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持てる者の驕り

僕が恐れていたのは失う恐怖。
奪われる恐怖。

すべては自分の預かり知らないものであると思ってみると
少し胸が開けた気がした。

何も為さなかった責任?
それは自分が何かを持てるものだと思うから感じるのだ。
それは持てる者の驕りだろう。
いや、持っていると思い込んでいるだけで本当は持っていないのだ。

これだけは奪わないでくれと必死にしがみつく。
果たしてそれは本当に自分の物だったのか。

有意義に生きられないと嘆く。
しかし有意義に生きられると思うのは実は驕りなのではないか。
自分の物であるなればこそ
それを無駄にするのか良いものにするのかという発想も生まれる。
しかし自分の物なのか。

与えられた人生だからそれを最大限に良いものにしようという。
しかしそれは一面では正しくともそれがすべてではないだろう。
与えられたと思うから奪われる不安に怯えなければならない。
与えられたからといって自分の物ではないのだ。

今まで、真に人間としての人生を全うしようと思ってきたが、
それは驕りだったのではないか。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/29 20:37

生は夢を見、死は気まぐれに通りすがる

僕はこの世界というものが怖くて怖くてたまらない。
気が狂いそうなほどに。
かなり危ういバランスの上に成り立っているような気がするから。
ちょっとしたことでそのバランスが崩れ、瓦解してしまいそう。

湖に張った氷の上に絵を描く。
それをどんなに煌びやかに厳かに描き、立派なものにしたとしても、
所詮は薄氷の上に描いた絵。
少しの衝撃で氷は砕け、
あの暗くて冷たい不気味な水が下から姿を現す。
その恐怖。

あるいは
よく膨らんだ風船がたった一つの小さな針を突き立てられるだけで
瞬く間に破裂してしまう。
そのギリギリの緊張感。危うさ。

今ある世界というのは夢なのではないかと思う。
その背後には不気味で無慈悲な暗闇が控えている。

僕はいつもその不安と恐怖に脅かされ、ビクビクして生きている。
ちょっとした出来事からでさえも世界の崩壊がリアリティを持ち、
そんなときはいつも死にたくなる。
何の理由もなく自殺したと思われている人達の中には
この恐怖と不安のためにそうされた人もかなりあるのではないかと思う。
(自分の)世界の崩壊を目の当たりにするくらいなら
いっそ目もろとも無くなりたい。

死を怖いと言う人達の抱える恐怖もこれではないか。
彼らは単純に有るものが無くなることが怖いわけではないだろう。
死が、生の見る夢を打ち砕くから怖いのだ。

生の特徴は“希望”と言える。
あるいは“神話”“夢”。

世界を信頼できなければ人は生きてはいけない。
たとえそこに何の根拠もなかろうとも。
本能によってであれ、
生きようとするところに既に夢は始まっている。

どこまでも無限に広がっていくものと思っていたものが、
実は死という一点に向かって閉じていっていたのだと知るとき
人はあの不気味な感覚に戦慄する。

生はいつでも夢を見、死は気まぐれにそれを破壊する。

人がどれだけ生の上に安心を得たと言っても
それは氷の上に描いた絵にすぎないのであって、
本当の不安は薄い氷を隔てたすぐ隣に潜んでいる。
それはいつ姿を現すかわからない。
崩れ出したら一瞬で崩れ去る。
崩れ去って残るものは破片ではない。
破片でさえも不気味な混沌が呑み込んでしまう。

その混沌がいつも僕の耳元でささやく。
自分はここにいるよと。
それでいつも僕はちょっとした物音にもビクビクし
神経をすり減らしている。
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人間観 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/05/21 21:16

