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最善について

最善について。
何が最善の選択なのかということは難しいものだと思う。
これが正しいと思っても、
でももっと正しいものがあるかもしれないなどと思ってしまうから。

僕は、特定の状況下における最善の行動というものは、一つではないと思う。
一つではないというか、人それぞれだと思う。
押さえるべき芯を押さえてさえいればその人のとる行動はすべて最善となる。
別の人のとる別の行動も最善となる。芯さえ外さなければ。

その芯がわかっている人のことを悟った人というのではないか。
そしてその芯を押さえる術に長けた人のことを聖人というのではないか。

きっと悟った人の心の中身も悟っていない人の心の中身も同じなのだ。
構成要素とか、中身は。
悟りを開いたからと言って心の中に新たな何かが出現するわけではない。
ただ違うのは心の中心を知っているかどうか。

その中心さえ知っていれば、
それに基づいてその人が「最も善い」と思う行動をとれば、それが最善となる。
だから「最善の行動」の結果、予期せぬことが起こり、
誰かを悲しませたり苦しませたりすることももちろんある。
(そうするとこれは最善というよりはただの善かもしれないけれども。
 だとすると最善は神にしかわからないものとなる。)

とにかく、何が最善かと考えるときに注意すべきなのは、
「状況(客観)の最善」ではなく、「己の最善」を問うべきだということ。
「己の最善」というと、結果がどうなっても構わないと言っているように聞こえるが
そうではなく、とにかく「己の本分を尽くすべきだ」ということ。
その後の結果を想定するのも「己の本分を尽くす」うちの一つ。
とにかく己が最も善いと思うことに集中すること。

その結果悪いことが起こっても、
その悪いことのおかげで善いことが起こるかもしれないし、
またそのおかげで悪いことがおこるかもしれない。
結局のところ、何が善くて何が悪いかというのは考えてわかるものではない。
一方から見た善は他方から見た悪でもあり得る。
善悪是非は「考えるべきこと」なのではなく「(思わず)考えてしまうこと」。
いかにその妄想に囚われないかと工夫していくことが肝要。

(状況の)善い悪いに関係なく、
最善を尽くし、その後の展開に最善を尽くし、そしてまた最善を尽くしていく。
つまり、どの瞬間にも集中しているべき、心を込めるべきだということ。
それが生きるということの全体でもあると思う。

人は「善」よりも「最善」にこだわりたがる。
でも善がわかりさえすれば、最善なんていらなくなる。
そうすると(?)、善が最善となる。

まぁ、要するに最善というものは実生活とは関係のない観念上の一つの問題として
考えられるべきものではなくて、
生きるということがそのまま最善にかかわってくると、
そういうものとして捉えていくべきだということです。
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人生観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/01/30 16:39

命を捧げる

今の自分のこのダルダルの心身が憎らしい。
よくもこんなにだらしなくなれたものだな。
ダレた心身は一々の行動、ちょっとした所作にも現れる。

うちはしつけは割りと厳しい方だったと思う。
それがよくここまで。
「自分の人生」というものを意識してから、たるみにたるみきったんだろう。
“抑制する「理由」がわからない。” 
“奮起する「理由」がわからない。” 
“何が正しいのかわからない(だから誰か教えて)。” 
という感じで。
“わからない”と心も体も動かない。動けない。

やはり人間、志を持たねばならない。
その志を遂げるために生きる。
その目的のためにこの自分というものを調整し操縦し演出していく。
その目的のために命を使う。燃やす。

物にはそれぞれ使命がある。使いようがある。
ハサミなら切る。消しゴムなら消す。
それを最大限に活かしてあげるのがその物のためとなる。

では僕の使いようは。
何をすれば僕の心ではなく僕の命は成就されるか。
何を為すことにこの命を捧げるか。

なんだか大学生の頃もこんなことを言っていたような気もするが・・・。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/01/29 22:29

今日も無駄なことをしています

最近、漢字検定の勉強を始めた。
別に試験を受けるところまではいかなくてもいいと思っている。
ともかく、生活に新しい風を招き入れて、
ちょっとずつでも変えていけたらと思っている。

