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感謝の自己満足

僕は『感謝しよう』という発言に対してはいつも距離を置いている。

例えば「手足のあることに感謝しよう」という場合にて、
僕が言われた通り感謝しようとするなら、
それは手足のない人と比べて自分が恵まれているから感謝しようと
しているように思えてくる。
自分の中のそんな気持ちが許せない。

「ありがたい」が人より恵まれているから「ありがたい」のだったら、
それは自己中心的な心ではないか。
この自分をよしよししたい心。

「手足がある。だからありがたい」というよりも、
「ありがたいことに手足がある。これで手足を使える」という気持ちの方が
有ることが難いとの本義に適うし、これなら共感できる。

「○○だからありがたい」と言う場合、
大体が自分を慰めてくれるものに対してむけた感謝だ。
しかも現代人は欲張りなことに、
マイナスを与えれてもそれを「糧」といって喜ぶほどだ。
どんなものを使ってでも自分を慰めようとする。
僕は『感謝しよう』の言葉にもそれを感じてしまうから一歩引いてしまう。

この種の感謝には反対語がある。「不満」「愚痴」。
自分を喜ばせてくれるものを歓迎する心は、
自分を害するものや喜びを妨げるものに対しては翻った姿を見せる。
愛憎も同じ。

現時点を肯定するための「ありがたい」はそういう傾向を持つ。
それに対して、「ありがたくも○○がある」という心には、続きがある。
「これを使って○○できる」というものだ。
これがあってこその感謝だろう。
これは奉仕の心。
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我(ガ) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/24 20:13

僕はこうしている

こんなことを書いていた。
今の僕には書けない。



2007年2月25日

最近ふと急に小学校、中学校が一緒だった人が
今はどうしているんだろうと思うことがある。
そんなことを考えていると、妙な感情に襲われる。

何と表現していいかわからないけど、昔が懐かしい気持ちもあるし、
自分がここまできたのだという気持ちもある。
もう自分は明らかに昔の自分ではなく、その頃の自分に戻ることもできない。
少し寂しい気もするけど、だからこそ今の自分でいられるという気もする。

それが「昔の事」になったからこそ、こんな感覚に浸っていられるのかもしれない。
いつも昔に捕らわれていてはいけないけれど、
たまにはこういう風に昔に浸ってみるのもいいかもしれない。

そうすることで「今」の自分がリアルに思えてもくる。
引き返せないからこそ、前向きに生きていける。
書き換えられないからこそ、今の自分の証になってくれる。
例えそれが善くも悪くも、今の自分を支えてくれるのは、
そうした昔の記憶であり、人生であり、出会った人でもある。

みんなどうしているんだろう。
僕はこうしている。
こういう風に生きている。
みんなはどういう人生を生きているんだろう。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/23 22:01

なかなか・・・

僕の一番の悩み。
人生を時間つぶしにしているのではないかということ。

人生は時間つぶしではない。
きっと真理はそうではない。
だからそれをつかむのだ。
そうして頑張っている。

でもよく考えると、
とりあえず「人生は時間つぶし」と認めているんだ。
それに納得がいかないから頑張っている。
そうでない理由を求めて。

「時間つぶしではないのに、時間つぶしになってしまう」
という悩みではない。
「時間つぶしだ。それはいやだ」という現実の否定。

「時間つぶし」というのはやや主観的だが、これは事実だ。
僕が恐れているのは、ひたすら「死」だ。
その必ずくる死を捻じ曲げようとしている。
その作業に根気を注ぎ込んでいる。
何が哀れかというに、それをやめられないのが哀れ。

死ねばすべてが無になる。
ということは、今もまだ死んでないだけで無。
常に無を生きている。
死ぬ間際は「死にたくない」と文句を言う。
僕の場合その文句が長いのだろう。
いや、皆同じか。

進みたい。
進んでいないと意味づけられない。
この一歩はあの「大切なとき」のための一歩なのだ。
そう思わずにはいられない。
でもその大切なものを肯定するすべを知らないから
結局いつも不安なまま。
いくら自分で「これはいい」と思っても、
それでも不安にならずにはいられないのが人間。
根本的に何かを間違えている。
どこかに勘違いがある。
決して肯定できないのに肯定を求めている。
報われないことをしている。

う~ん、なかなかどうにもならない。


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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/19 15:07

「未セーフ」というセーフ

他の人を批判する。
至らない人だなと思う。
僕の場合は、本など見ていて
「この人はわかっていないな」などとよく思う。

批判して切り捨てる。
特に第三者なら。

批判している間の「僕」は「問題ない僕」。
僕は常に「セーフ」であろうとする。
「セーフ」が基本。
だからセーフでないと感じてしまったときは、
努力する。今から解決する。と意気込む。
つまり「未セーフ」という形でセーフにしがみつく。
「セーフへの途上」と思うことで自分を許す。セーフを出す。

