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生も死も人任せ

・罪を犯したればこそ明るくすべきでは。
罪空間では自己も他もとかく陰気になりやすい。
だからこそ明るく努めるべきでは。
という理屈もある。

・生と死は平等であるはずなのに、
世の中には生だけを尊重する向きがあること。
生きるのは良いことだ、生きねばならないのだ、など。
気持ちの上から言えば納得できるが
平等なものの内一方だけをとるのは果たしてどうかと。
死を除外し生だけを奨めるのはフェアではないと。
だが生だけを選択しているわけではなかったのだな。
生のときは生きようとし死のときは死ぬと。
世間でいう生きねばならないというのがやっとわかった。
これは死の否定ではなかったのだ。
同時に死なねばならないとも言っていたのだ。

・今まで本当に何もしていなかったんだな。
来たものにつられて。
自分で生きてるなんてよく思っていたな。
・浮かんできた考えを大事だと思うからとらわれていく。
浮かんできた考えよりもそれを自覚している意識の方が大切だとわかってきた。
・何かが間違っているという考えとか不満が出てくるとそれが「絶対」になる。
それを元手に「さてどうするか」という新たな観念が生まれる。
それを流されているという。
自己内で生じた観念につられ、そのつられて出た観念にさらにつられ、
果たしてそこで「その人」は何をしていたかというと、何もしていない。

・なんとかせにゃと10年やってきたけどそれは一体何だったのだろう。
ずっと僕が描いてきた不幸。
それは何だったのだろう。
それ一色でここまできたのに、それは一体何だったのだろう。
それはやらなければならないことなのだと思ったし
それを乗り越えれば輝かしい未来が待っていると思っていたのに。

・不幸、そして不自由。
とにかく胸が晴れなかったんだな。
ただ僕は胸を晴らしたかった。それだけ。
それに引きずられていただけなんだな。
暗い人になりきっていたけど別にそんな必要もなかったんだ。
暗い人でいない責任があるのだ。

・散々いろいろ考えてきて何がわかったかと考えると、何も浮かんでこない。
人生むなしいなぁとそれを解決することだけを考えてきて、
それでどういう成果が生まれたかと思い返してみると、何も出てこない。
何もやってなかったんだな。

・『なぜ欲を出してはいけないか』
「欲から苦しみが生まれるから」→それは処世術。
「欲を出すのが愚かな行為だから」
→いやそれだけでは処世術からは抜け出せない。
『なぜ愚かな行いを正さねばならないか』
『なぜ人は自らを律する必要があるのか』
それは逸れるからだ。
根本から逸れるからだ。
だから逸れないように律せねばならない。
人には根本のままでいる責任がある。
根本でいるべき自由と責任がありながら、
それを自覚せずに逸脱に逸脱に重ねてきた今まで。
それにようやく気が付いてきた。
人間とは己の根本のままでいなければならない責任をもつ存在なのだ。
逸れる・逸れないかには自由があり平等がある。
だがどういう態度をとるべきかとの責任の上で言えば、
必然的に逸れないでいることが選択される。
この点がいわゆる「プラス思考」と違う。
「その方が得だから」プラスに動くのではなく、
責任を背負うとそうせざるを得なくなるからプラスに動く。
なぜそうなるかというと、それはわからない。
そうなるからそうなるとしか言いようがない。
あえて言うならそれは「義」や「誠」というもの。
「責任」とはつまり人をどこかに向かって歩かしめるもの。
それが果たせないときに初めて純粋な「懺悔」が生まれる。

・絶対的なものを求めてきたがもうすでに自分を絶対視していたのだ。
自分の考え、自分の直観、自分の嗅覚。
湧いて出てくる観念は「大事なもの」であったし、
湧いて出てくる感情は「自己を知る指標」であった。
そうやって自分を絶対視していた。とわかった。

・気分が重くとも体がだるくとも、
それに対してどんなものか態度をとる責任はある。
死のうと思えばいつでも死ねる。
そうしない自由がある。
そうしていない責任がある。

・目的があるなら進むのに躊躇しない。
ないから躊躇する。
正しいかわからずにやることは長続きしない。
やめてもいいという考えが浮かぶとそれを拒否する理由を見つけられないからだ。
目的があるときにだけそれを拒否するかどうかの選択の前に立たされる。