思えば、僕はここ何年も楽しいと思えることや趣味に没頭した記憶が
ほとんどない。
いつも“そんなことをしている場合じゃない”という言葉が聞こえたからだ。

楽しいことをしたところで、そんな感動は死ねば消える。
死ななくとも何日か経てばそれだけで消える。
何かの業績を残したところでそれが何だというのだ。
例え地球の消滅を引き延ばすという人類にとって最大の貢献を為したとしても、
地球など宇宙から見ればとるにたらない存在だろう。
地球がなくなろうと宇宙は平然と存在していそうに見える。
“そんなことはない、どんな小さなものも全体を動かすかけがいのない歯車なのだ”
という見方もあるだろう。
自分という存在が宇宙全体を動かしている大切な歯車なのだと。
だが、そもそも宇宙が存在していることがいいことなのだという実感が
僕にはない以上、自分が宇宙にとって大切な歯車なのだからと言って、
自分を誇ることはできなかった。
もしかしたら意味のないものの存続や運動に加担しただけの
無駄な存在なのかもしれないのだから。

だからまず、宇宙良し、自分良しと言えるものを明らかにしなければならなかった。
自分の元には人類が、人類の元には地球が、地球の元には宇宙が、宇宙の元には○○が、
○○の元には△△が、と遡っていって、もうこれ以上遡れないという“それ”、
その万物の中心に立ち戻らずに、その末端だけを肯定していてもむなしい。
そのブラックボックスを明らかにしないまま、
その都度の事、その都度の心に一喜一憂している暇はなかった。
とても趣味などしている暇はなかった。
一刻も早く解明しなければならないことがあるのに、
それをしなければ自分の一日が“成り立たない”という大切なことがあるのに、
それを無視して生活することはできなかった。
始末の悪いことには、楽しいことをして気分がよくなってしまうと
もう考えるのをやめてしまう。
それが何より怖かった。
浮かれに浮かれて生きている間にもう明日死なねばならないという時が来る
のを想像すると戦慄が走った。
だから浮かれている暇などなかった。楽しいとなど感じてはならないと思った。

・・・が、
僕はこの度、漢検の勉強を始めた。
こんな無意味なこと、と思いつつ。
面白いとも思えないし。
でも、僕はずっとこれができなかったんだなぁと思うと、感慨深いものがある。
こんな簡単なことが僕はずっとできなかったんだ。
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「自己」を見つめる | コメント(4) | トラックバック(0) | 2014/01/25 15:05

学びなさい。

とにかく悟りを開きさえすればそれでいいと思っていた。
その証拠に、本を読んだり仏教を学んだりしているのは悟りを開くためで、
開いてさえしまえばもうそれらのものは必要ないと思っていた。
僕にとって仏教とはそういうものだった。
そもそも好きでやっているわけではなかったのだから。

本屋に行くと、「どう生きるか」の本ばかりで「なぜ生きるか」の本が少ない。
それが不満だった。
皆どうすれば楽に生きられるか、どう生きるのがより良いのかと問うばかりで、
最初から生きることを前提にして考えている。
確かに既に生きているわけではあるけれど、それらの試みは
はっきりしない土台の上に建物をたてるというよくあるあれのように思えて
どうもなじめなかった。

でも今になって僕は「どう生きるか」こそが問題なんだなと
丸っきり考えを変える羽目になった。
僕はずっと何か・どこかへ至ることだけを考えていた。
その他のことは何も考えていなかった。
悟りがそう。悟ることができればもうそのための手段に用はない。
手段というのは、色々考えたり、僕はしていないが坐禅とか念仏とか。
それは例えば、
2階へ行きたいが階段が壊れていたり何かの理由があって階段が使えない、
で、はしごを使って2階に上がると。
上がってしまえばもうはしごは必要ない。
2階にいるのにいつまでもはしごを持ち歩くのは疲れるし邪魔にもなる。
だからはしごにはもう用がなくなる。ということ。

この場合のはしごが僕にとっての仏教だったりする。
悟れてしまったならもう仏教には用がない。
今まで何度かもう出家するしかないんじゃないかという考えが
頭をよぎったことはあるが、とてもそれを断行する気にはなれなかったのは、
悟ってしまえば出家生活には用がなかったから。
悟ったならそれを世の中に活かして生きていきたい、そういう気持ちがあった。
何よりいつも同じことの繰り返しの生活というのに耐えられないと思った。

