スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | --/--/-- --:--

半年前の自分へ

今の自分と半年前の自分との会話。

半年前の自分
『あなたは「こうしていくべき」「この辺りを改善していく必要がある」と
よくおっしゃるが、それは自分は生きていくとの覚悟あっての発言か。
生きると決めているならばそのために必要な努力もある。
しかし生きるかどうかについて大した反省もないにかかわらず
そうおっしゃっているのだとしたら、自分としてはとても許しがたい。

何かを為すために生き、さらにその生きるためにこれを為すというのならわかる。
が、何の意志も目的もないのに、ただ生きているから生き、
あるいは快を求めて生きるとしたら、これは無知で醜い獣と同じではないか。
生きるために生きるとは何とむなしいことか。

生きる目的もないのにただ生き、果たすべき理由もないのにただ自己を磨き、
背景に何もない自己の成長の悦びに浸る。
すべて見え透いた一時しのぎではないか。如何。』

現在の自分
『君の気持ち、君のやりきれなさはよくわかる。
だが、僕には君に言いたいことが一つだけある。

君の言う通り、僕は確かに生きようとしている。
だが、もしかしたら明日にはまた死にたくなっているかもしれない。
そうだとしても、それでもいいのだ。

きっと君は、生きると決めてみたり死ぬと決めてみたり
心がコロコロ変わる僕の軽薄さを鼻で笑うだろう。
そこは笑われても仕方がない。
だが、例え僕の心が頼りなく揺れても、僕は自分の中心を失うわけではない。
見失うことはあってもそれそのものを失くすことはあり得ないのだ。

あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、浮かれたり、沈んだり、
例え心の中がグジャグジャに乱れていたとしても、自分の中に依るべき芯がある。
そのことを僕は知っている。
君と僕と違うのは唯一そこだけだ。
後はみんな同じ。
でも決してそこを侮らないで、どうかもう少し我慢して生きてはくれまいか。
どうか自分の価値を自分で勝手に決めないで、自分を信頼して生きてはくれまいか。
君が君自身を否定するのを僕は本当に悲しく思う。』
関連記事
スポンサーサイト
つぶやき | コメント(4) | トラックバック(0) | 2014/02/27 21:53

目の曇り

・修行、訓練と言っても、世界(神)と対峙して
世界に認めてもらうためにやるのは駄目だ。
あくまでも世界の一部との意識を持つべし。

・世界から試されているという意識を持つよりも、
導かれているという意識を持つ方が害は少ないかもしれない。
僕の場合。
これは試練だとか、成長のために与えて下さったのだとか、
一見残念なこの結果もきっと今の自分にとって最善の経験なのだろうとか、
そういう考え方は昔は反吐が出ると言いたいほど毛嫌いしていたが、
この辺は今一度検討の余地あり。
本当に自分の扱い方というのは死ぬまで工夫していかねばならない様子。

・世界からこの身体を与えられているんだ。
主人がこんなじゃこの身体に申し訳がない。

・神がわからないのに神を信仰することなんてできるわけがないと考えていた。
でも神はわからなくても感じることはできる。ごく普通に。
それが僕にずっとできなかったのは、厳密な定義は知らないが
唯物主義とかいうもののせいだろう。
その心がどれだけ世界も自分の意識も曇らせていることか。
つまらない問題にも思えるが最近その罪の重さをひしひしと感じる。

・世界は自分の味方だという考え方を嫌っていたことの中には、
小さい頃は逆にそういう考えで生きていたが、
生きていく中で世界は決してそんな自分のためにあるものではないと
突き付けられるような経験を重ねる中で、半ばトラウマのようにして
その考え方を忌避するようになった、というのがあると思う。

でも、世界が自分の味方だと思えたら幸せだろうし、
そういう幸せでイキイキした人は周りにも良い影響を与えると思う。
唯物主義的なものの考え方は、
自分を世界とは関係のないほんのつまらない存在だと思わせてしまう、
かなり厄介で、罪の重いものだと思う。
関連記事
人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/02/26 23:00

外れた感

外れたとか、どうやって戻るかとかブツブツ言いながら色々やっているが、
そうやって一人であれこれ考えていること自体がよくない。

外れたと思うのが勘違い。
外れようがないから。
外れたと思うから本当にそんな気がしてくる。

外れたとか言って騒いでいる自分を俯瞰すると、そこで見えてくるのは
世界から切り離されているとの無意識の意識が僕が迷わせているということ。
外れたと感じ、戻ろうとする「努力」、戻り方を云々する「努力」、
状況を把握しようとする「努力」。
この努力というのはどうにかしようとの思い。
でもそうすると無意識の内に世界に背を向けてしまっている。
開拓とかはそうだろう。今までの場所に背を向けないと進めない。
しかし僕がここで求めているのは戻ることであって
スタート地点から遠ざかって行くことではない。
戻ることに努力するのは本末転倒。