・今の自分はなぜ生きてるのだろうか。
死ねる瞬間はいくつもあったはずだ。
ただなんとなくそうせずにきた。
いろいろなことを考えると死にきれなかった。
死なずにおこうと決めたわけではなかったがただその度死ねずにきた。
もはや僕は生を諦めていた。
生きようとして生きているわけではなかった。
何かの希望や目的があって生きているわけでもなかった。
ただ続くのを続けていただけ。
完全に心が折れていた。
自分でもよく廃人と称した。
そんなところから主体性など生まれてくるわけがない。
すべて人任せだったのだから。
己が生きるかどうか、でさえも。
思えば僕はずっと死んでもいいのだよと言ってくれる人を探していた。
そのくせいざそう言われると死にきれないだろう自分もわかっていた。
自分はもはや死人だと称しながら死からはどこまでも逃げたかった。
かと言って自ら生きると言うだけの勇気もとても持ち合わせてはいなかった。
そういう中途半端なところですべてを人任せにしてきた。
いつでも死ねますよと書かれた看板を首からさげて
その辺をブラブラ歩いてその日一日を過ごす。
目的もなく。
ただ「いつかはすべてが上手くいけばいいのになぁ」と期待しながら待つだけ。
そんな状態で何を考えたところで人任せである以上戯言にすぎない。
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つぶやき | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/12/28 18:08

無自覚と責任

・対象化できないものをどうやって知るか。
決して対象にはなり得ないものをどうやって知ることができるか。
それは媒介を通してだ。
形のないものは必ず形となって現れる。
その形を通してそれを知ることができる。

・「自然」は自覚できない。
自覚できるのはその流れが妨げられたとき。
妨げられなければ無自覚、無意識、気づきようがない。
妨げられることによって初めて触れることができるようになる。
妨げとは限定のこと。
触れ得ないものは限定されることによってその手掛かりを現す。
その手掛かりに触れることによって触れ得ないものを知ることができる。

・空が空のままであることはあり得ない。
必ず変転し姿を現す。
・今には時間がないし空。
観念はこうして考えるそばから消えていきまた次のものが現れる。

・音を聞くには耳が空でなければならない。
・空間そのものを認識することはできない。
物があることによって空間を知ることができる。

・何をやっているかと言うと何もやっていないのだ。
無自覚。
ただ来たものに振り回されているだけ。
振り回されているとの自覚を持ちながら振り回されることはできない。
自覚し、もう振り回されないとの決意をし
何らかのテクニックを用いて行動しない限り振り回されるのからは解放されない、
のではない。
自覚している間にはもう振り回されるという事態は起きなくなる。
自覚の中にある種の主体性があるから。
起きながら寝言が言えないのと同じ。
醒めているのにぼけることはできない。

・もっともやっかいなのは罪悪感。
落ち込んでいなければならないという観念を覆すことはなかなか難しい。
はたしてそれを捨てるのが倫理的にいいのだろうかという思い。
だが、確かに、決して楽したいからではないが、
人そのものとしての尊厳まで奪われる筋合いはないのだ。
いや奪っているのは自分自身なのだから。
人から奪われたのではない。
自分から捨てているのだ。
例えどんな状況になろうとも自分で自分の尊厳を保っていればいい。
それは強がりではない。
尊厳を持とうと頑張るのでもない。
そもそもの問題は尊厳を持とうと力んでいるところからきているのだから。
まず己の罪を認めるのだ。
そうすることで逆に尊厳は得られる。

・つくづく思い知る。
ついさっきまで落ち込んでいたのに今はもう全然関係のないことを考えている。
いつまでも落ち込んでいることはできないのだ。
でもそれをいつまでも保とうとしているのだ。
保つ必要があるのか。
それを基本の心理状態として据える必要はあるのか。
心はいつも動いている。

