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まとまりのないことを

自分の中の醜い面に直面したとき。
自己イメージはどうなるか。

意外にも「自分は醜い」という自己イメージを持つことは少ないと思う。
「こんな自分では駄目だ」と思うことで「清い自分」というイメージを死守する。
なぜか否定し切り捨てると、それを克服した気分になる。

見たくない部分は切り捨てていくのだから、当然自己イメージは清いまま。
「清い」は「肯定」に属する。
自己イメージは肯定のみによって成り立っている。
そういう構造を持っている。

他人の過ちを見てはそれを批判し「自分」と分断する。
自己への教訓にして生かそうと思うにしても、やはり分断であることには変わりない。
自己の過ちに出合っても、やはり「これでは駄目だ」と切り捨てる。
そうして残る自己イメージは清いまま。

「清さ」はどうやって現れるか。
それはいつも「醜さ」の否定によって現れる。
肯定は否定によって現れる。
自己は自己以外の者の否定によって現れる。

だから、アイデンティティの危機に瀕している者ほど他者を(自己も)切り捨てる。
自己を確認するためには他者を切らねばならない。
これは僕自身を振り返ってのことだが。

もちろん自己の醜さに直面したとき、「自分は醜い人間だ」という自己像を築くこともある。
だが、これもある種の肯定でそこには何かしらの安定がある。
「自分は醜い」と思うところに、現実的な認識を超えた、感情的なしがみつきがある。

自己はいつも肯定と安定とによって成り立っている。
しかもその安定は「いつも何かが欠けている感覚」を伴った奇妙な形の安定を保っている。
「いつも崩れそう」なのが逆に安定しているのだ。
しかし当然それは完全な安定とは言えない。

いつも何かに追われ忙しくしていると、早くこんな状況からは脱したいと思えてくる。
しかしいつも何かに追われるというのはそれはそれで何かが安定しているのだ。
忙しいと思っているときの方が生きやすいというのは、
多分多くの人に納得してもらえることだと思う。
しかし、目先のことにばかりとらわれ続けてこのまま一生終わるのか、と
ふと思ったときにはその安定が脅かされる。
完全な安定ではないというのはそのことだ。

一見得られた安定は根本的なところにほころびを持っている。
そして一見得られた自己も同様にほころびを持っている。
他者を切らねば自己は得られないが、
そこで得られた自己もやはり見せかけでしかないのだから、
やがてまた何かに追われることになる、という不運。
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人間観 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2013/09/13 18:32
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