挫折の中で

2010年は暗黒の一年だと思っていたが初めの数ヶ月はそうでもなかったらしい。
今と同じような挫折の状況にありながら
今では言えないようなことも言っている。

1月19日
『自分が考える中での最大の自分の良さは、純粋さだろう。
神を信じ、人を信じ、世界を信じる。
その自分の中で一番いいところだと考えるところが、今はまったくない。
発動できなくなっている。
きれいなことが売りなのに、それが曇って淀んでいる。と思っている。
自信がないのもわかる。
自分で自分を否定しているんだから。
純粋に世界を信じると、気持ちよく暮らせる。
でも今は信じられないから不安でしょうがない。
信じられなくなった。
不確かだと思ったから。
(中略)
何でも信じる人はすごい。
その懐の大きさ。清らかさ。
最近の僕が求めていたのはこれとは正反対だった。
来るものを必ず否定する。
狭量。灰汁で煮詰まったような自分。
本当の「信じる」というのは、何でも受け入れることをいうのか。
信じられるものを選び取ってそれを信じようとするのではない。
何でもかんでも無条件に受け入れる。
そして何にもこだわらずにさっと流していく。
(中略)
すべてを受け入れたら、それをそのまま後ろに流していかないと。
選り好みせず自分の中にどんなものでも入れ、
それを全部流してまた空っぽになる。
どんなものがきてもそれに取り合わずに平気で受け流す。
そんな風になれたら。
信じることなんて簡単なんだ。
それを流すのが難しい。』

・・・なるほど。
確かに僕は不確かなものを捨て真に信じられる唯一絶対のものを求めた。
だが本当に目指すべき姿とは何でも信じられる人なのかもしれない。
まあ綺麗事はいくらでもいえるが。

1月27日
『散歩をしていて何もかもが愛しいと思った。
物でも人でも。この世界が。この空気が。
結局、それでいいのじゃないか、そう思った。
これ以外にしあわせはない。
これ以外に生きがいはない。
愛する人がいるから生きるんじゃない。
この世界は誰でも何でも愛すべきものだ。
だから、「生きていてうれしい。しあわせだ。」
それ以外にない。
僕は自己にひきこもる中で、誰かを愛するということをすっかり忘れていた。
自分のことしか頭になかった。』

1月28日
『僕は、この世の中はいつ誰に何が起こってもおかしくないと思った。
誰も主人公じゃない。
特別でもない。
特別な時代というものもない。
だから不安だった。
でも少しわかった。
何が起こってもおかしくないけど、
それと同じ理由で今の自分は確かに存在している。
死んでも同様。
何が起こってもおかしくないけど、何かがいつも起こっている。
そしてその中のどれが重要でとか価値があるかとかじゃなくて、
すべて同様に大切なんだ。
なるべくしてなっている。
そこに意味はなく。』

2月4日
『…それなら下手に気を安らげる術を学ぼうとするんじゃなくて、
いつでも死ぬか生きるかのぎりぎりでいいじゃないか。
いつも同じ繰り返し。いつものパターン。
だからといって、
それを避ける術を得て心も大して動かない生活を送るよりは、
いつも死ぬか生きるかで全力でぶつかっていけ。』

・・・「いつも死ぬか生きるかで全力でぶつかっていけ」とのこと。
苦しいからといってそれから逃れようとするのではなく、(してもいいが)
全力で苦しめとのこと。
例えそれが「死にたい」との叫びであったとしても、
それを全力で叫ぶ中に人生があるのではないか、ということか。
綺麗事には違いないがこの時期の自分を支えていたのもまた事実。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/19 15:50