誰かが何か失敗するのを見る。
その瞬間「あの人は駄目だな」と決め付ける。切り捨てる。アウト。
でもこれが自分の場合、「これからなんとかする」と言い訳をし、
セーフとする。

他人の場合はそんなことは考慮しない。
その瞬間でアウトを出す。

他人も途上の人なのだ。
いや、人間皆。
でも、本当は途上の人なんていない。
それは自分で作った言い訳にすぎないから。
アウトはアウト。
この記事で言いたいのは“相手にも寛容に”だけではない。

僕はどうしても自分を「アウト」にできない。
他人なら簡単にできるのに。
この身びいきの根深さにはゾッとする。

僕が他の人を簡単にアウトにできるということは、
僕も簡単にアウトになるということ。
僕は至らない人間なんだ。
でも、その事実をそのまま受け入れられない。
「…でもこれから努力します」などとすぐ言い訳をする。
そうまでして存続させたい自我。

他の人も「途上の人」。
そう思うと少し見方が変わる。
その人の人生の中での「途上」なのではなくて、
人間皆何かの途上を生きている。何かの。

僕は以前、「自分の中に他の人を見る」と言ったが、
あれは間違い。
「他の人の中に自分を見る」。
僕らは個人の夢を越えて皆「途上の人」。
そこにおいて他者と通じ合える。
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他者 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/17 21:48

いつも酔ったような目をして

2008年8月27日

真理なんてどこにもない。
そうか。
どこに真理があるのかと探していたけど、
結局求めていたものはどこにもない。
あるとすれば己の内にはじめからあった。

真理を求めるその姿勢の中に最初から真理はあった。
よくこういうことは聞くけど、本当にその通りだと思った。
僕の仏教に対する理解はまだまだ甘かったようだ。
わかっていたようで何もわかっていなかった。
一度、少しでもこのことに触れてみると、
なぜこんな簡単なことに気付かなかったのだろうと思ってしまう。



などと自惚れてみて、その4日後にはこんなことを。



2008年8月31日

真理は外にはなくて、己の内に最初からあったのだとわかったのに、
すぐに“己の内”という名の外に答えを求めてしまう。
人間の孤独と世の無常から離れて真理はないだろう。
どうも悟りという到達地点を作ってしまう。
もう少しでそこに辿り着けそうな気がして、急いでしまう。
その一端に少し触れた気がしたから、ともう一度それを探し求めてしまう。

肝心なのは己に従うこと。
己の身体に聞いてみる。
少し疲れているようだ。
わかっている。
僕は何かしていないと不安でしょうがないんだ。
その不安を消そうとしている。
でも、この不安をなかったことにしては、本当の平安など得られない。


2008年9月7日

一息一息を真剣に生きよう。
一息も一日も同じようなものだ。
継続や目標とかに目を奪われると、
その枠の中での一つはちっぽけなものに思える。

でも、例え坐禅を何年もやり続けた人でも、
そのやり始めの一日は僕らの今のやり始めの一日と何も変わらない。
毎日のその日の分だけ坐り続けた。
それを時間軸で見ていくと何年ということになった。
でも一瞬一瞬が全てだ。

呼吸にしてもそう。
○回きちんとした呼吸をしようと考えても、
その○回にとらわれてはならない。
一息一息に全人格を懸ける。



・・・。
自分の中にずっと一貫してあるものを感じる。
“真理を求めずにはいられない”
“でもその心にこそ誤りがある”
“ならどうしようもないじゃないか”
これだけ並べて見えてくるのは、
結局、誰かに褒められたいというような気持ち。
神を信じていなくとも、
「自分はこれだけやりましたよ」
「誰にも文句は言わせませんよ」という気持ち。
そんな気持ちでも持って墓場に入ろうとしているのだろう。

僕は苦しい苦しいと言いながら楽しんでいる。自我を。
自分に酔っている。
でもそれは浮かれて呑む酒ではなく、やけ酒。
つまみの変わりに自分の身体を傷つけている。
皆そう。
そしていつか半笑いの酔った目を閉じてそのまま死んでいく。
酔生夢死。

自己満足という言葉があるが、本当に自己を満足できるのならそれでいい。
困ったことには本当には自己を満足させられるものがない。
皆どこかで誰かに足をひっぱられている。
自分に自分の一番無防備で繊細なところを握られている。
そのひっぱる手を無理に振り切ろうとするから後ろめたくなる。
心が晴れない。
その後ろめたさが酒をやけ酒にしてしまう。
僕なんかは人一倍その手をちょん切ってしまおうとするタイプ。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/11 22:38
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