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相変わらず青い

2007年12月23日

正直に生きよう。
己の信念のままに。
己の宗教性が導くままに。
己の心の赴くままに。

善とか、良とか、人からどう見られるかとか、そんなの関係なく、
自分が正しいと思うことはしていこう。
人から感謝されるのがどうとか、照れるとか、偽善と思われるかもしれないとか、
できればそんなもの関係なく、正直に生きていこう。
素直に感じるままに。



ふむ。相変わらず甘い。
ただ、切実ではある。
切実であれば誠実であれば何とかなるのだろうという逆ギレのような、
そんなものがこの頃は多い。
きっと今書くものよりもこの頃のものの方がずっといい。
青さが人間味に感じられて。
越えたい壁を越えるまでは今はいいものは書けないだろう。
仕方のない犠牲。
壁を越えれば未熟という意味での青さのない人間味を出せると信ずる。

ちなみに同じ日の日記にはこんなこと↓も書いている。
相当揺れていたのだろう。
「切実でさえあれば・・・」という生き方が揺らいできたのはこの頃からか。
切実さが裏目に出始めた。
誤魔化さないが故に夢を見られなくなった。

この頃はとにかく恥ずかしいくらいに青い。
でも正直ではある。
正直がモットーの僕がその「正直」の中にある種の自己逃避をみる。
自己への愛着をみる。
それを正直であるがゆえに誤魔化せない。
不器用と言えば不器用。
今の僕としてはこれが「よし」となるその道を見つけてあげることが
何よりの供養となる。

逆ギレの形ではあっても神のようなものに問うことはできた。
ここからやがて神がなくなり、ひたすら自己のみの世界に入っていく。



こんなに試練が待ち構えているのだから、
僕は学ぶ必要があるのだろうと、
そしてそれを誰か人に生かしていくのが僕の使命だろうと、
なぜそう思えなくなったのだ。
自分の底が見えたからか。
それとも臆したのか。

何が邪魔をするのだ。
何が僕の信じる気持ちを鈍らせる。
なぜ信じることができない。
いや、信じてはいる。
何かが邪魔をしているんだ。

いったい僕は何に縛られているんだ。
自由になれば、肩の荷を下ろせば、楽になれるのだろうか。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/07/28 21:15

もうこれっきり。人生。

このブログも当初は過去の日記に書き留めたことを載せていた。
でもいつからか面倒になり、また書く理由もあやふやになり、やめていた。

下向きの飛翔
この記事は結構気に入っている。
相変わらず文章が下手で本人にしかわからないだろうけど。

今必死にわかりたいと思っている「死に向かって主体的に生きていく生き方」
「死の運命にこそ見いだされるべき直立不動の自己」について、
かえってこの頃の方が瞬間的にでもよく実感されていたようだ。
今は頭ばかりが空回り。
といってもそんなに昔の記事ではないが。

ふと自分を一歩離れて見たくなった。
どうせ現状は足踏み状態で書くこともあまりないから、また時々昔の日記を載せようと思う。

僕とは何か。性格を越えて。
この人はどこから出てきて、どこへ還っていくのだろうか。
この人の一生とは一体。
この人に見えていた世界。
この人に見えていなかった世界。
他人を見るよりももっと次元の深い客観に。
自分を普遍に還元し、普遍が象徴されたものとしての自分を見る。
まあともかく。



2009年6月1日

ああ、人生とは何だろう。
ああ、生きるとは何だろう。
何の寂しさだ。
自分で生きる寂しさだろうか。
自分一人で。
ああ、誰も僕の人生を一緒に生きてくれない。
一人だ。たった一人なんだ。
この自分を生きられるのは。

ああ、ここまできたんだ。ここまで生きてきた。
ああ、その先はもう終わり。
終わりに向かっていく。

ああ、悲しい。切ない。
人生そのものを全部掬い取ってしまったよう。

これが僕の人生。
もうこれしかないんだ。
これっきり。
たったの。

寂しいなあ。
これで終わり。
もう始まっている。
あと幾ばくもない。
やり直しはきかない。
これが本番。

おお、これぞ人生。
その内終わるのか。いつのことやら。
もうじきだろうか。まだまだだろうか。
どっちにしても、まあそのうち。
次はない。寂しい。
たったの一人で生きていくなんて。
自分一人で背負っていくなんて。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/07/27 20:36

僕はずっと、現に生きている、
この僕にとっての客だったのではないか。
主人ではなく。

だからずっと不安だった。
客が留守番をしているようなもの。
不安だとじっとしていられない。
常にそわそわ、キョロキョロしている。
ちょっとした物音にも主人が帰ってきたのではと反応する。

自分を客とみる、その場所に主人がいる。
客は所詮客にすぎないが、客がなければ主人はない。

自分が自分を客とみるのではない。
客と見るその意識が客の意識。
僕が普通に「この僕」というときの意識がそれ。
この意識は実は主人ではない。
ただ、その客の意識が成り立つところにおいて、主人が現れる。