導き、誤らせるもの

最近よく考える。
宗教心とは何なのだろう。

浄土真宗の清沢満之は
宗教心とは「人心の至奥より出ずる至盛の要求」だと言った。
確かに人を駆り立てるものなのだろう。

学生の頃ハマっていた精神科医のフランクルは
「人間は意味への意志に支配されている」というようなことを言った。
人間は絶えず意味を欲していると。

そういえばニーチェという人は
「苦しみが問題なのではない。
何のために苦しむのかという問いに解答が無いのが問題なのだ」
と言ったらしい。

皆駆り立てられている。
自分がここにこうしているということの意味を知りたい。

以前にも引用したが
哲学者・西田幾多郎の次の言葉はいつ見ても胸に迫るものがある。

「心を苦しめ身を役して五十年の飲食をつづけ、
 その結果は焼いて棄つべき臭肉を何十年か維持しまた子孫を遺したまでであって、
 しかしてその子孫がまた同じ無意義の生活を繰り返すものとすれば、
 何とこれより馬鹿らしきことはあろうか。
 かくのごとき生命はむしろ早く打ち殺して茫々の中に投じさる方が
 いかに爽快であるかもしれぬ。
 人間は牛馬のことを笑うがわれらも無意義の性欲のために駆使せられて終生役々たるのは、
 鼻緒に縄をつけられて引きまわされる牛馬とあまり違わぬようである。」

「何と馬鹿な」
「何と無意味な」
「今のままの一生には何の価値も意味もない」
「このままでは終われない」
これが僕の宗教心。
しかし僕はその宗教心にフラれてしまった。

僕を突き動かしたのは宗教心。
けれども僕を誤らせたのもまた宗教心。

善人から罪人に変えられたというのではなく、
あくまでも潜在犯から顕在犯にされたという意味だが。

宗教界では、もしかしたら哲学界でも、
「自分とは何か」「自分が生きるとはどういうことか」
ということに疑問を持つことは良いことだと言うだろう。
だが、僕を誤らせたのはまさしくその「良いこと」だ。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/18 15:41

血の信頼

3年前のちょうど今頃の日記を見てみた。
書いていることは今と大して変わらず
死にたい死にたいもう疲れたもうやめようもううんざり
どうせ今後楽しみが一つもないなら
もう今死んでしまった方がマシじゃないかとか
そんなことばっかり。

僕の中には
「人間関係は真に信頼し得るものではない」という観念が根強くある。
それは人間が自分が一番かわいいという思いを離れることができないからだ。
例えあるときはどれだけお互いに信頼し合えていても、
何かが起これば必ず自分を優先する。
自分が最も苦しいときにまず他人を助けたいと思えるわけがない。
相手にそれを求めるべきではない。
他ならない僕自身がそうなのだから。
だから他人に依存して生きるのはよくない。
頼るに耐えうる土台ではないからだ。

ただ、これは色々考えていく中でそういう結論に達したものと思っていたが
実は人間関係にトラウマがあったのかもしれない。
日記を見ていてそんな気がした。

家族関係。血の繋がりを持つ誰よりも身近な存在。
その存在でさえ信頼し得るものではないのだから。
僕の両親は目立った善人でもなければ悪人でもない。
ごくごく平凡な人間だ。
そんな人間でもいざとなると自分自身を優先する。
これは当たり前のことなのだ。
家族といえども別々の人格を持った存在なのだから。
僕だって例え子どもがいたとしても自分を優先するのは
目に見えている。
平常時なら子どもを優先するだろう。喜んで。
だがいざとなるとそうはならないのは
子どもを持っていないこの時点でもう既にわかりきっている。

誰もが自分の人生の主人公である。
他人にそれ以上を求めるのは甘えというものだ。
そうやって理性で割り切ろうとしていたのかもしれない。
感情の痛みを理性で上書きしていたのかもしれない。

その結果僕が求めたのは『天地の法』『唯一絶対のもの』『真理』だった。
確かなものでないととても怖くて全面的に依存できないと思った。
ただ、僕が思い描くそれらはあまりにも無機質で
およそ温もりというものを持っていなかった。

結局は、情を出してもう痛い目をみたくないし、こりごりだし
理にのみ走ったのだろう。
誰かに裏切られたわけではないが、
人間の性を目の当たりにし、自分の中にもそれが潜んでいることを認め
それで人間というものに嫌気がさしたのだろう。
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他者 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/09 21:25
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