・いくら不孝者といったって24時間不孝者なわけではない。
今この瞬間不孝を働いているわけではない。
例え多くの罪の上に現在があるとはいえ、その都度の罪はその都度の罪なのだ。
その瞬間の罪なのだ。
この今という瞬間には別に何も罪は犯していないじゃないか。
1秒前に罪を犯しても今は犯していないじゃないか。
自分は不孝者だ、そしてその十字架はずっと背負っていかなければ
ならないのだ、と思う必要は別にないのだ。
不孝者は不孝を働くから不孝者なのだ。
不孝を働いていないなら何者でもない。
別にずっと俯いて日陰を歩かなければならないわけではないのだ。

・どうせ罪を犯し続けることなどできないのだ。
どれだけ継続しようとしたってちょっと気を抜けば
すぐ罪を犯すのを忘れてしまう。
人間の心なんてそんなものなのだ。
どれだけ「罪人」で売っている人だって
それを忘れた瞬間にはただの「普通の人」なのだ。
悪人でも罪人でもなく。

・馬鹿だな。
尊厳を捨てた、誇りを捨てた、捨てさせられたといつまでも被害者意識でいるが、
捨てたのをずっと引きずっているのは僕の方ではないか。
捨てたのならまた拾うこともあるだろう。
なのにそれを拾おうとしないのは僕なのだ。
顔を上げてはいけないと誰が言った。
自分しかいないではないか。

・例え生まれたのが自分の意志でなくとも死ぬのが自分の意志でなくとも、
これは自分ではないなどと言えるだろうか。
自分である責任は「生まれつき」背負っているのだ。
生まれた瞬間からでもなく、生まれる前から背負っているのだ。

・周りから押し付けられている思うと重くのしかかる。
自ら背負っていると思うと軽くなる。
この荷物。
悟りを開くと気分も晴れるだろうと。
オドオドしなくもなるだろうと。
この不満足をさえどうにかすれば、という考えか。
この背負っている荷物をどうにかしさえすれば、すべてが好転するのに、と。
でも自らこの荷物を負っていくのだ。
その上でどうするかは自分次第だ。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/21 16:21

責任

またまたメモ。

・僕は最近少し変わった。
なぜか何かと探しているがきっかけとなったものはわからない。
が、正しさという呪縛が緩んだからというのはあると思う。

暗くて落ち込んでいないといけない。
そこから脱するべきとの論理がない以上、そこにとどまって
陰気にしていなければならないとの無意識の思い込みがあったが、
そこから脱する自由と責任があることに気がついた。
それで明るくなってもいいと思うようになったのだろうか。

・「絶対の強制力」にこだわっていたが、「責任」でいいのだ。
責任は、「応えろ」とプレッシャーをかけてくるものではなく、
「来い」との呼びかけなのだ。
必死に求めていた僕の姿は、自分は正しいのだと力んで
一人寂しく歩く姿だったのだ。
だが、呼ばれることにおいて既に責任を果たしている?

・絶対に正しいものに従うのが安心と。
しかし甘かった。
それに従うかどうにも自由があるのだ。
悪とわかっていながら悪を犯す自由もあるのだ。

・僕が求めていた解決は絶対をつかむこと。
そうすることでオドオドせずに自分として生きられると。
しかしそれは単なる責任放棄ではないか。
とても自分であることの責任はとれませんと。
正しくさえあれば責任を取る必要はなくなるから。

絶対を求めていたが絶対を求めるところにこそ間違いがあったのだ。
間違いは絶対を求めていく過程にあったのではなく求めた最初からあったのだ。
もし僕が救われうるとしたら絶対を求める自分から解放されたときだろう。

・どうでもいいことだが僕は本を読みたくて読んでいるわけではない。
「読まなければならないから読んでいるのだ」とか言ったような記憶もあるが
よく考えるとこれほど情けない言葉もない。
「しなければならないからしかたなくやっているのだ」
この振り回されている感。
被害者になっていい気になっているのかしらないが、
被害者は自らを貶めている加害者でもある。
自らやっていると言え。
嘘をついてでもそう言え。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/17 22:00

