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今日飢えて、明日飢えて

「人間とはどういう存在か」と問うと
「人間とは課された存在である」という答えもあると思う。

例えば、何か自分だけの、または人類共通の使命を果たすために生まれてきたのだ
という神秘的・宗教的(と思われている)なものや、
いや、人間の本態を捉えるとどうもこれは「課されている」としか言いようがない
という哲学的なものもあると思う。

僕も基本的には人間は常に何かに駆り立てられている存在だと思っているが、
最近思うようになったのは
「何にも駆り立てられていない」と思えるのが一番ではないかということ。

駆り立てられるというのは言い換えると飢えているということ。
食事に飢え、愛情に飢え、人間関係に飢え、金に飢え、地位に飢え、名誉に飢え、
いろいろなものに飢えるが、意外なものでは、
安心に飢え、安定に飢え、理想に飢え、きれいなものに飢え、自分に飢えている。

極端だが、「こうありたい」と思うのも飢えだし、
「こういう失敗は二度としない」と思うのも飢えだ。
「きちっとした自分」に飢えている。

ここで言いたいのは、飢えているのは卑しいことだということではなく、
人間とはいつも飢えっぱなしの存在なのだなぁということ。

空腹からくる飢えは、その日の食事にありつけば満たすことができる。
しかし次の日になればまた腹が減る。
よく考えてみれば、
人間は生まれてから死ぬまで毎日腹を空かせている。つまり飢えている。
飢えが満たされるのは「その日」だけであり、
「存在そのもの」としては満たされない。

皮肉なもので、人間が求めているのは「満たされること」なのに、
実態は、永遠に「その途上の存在」なのだ。
飢えを満たしたいという思いが人間を突き動かす原動力なのに、
その切実な願いが叶うことはない。(だからこそ歩いていけるのだが)

本題に戻るが、
人間は常に何かに駆り立てられている存在だが、
その眼中にあるのは自身の「満たされた姿」だけだ。
飢え、つまり何かが不足・欠落している状態は「あってはならないことだ」
という切迫感がある。
この場合は食事よりも「自分の欠点」などに置き換えた方がわかりやすい。
「こんなことができない自分はあってはならない」という切迫感がある。

食事については微妙だが、このアイデンティティの問題に関しては、
「こんな自分では許されない」という思いがある。
誰に許してもらえないのかは、神なのか社会なのか世間なのか自分自身なのか
はっきりしないが、ともかく信仰者も無神論者も等しくそういう思いを持つ。
人間がなぜ自己の欠点を嫌うかというとそれは許されたいという願いからだ。
自分が今ここにあるということが、
「もっともである」「正当である」「意義がある」「必然がある」と思いたいのだ。
その「許された姿」を夢見ていつも飢えている。

だが、飢えというのはつまり自己否定なのではないか。
絶えざる自己否定が人を向上させ進歩させるのは確かだが、
その進歩の道に“軸”がないのはあまりに寂しい。
それに、「人間とは永遠に許されたいと願い続ける(が叶わない)存在なのだ」
と言うのも自分のことながら何かかわいそうに思える。

くどいようだが、
人間の飢えは一応満たされはするがすぐまた飢える。
すると人間の本態は「飢え続ける者」となる。
これをアイデンティティ面でみると
「許されたいと願い続ける者」ということになる。
なぜ僕がこれをかわいそうに感じるかというと、
願いはあくまでも「許されること」だからだ。
でも本態は「許されることはない」。
ここに人間の意志と本態とのズレがある。

許されることを目指して出発した人が
やがて許される可能性があるならそれでいい。
「許されない→許される」という道筋をたどっていい。
しかしこれが許されないとなると、上のものとは別次元で考える必要がある。
『「許されない→許される」を目指して生きている自分』を
上かあるいは下から見る視点が必要になる。
細かいことだが、
その視点を持ち、立場を上(か下)へ移動させるのではなく、
その立場のままその視点の存在を「知る」必要があるということだ。

許し(保証)を求める人に許しを与えてあげるのが救済なのではなく、
「許されない」との自己否定を止めさせてあげるのが救済ではないか。
正確には、止めさせることが不可能でも(止めれば動きがなくなる)、
「許されない」という思いが自己が作り出した幻想であると知らせることが
真の救済ではないか。

救済とか許しを与えるとか知らせるとか言っているが、
これは特定の個人が、というよりも、
どちらかと言えば、神がというニュアンスでのこと。
なので「知らせる」といっても、誰かが知らせたり、
それを聞いて「なるほど、自分の思い込み(*)だったか」と
自分に言い聞かせようとすることを指して言っているのではなくて、
「それは幻想である」と言い切る(神や真理としての)視点が
いわばバックアップとして控えているのだと感じられるかどうか、
ということを指して言っている。


(*)願いは必ず叶い得るという前提で作られる。
それが叶わないということは
願い自体が(これは叶う可能性があるとの)思い込みから作られた
間違ったものであるということ。

後半だいぶはしょった気もするが大体考えているのはこんな感じになる。
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人間観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/10/24 20:17
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