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気持ち

死にたいという気持ち。
それは他の人にも自分自身にもみせないできた。
でも自分に嘘をついてどうする。
もういいじゃないか。
僕は死にたい。
それが本音だろう。
それを心の底に留めておかないで外に出したかったんだろう。ずっと。
もういいじゃないか。
出したらいい。
死んだらいい。
自分に嘘をつくことはない。
もういい。
僕は僕でいい。
ちゃんと胸を開いて呼吸しよう。
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ふっきれ | コメント(0) | トラックバック(2) | 2012/10/31 20:11

自分にご執心

自分に罰を与えるように自らを追い込んでいく。
暗い考えをずっと持っていく。
陽の光を浴びてはいけないというかのように。

でもそれはエゴではなかっただろうか。
不甲斐ない自分にこうして罰を与えていますと
誰に対してでもなく言うことで許しを得たかったのではないか。

不甲斐ない自分を不甲斐ないままで終わらせてはいませんよと
言い訳をすることで自分を罪から逃れさせようとしていたんじゃないか。
罰を与えることで罪から逃げていた。
「罪」と言うことで罪から逃げていた。
本当は罪なんてものはないだろうに。

誰でもない誰かへの言い訳。
誰かに許してもらえるような「自分」でありたかっただけ。
でも本当は自分で自分を許すため。
どこまで行っても、自分。自分。自分。

自分に罰を与えることは誰かへの義理を通すためと思っている。
でもそれは本当は自分を生き永らえさせたかっただけじゃないのか。
不甲斐ない自分を受け入れられないから。
そしてまた、受け入れられるようになるには、と考えている。
どこまで行っても、自分。
こんなことをずっとやっている。
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自己完結のむなしさ | コメント(0) | トラックバック(2) | 2012/10/24 22:19

爆弾投下

僕が今までで一番つらかったと思うのは、2010年。
その頃に考えていたことはとてもブログには載せられないから
これまでは書いてこなかった。
でもふいに爆弾を投下したくなった。

この頃に書いたものは見るだけで気分が重くなる。
こんなものを人様に見せていいのか、とも思う。
でもなぜか投下したくなった。



2010年4月5日

死のうと思ったときに、
この世界にはそれを後押ししてくれるものが山ほどあることに気づく。
普段は流せているものも、死にたいときにはそれがいやに目に付く。
この世界は嫌なもので溢れている、と思う。
そしてより一層死にたくなる。
一刻も早くこの世界からおさらばしたくなる。
なぜまだ生きているんだろう。
未練はない。ただ、死ぬ日と死ぬ方法について全然考えられない。
そのくせ、いつも今日で終わりなんだなと思いながら外に出る。
帰るところがないからふらふらとさまよう。
でも結局帰る。
それが腑抜けだからといって奮起するわけでもない。
そういうのがもう嫌になったのだから。
ふらふら。
毎日今日で終わるんだなと思いながら。

なんでこんなことになったかなあと毎晩ふとんの中で思う。
僕の人生これで終わりか、と思う。
こんな終わり方か、と。
別に終わり方に不満があるわけでも希望があるわけでもない。
もうそういうのに疲れたのだから。
でも、なぜか少し涙が出そうになる瞬間がある。
未練じゃないと思う。
なにかとても悲しくて寂しくなる。

4月9日

僕はいつ死んでもいいんだ。
ただそれでも生きていたほうがいいというのであれば、
生きていてやるさ、身体は。
罪を犯し続けるくらいなら死んでしまえというなら、喜んで死んでやる。
こっちもそれを望んでいるんだから。
ただ、こんな魂の抜けた廃人でも死なずに生きていなければ駄目だと言うなら、
まあしばらくは生きていてやってもいい。
いつ死ぬかわからないけど。
何様のつもりだと言うなら、別にいつ死んでもいいのだから。
生きたくない。でも身体だけ、形だけは生きといてやる。残しといてやる。
それが駄目ならさっさとそう教えて欲しい。
いつでも死ぬから。


よく思うけど、僕が今まで生きてきたのは奇跡だ。
死んではいけないとかそんな信念なんかとっくに崩れ去った。
それでも僕がまだ生きているのは偶々だ。
耐えられるから耐えてきたのではない。
とっくに耐えられる限界なんか超えている。
本人には負けっぱなしの感覚しかない。

“死にたい”と“死のう”との間には天と地ほどの違いがある。
“死にたい”は感情だ。“死のう”は意志だ。決断だ。
上記の日記には死ぬ方法が見つからないと書いていたが、
これから後には、いつ・どこで・どうやって死ぬか、遺書は書くか、
書くとすれば何と書くか、とそんなことばかり毎日考えていた。

別に思いとどまったわけではない。
思い直したわけではない。
“あとは実行あるのみ”という段階を経ながら、
それでも今まだ生きているのだから、
これはもう偶々としか言いようがない。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/10/14 16:49

あ、僕も死ぬ。

最近メモしたことなど。

・「私は生きている。」
これはもうこれ以上遡れないものだな。
これを基点に据えよう。

・そうか。死ぬために生きているのか。
なのに、死にたくないともがいている。
そうやって過ぎる一生。
僕の一生とはそんなものだ。
一生で何をしていたかと言うと、死にたくないともがいていた。
死ぬのに。

・僕の一生には嫌だ嫌だしかないんじゃないか。
四六時中そんなことを考えて暮らしている。
助かると思って求めているんだ、いつも。
嫌だ嫌だの受身なのに自分で生きてると思い込んでる。

・僕が何をやろうと、考えようと、そんなものは死ねばなくなるものなんだな。
僕の目的、意図は儚いもの。
結局死にたくないが人間の一番の本音。

・「僕は誰」と言うときの「僕」は前提にされている。
でも僕は本当に誰だ。

・僕はいつも誰と話しているんだろう。
心の声というのは自分の声であるが、それは誰に対して発されたものなのか。
誰が言い、誰が聞いている。

・こいつのやることなんて大まかに言えば、
「できる」「できない」の二つじゃないか。

・すべてのものは自分のものか他のものかのどちらかでしかない。
自分「の」もの、客体。他「の」もの、客体。同じ。
自分のものもよくよく考えれば自分のものじゃない気もするし、
他のものも自分のものと思えなくもない。
というか、すべては客観物。
それを見ている主体がある。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/10/11 20:12

“おかげさま”

「一切は“おかげさま”である」
僕にはなかなかこれがわからない。
これがわかれば価値観ががらっと変わるだろうにと思う。

確かに僕は空気がなくては生きていけない。
水がなくては生きていけない。
太陽がなくては。地面がなくては。

確かにそうだ。
でも、それらの恩恵を受けて生きているこの僕が、
たまたまというか、悪く言えば隙間をぬうようにして
存在しているように思えて、
そのことをありがたいとはどうしても思えない。

そもそも生きること自体を積極的に受け取ることができないから、
“一切によって生かされている”としても、
どうしてもありがたいとは思えない。

すべてが僕を生かすために存在している。
僕もすべてを生かすために存在している。
そう思えたらどんなにいいだろう。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/10/07 20:18
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