違いはないのだろうと思っていた。

でもわかりが甘かったのだろう。
自我が欠損を「持っている」のではなくて、
自我というあり方そのものが欠損的(?)なものなのかもしれない
と思った。
よくいわれるように仏教では自我を不確かなものとする。
だから僕も当然のように自我を不確かなものと言っている。
でもそれは口先でだけだ。

よく振り返ってみると、
僕は自我を完全で隙のないものと捉えている。
ものを見るこの視点、考えるこの心、行為の主体。

それらを無批判に完全と捉えている。
批判的に考えてからはじめて「完全でない」と結論を下す。

この完全である(と無条件に考えている)自我の「中」に、
欠損があると以前は捉えていた。
でも、欠損を内に抱えるのではなくて、
自我というあり方そのものが欠損的なものなのかもしれない。

まああまり御託を並べてもつまらないのでそれはこの辺にするが、
例の夢を見て何か少し肩の荷が降りたような気がした。
また簡単に負ってしまえるような荷ではあるが。

僕は、本当はずっと負けを認めたかったのではないかと、
そう思う。

欠損を認めたくなかった。
存在の恥部を誰にも見せたくなかった。
見せたくないというより、自分自身が見たくなかった。

人から『不具』といわれると腹が立つ。
でも鏡を通して「自分の目」で見てみると、
ああ、やっぱり僕は『不具』だったのかと
その自分の目に教えられる。
本当はずっとそうわかることを望んでいたのだ。

隠せば隠すほど、孤立する。
負けまい、負けまいと気張っているときほど
本当は負けてしまいたかったんだ。
本当はずっと負けたかった。
ずっとずっと最初から。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/06/12 22:01

救われたいけど救われたくない

救われてたまるかという気持ちがある。
“はい、これで万事解決、
 もうしなければならないようなことは何も残っていない”
と、そうなることを恐れている。

救われてもらっては困る。
現実問題が山積みだから。
“はい、これでもう君はすべての問題をクリアしたよ。
 さぁ、いく所へいきなさい”
そう言われて背中を押されても足がすくむ。
最後にいくところとはあそこしかないじゃないか。
それが嫌だから「問題」を抱えたがる。
僕は救われようと努力することによって問題から逃げていた。
生(なま)の自分から逃げている。

この自分にすべきことなどたったの二つしかない。
生まれることと死ぬこと。
たったそれだけ。
しかもそのうち一つはもう既にクリアしているのだから、
あとはひとつだけ。

臨終時の話ではない。
生まれた瞬間からすべきことはたったひとつ。
それを突きつけられて生きている。


問題を解決されてもらっては困る。
(死すべき生を)生きなければならない。
だから捩れたことを願わなくてはならなくなる。
解決したくないからこそ「解決しようと取り組む」。
取りくむことによって今が「未解決」状態になる。
そうすることによって「課題」ができて、
何かを「課されている存在」となることができる。
背景ができる。バックボーンができる。
これで“生きられる”と思える。

でもその実は反対で、
課される存在になることによって
本当の意味でのこの自分を生きることから目を逸らしている。

普通生きるとは何かに課されていることだと考える。
何かを成す。
意味を実現する。
そこに生の推進力を感じ、生を実感できる。

でも本当の生とは死のこと。
“何もしなくていい。そのままでいい。今ここ”
それは推進力をなくした状態。
つまり、死。

この「今」においてすべての問題が解決し終わり、
すべての果たされるべき要求が果たされ、
この今が「果」でしかないとき、
待つべき「後」がなくなるとき、
そのとき残る最後の「果」は死ぬことしかなくなる。

“ちょっと待ってくれ、まだ死ねない”
そう思う。
それが人間の正直な感情だと思う。
そしてこれが人間にとっての最大の問題だと思う。

この生(なま)の生を受け入れられない。
だから「未解決」「不十分」「不完全」「未開発」
「可能性を持った存在である」と信じ、生の根拠を得ようとする。
その代償により愚痴、強奪、闘争の世界に落ち、
いわゆる現実問題で悩み、
さらに寂寥感、虚無感を持つ存在となる。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/06/06 19:29

及び腰でやってきました

大地に根を下ろしていない。根を張っていない。
いつでもいけるように。
いつでも帰れるように。
ここにはちょっと寄っているだけ。
用が終わればいつでも発てる。
そんな感じ。

ここに本腰を入れるのが怖いんだろう。
入れられるだけの安心感がないから。

相対有限の世界。無常の世界。意味を見出せない世界。
そこに本腰を入れることができない。
及び腰。
当たり前か。

この死ぬべきものが僕。
生まれるずっと昔から世界は成り立ち、
死んだずっと後にも世界は成り立つであろう、
そういうところに生きている僕。

例え僕が大統領になろうと、核爆弾のスイッチを押そうと、
宇宙から見れば些細なこととも思えてしまう、
そんな世界の中の存在としての僕。

この『僕』に本気でなれるかどうか。
全力で『僕』をやれるかどうか。
まず、無理だ。

片足だけこの世界において、もう片足は別のどこかにおいている。
保険として。
失敗しても、
“いえ、まさか本気でやっていたわけじゃないですよ”
と言えるように。

全力で挑んで全力で散るのは恐ろしい。
これを精神力の問題と思っていては一向に進歩しない。

この不確かな存在を『自分』と引き受けることができるかどうか。
生まれて死んでいくその中に自分のすべてが尽くされていると
認めることができるかどうか。

マクロな視点で見れば、
バックボーンが得られるかわりに個の薄れたちっぽけな存在となる。
ミクロな視点で見れば、
個が意識されるかわりに意義と方向性を欠いた寂しい存在となる。

でもその二つの視点を上手く兼ね備えれば・・・と言ったところで
それは小手先のことでしかない。

救いにテクニックが必要なのだったら、
そのテクニックを持たない人には救いがないし、
訓練の積みようのない子どもほど不利になる。
また、習得して得たものなら、
何らかの理由であっさり手放してしまう可能性もあるし、
そもそも失ってしまうのではないかという不安と
現状維持の努力で心休まる暇がない。

そういうものを救いと認めるわけにはいかない。

救いとは何なのか。
救いとはそれに飢えている人にのみ必要なものなのか。
また与えたりもらったりできるものなのか。
“個人の自由”で取捨選択できるようなものを
救いと言っていいのか。


途中から話がそれてしまった。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/06/03 15:23
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