でも考えを改めた。
道を歩かねばならないと思うようになった。
今まで僕が道だと思っていたものはいわば悟りを開くまでの道のりのことだった。
でもどうやら違うらしい。
道とは悟りはともかくどこまでも歩かねばならないものらしい。
ここまで行けばもう安心とかそういう安心を求めて歩むものではなく、
常に外れぬように身を正して歩き続けていくものらしい。

世間によくある身を正す生き方を勧める本を僕が読む気にならなかったのは
前述の通り。
「生き方」より「生きるかどうか」という所まで降りて話をしてほしかった。
「生きるに値しないという結論が出た場合はいつでも死ぬ覚悟だ」と、
そういう危ういけれども真剣な気概を持って文字通り命懸けで生きている人の
言葉の方がずっと好感を持てた。
死をいつかくる未来に置くのではなくて、
「今すぐにでも」と常に拳銃を頭に突き付けて
神経をすり減らしながら生きている人の方がずっと身近に感じられた。

が、今は身を正していくことが唯一の道しるべだとなぜか思うようになった。
面白いもので、
そういう目で見てみると、世の中にはためになるものがいかに多いかと
いうことがよくわかった。
僕はずっと「わかった人」以外の人の言葉を聞く気がなかったから。
人生経験豊かな人は「豊かに生きるコツ」を教えてくれるかもしれないが、
僕からすれば
「豊かに生きてそれが何?
あなたが豊かに生きるなら僕はあえて貧しく生きます。
それも個人の自由でしょう。
それでも豊かに生きねばならないと僕に言う理屈はありますか?
あるならそれを教えてください。僕がずっと求めているのはそれなのですから」
と、口には出さないもののずっとそういう態度で、人を相手にしていなかった。

それでもやはり、人生経験がものを言う場合は多いし、
僕にない経験をした人からはためになるものはいくつも教えてもらえるのだ。
先人が遺した知恵があるにもかかわらず
それをあえて避けて一人で行く者はやはりどこか愚か者なのだろう。
どんなものからでもどんな人からでもこちらに見る目さえあれば
学べることはあるはずだ。
学べなければそれはこちらの技量が足りないのだ。

と、そう思うにようになってから、全くそうできない自分を初めて知った。
本当に僕は人間として幼いらしい。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/01/11 16:26

『日々新たに』

「日々新たに」、今朝そんなことを思った。
いつでもその都度のことに集中しているのは難しい。
気を緩めればいつまでだって呆けていられる。

集中し「続ける」のは難しいし、何より気力がもたない。
何かを続けるにはその分だけ気を張っていなければならないからだ。
しかし「日々新たに」というのは何かを続けるというよりは
その都度リセットをするということだろう。

リセットというのは原点に帰ることだろうが
それは原点のままで居続ける「維持」と考えるより、
外れたら戻る「回帰」と言った方が正しいだろう。

だから「日々新たに」というのは「新たに状態」を継続しようと気を張るのではなく、
その都度「あ、新たにというのを忘れていた」と振り返ることだろう。
そうすれば疲れない。

新たなものに出会うとその刺激が強い分リアクションも大きくなる。
たまにならそれもいいが、それがいつも続くと逆に疲れるのではないか、
という気持ちを持っていた。
刺激が多いというのはストレスが多いということでもあるのだから。

だがこれは勘違いだったようだ。
呼吸も、ずっと同じ空気だけを吸っていてはやがて苦しくなるが、
つねに新鮮な空気を吸っているなら気持ちがいい。
その気持ちよさは活力を生む。

「日々新たに」暮らしていると、
リアクションを取る回数が多い分エネルギーをより多く消費するだろうが
(わぁきれい、とか、あぁすごい、とか)、
その感動が新たなエネルギーの元となるから問題ないのだろう。
決してエネルギーが枯渇することはないと思われる。

この「日々新たに」というのは座右の銘にしてもいいくらいだ。
座右の銘というのは自分とはかけ離れたものを掲げるのだろうから。
こんなことを書いていたって「新たに」を意識できるのは
1日の内にほとんどないだろう。
だからこそ座右の銘たりうる。

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決意・覚悟 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/01/10 22:02
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