よくわからなくなってきた。
とりあえずそんな気がする。
まだはっきりとは見えていない。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/07/24 21:03

縁に縁あって

最近「縁」という言葉を耳にする機会が多い。
それこそ縁あって。

だいたいが仏教系のブログ。
“あなたがこちらの道の来られるならそれは縁があったのでしょう”
“来られない方は縁がなかったのでしょう”

どうして仏教者の口からこんなことばが出てくるのか。
悲しむべきこと。悲しむべきこと。

しかも仏教者の中には口では丁寧に感謝の意を表しながらも、
どこか皮肉たっぷりの文章を書く人が多い。
聖職者という縛りなのだろうか。

どうして仏教者ならすべての人を救うと大法螺を吹けないのか。
“縁のない人は救われない”なんて言ってほしくない。
無差別を説く仏教でなぜ差別するのか。

「縁」は現在の自分を顧みるものではないのか。
こうして今ここに自分があるということの、
その支えとしての「縁」ではないか。
それをどうして救われるか否かの弁別に使う。

“彼は縁のない者だから残念ながら救われない”
これは一種の言葉の暴力だ。
仏教界もうちょっと頑張って欲しい。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/07/16 20:50

仏教あれこれ

すこし仏教について。

仏教には○○如来とか○○菩薩などある。
こういうのを見ると胡散臭く思える。
それについて少し説明。

如来などに限らずあらゆる仏教用語は
話者が(一時的にでも)仏教フィールドにいるときにだけ
成り立つ言葉ではないかと思う。

仏教の世界に入って世界や人生、人間の話をするなら、
「如来」「菩薩」それどころか「往生」「成仏」などの言葉は平然と成り立つ。
なぜか。
仏教体系の中で話しているのだから。

それでは客観的でない、仏教という己の立つポジションを「選んで」、
その物差しを世界に当てはめているではないか、それはフェアでない、恣意的だ、
と言いたくなるが、よく考えてみるとわかる。
フラットで客観的な立ち位置などない。

例えば、「僕が」中国人とアメリカ人について批評したとしてもそれはフェアではない。
それは僕が「日本人」だからだ。
既に特定の立脚地から出している見解だからフェアではない。

だから「仏教フィールド」で語るのがおかしいとは必ずしも言えない。
特定の視点を持たないでものを語ることはできないから。
よく言われるように、そういう意味では近代科学の「客観性」は幻。
必ず見る視点がある。見る主体を抜きに云々している。

仏教は人間が陥るその辺りの認識の不確かさを突く。
人間がものを語るなら必ず「自分」という視点を持つ。
それを我(ガ)という(多分)。
我は誤り。だから我抜きでの認識について示そうとする。

仮に僕が「世界」と表現しているそれを、
僕でも誰でもなく、視点を一切持たないで表現するとどうなるか。
何とも言いようがない。言語化不可能。

「世界」という言葉は僕の視点だから言えることであって、
その「僕」ですら恣意的な概念に過ぎない。つまりフラットな視点ではない。
厳密に見れば僕も世界の一部だから、僕を「僕」の視点で語らないとすれば、
それは「全体」としか言いようがない。
でもそれはただそう言うだけであって何の説明にもなっていない。

仏教ではこの「全体」単位でものを見ていく。
(ちなみに全体を見る客観的で抽象的な視点が別にあるのではなく、
 全体そのものの中に具体的な視点がある。)
そうすると、「娑婆」「穢土」「浄土」などの言葉を使う方が
実用性や具体性があり、それを使う方が自然になる(のだと思う)。
用をなさない言葉に存在意義はない。
ちなみに法という意味での世界なら、「真如」「法界」などとも表現する。

これらの言葉は単なるラベルではなくて、
ラベルの中に対象物を含んでいる。
具体的な働きを持っている。
真理について語ろうとするなら、
どうしてもラベルとそれを貼られる対象物とは一致してくるのだと思う。
これも「視点」と「言葉」の性質上。

だから、仏教フィールドで世界を語ることは恣意的なこととは限らない。
「如来」と言っても「はあ、そういう人がいるのか」と思う必要はなく、
人間の心の中に「如来」と表現されることで活きてくる
何らかの心理学的な体系があるということ。

その真偽及び仏教自体の真偽は当人次第。
先達を見て判断するしかない。
仏教が真だとわかっているなら入門する必要はないから。
正しいと思えないなら別にキリスト教フィールドなどに行ってもいい。
おそらくキリスト教もその辺りのことは踏まえているはずだから。

ただいえるのは、真理に触れるなら必ず何らかのフィールドを必要とするということ。
フラット幻想を持っていては一向にたどり着けない。
見ている「自分」が何者かも分からずに
その自分に「見えているもの」を信用するのはある種の暴挙だ。
完全オリジナルなフィールドを創るのもいいが、
そんなことができる大天才は何千年に一人だろうから・・・。

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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/07/06 21:56
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