「何をしているか」

メモ。

・自己とは何かという問いを親切に言いかえると
自己はどこに向かっているか、何をしているのか、になる。
自己とは何かとの問いが導く答えは写真のように自己の一面を
切り取ったものになりかねない。
「向かう」「する」というのは運動。
運動は全体性をもつ。
部分的に切り取ったものは意味をなさない。
運動全体でもって初めて一つの意味をなす。
それは部分の寄せ集めではない。
静止画の寄せ集めは運動ではなく動画。
動画を見る主体は動画の向こうにいて
しかも動いているか止まっている定かではない。
いや、「見る」という運動をしている、と言うなら、
この例えの主眼が「動画」から見る「主体」に移ってしまうので
わざわざこの例えを持ち出す意味がなくなる。
しかし運動の主体は運動そのものの中にある。
その運動を言い当てることが主体を言い当てることになる。
つまり「自己はどこに向かっているか」を知ることが
「自己とは何か」を知ることになる。

・自分が何をしたかとかしていないとかそんなことは大したことではなく、
何を「しているか」こそが真に問われるべき。
本を読んでいる、ものごとを考えている、テレビを見ている、
そんなことはどうでもいい。

・問うているだけでなく問われているのだ。何をしているのかと。

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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/17 21:45

「仏まします」3 (不可解)

これはおまけです。
前々回、前回はこちら。
「仏まします」1 (危険性)
「仏まします」2 (感謝)



不可解とは何なのか。
人に「不可解」はわかるのだろうか。
人が不可解と認識するのはどんなときか。

どれだけ考えてもわからない、
だからこれは解けない問題(不可解)なのだろうと。
でもその場合、自分に能力がないから解けないだけかもしれない
という憶測も立つ。
いずれ能力のある人が現れれば解けるかもしれない、との予測。
だから、自分に解けないという理由だけで不可解ということはできない。

門外漢だが、数学の問題だとどうか。
どういうとき解けない問題と判断されるか。
問題自体に誤りがあると確認できたとき、か。
問題の中に矛盾が含まれる場合か。

数学の場合は問題自体が持つ矛盾とその根拠は証明できるのかもしれない。
しかし数学以外ではどうだろう。
そもそも数学というのは、世界をある角度で切り取ってできたものだろう。
その「数学的世界の切り取り」自体が間違っているかもしくは
未発展段階、つまりそれを超えて包むさらに高次の切り取り方があるかもしれない
という予測を否定することはできない。

何にしてもこの「かもしれない」という予測がある時点で不可解の断定はできない。
やはり人が「不可解」だとわかるにはわかる根拠がなければならないが、
しかしその根拠が正しいという根拠も示さなければならなくなるし、
これでは終わりがないから
やはり人間には不可解だと知ることはできないのだろうか。

そもそも人は不可解をどう認識しているか。
不可解で代表的なものは、生死。
自分はなぜ生まれたのか。なぜ死ぬのか。
さらに、自分はなぜ自分なのか。
自分になぜこの一生が与えられたのか。
というのもある。
これらは不可解だとほとんどの人が思う。
ここでとりあえずの断定がある。

だた、注目すべきはここからで、
人は不可解と思いながらもそれを解こうとする。解きたいと願う。
「考えても分からない」とは頭ではわかっていても
それを解かずにはいられない。
これはつまりそのときその人は「不可解」だと認識しているようで、
実は「未可解」と認識しているのではないか。
いつか解決するのではないかと願いをかけている。
そんな願いが悟りを求めさせたり、神の啓示を求めさせたりする。

やはり人間に不可解は認識できないのだ。
それが大事な問題であるほど未可解としてしまう。
いつか解くことができる。そう信じる。

何回も言った通り、仏は不可解だ。
仏教ではよく仏の神秘を「不可思議」と言って讃嘆しているが、
これは単なるオーバーリアクションではなくて
事実を言いとめている語なのだろう。
だが「不可解」が人間と完全に切り離されて存在しているわけではない。
どこかに「不可解」なる領域があるわけではないだろう。
人間が求めるところにそれはあるのだ。
求めるからそれが「不可解」になる。
出会うからそれが「不可解」になる。
出会ったときに「不可解」は初めてその意味を持つ。
どう表現したらいいのかわからないが。

事故にあったとき、重いに病気になったとき、大切な人をなくしたとき、
人は「なぜ」と問う。
その「なぜ」こそが不可解の正体で、
これこそがすごく大切なことなのではないかと最近は思うのだが、
まだよくはわからない。
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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/05 23:07
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