大雑把に言って何が人を駆り立てるかというと、それは淋しさだろう。
本人に自覚はなくとも、何かに駆り立てられている人は
皆世界からの孤立を負っている。
孤立した淋しさから、ああしようこうしようと色々思い悩むことになる。
僕も戻ろう戻ろうと思い悩むことになる。

が、外れたと思ったこと自体が既に敵の見せた幻だったのだ。

最近、皆自由に神など信仰してもいいのではないかと思う。ユルく。
僕も。
昔は、信仰するかしないかも大きな問題だし、
もしするとしたら正しいものでなければならないという思いがあった。
最善でないものを信仰してもしょうがないから。
というより、その行為が「間違い」の烙印を押されることになるからか。
「正解」を求めて神を求めるのに「間違っている」ものに近寄りたいわけがない。

でも今は皆自由にそれぞれの信仰をしたらいいのではと思う。
そんな正解・不正解に怯える必要はない。
関連記事
「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/02/20 20:50

儒教求ム

最近の自分の考えていることは、儒教に近いのではないかとあるとき思った。
それで儒教について知りたくなった。
己を正さねばならないと思うようになったが、
どう正したらいいのかをその都度自分で考えるのも大切だろうが、
先賢がこうして生きていきなさいと示してくれているものがあるのなら、
当然それを参考にすべきだ。

でも、僕は儒教の「じゅ」の字も知らないから、
誰の何という本を読んだらいいのかもわからない。
書店にも図書館にも、儒教関連の本は探してみると意外に少ない。
まず『論語』『孟子』など最重要のものを読むべきなのは間違いないが、
誰の翻訳、注釈、解説か、が気になる。
一応最初に読むものはきちっとしたものを読みたいという気持ちがある。
それでもそろそろ誰かのものを読むべきだろう。
とにかく、情報が思ったほど入ってこなくて困っている。

仏教の場合は、まず山田無文老師という人物に惚れたのが始まりだから特に困らなかった。
でも今回は違う。
同じように入門のところでまごついている人の気持ちがわかり同情する。

それに、数少ない僕の儒教経験から言うと、
儒教の本を読んでも大抵「はーそうですかー」という感想しか出てこない。
これは鈍感だったからなのだが、やはり信頼できる人の解説なりが欲しい。

『中庸』の
『天の命(めい)之れを性と謂う、
 性に率(したが)う之れを道と謂う、
 道を修(おさ)むる之れを教えと謂う。』

というものも、何年か前に見たときは「はーそういうものですかー」だったが、
今見ると「なるほど、そうですか!」となる。
よくぞ言ってくれましたと有り難くさえ思える。
趣意の一端でもアンテナがキャッチしたのだろう。
だがおそらくこれは例外で、今『論語』を読んでも「はーそうですかー」で終わると思う。

だから誰か信頼できる人・信頼できる本を知りたい。
本だけでなく、師と呼ぶべき人に就いて学ぶべきかもしれない。
礼儀作法も滅茶苦茶だから。
武道を習うのもいいかもしれない。
さすがにこの辺は現段階では妄想・夢想だが。
関連記事
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/02/08 16:55

引き出しの下の面倒

とりあえず気を付けるべきこと。

物に愛情を込める。触るとき、使うときなど。
常に動作に気を配る。
何事も適当にやらない。
言葉に気を付ける。

要するに
どれだけ流れていく生をないがしろにしないか。
気を集中できるか。

僕はよく一時的なことをするのを億劫がる。
例えば、物を取ろうと引き出しを開ける。
取りたいものが一番下にあるのはわかっているが、
上にあるものをわざわざ取り出すという行為が面倒に思えて
上のものをそのままにしながら強引に下の物を取る。
でも、かえって手間取ったり、引き出しの中がグジャグジャになったりする。
そういう失敗がよくある。

上に乗っている物を取り出す労力とか、かかる時間のことを考えて
面倒だと感じているというよりも、「すぐに戻す」という事実に対して
面倒だと感じる。
でもこれではいけない。

1、2分だけの物の移動を面倒がるというのと
7、80年だけの人生を面倒がるのとでは程度の違いでしかない。
物を「どうせまたすぐに戻す」と感じて面倒がるのと
人生を「どうせいつか死ぬ」と感じて面倒がるのとは本質的には同じことだ。
だからちょっとしたことを面倒がるというのは
人生を面倒がっているのと同じことなのだ。
いずれ死ぬからと手抜きで生きる人はあまりないだろうが、
一々の物事を面倒がって生きていくなら、それはやはり人生の手抜きだ。
人生と言ってもその中身は「行い」の集まりなのだから。

食事というのも面倒なことだ。
死ぬまでに何回食事をしなければならない。
食べてすぐ無くなるにもかかわらず、作る。
食べてすぐ洗わないといけなくなるにもかかわらず、器に入れる。
それを1日何回もやっている主婦の人などは大したものだ。
掃除にしてもそう。すぐに汚くなる。

よく今の世の中が昔よりも生きづらくなったと言うが、
もしそうなのだとしたらその理由は何か。
とりあえず一つ挙げるとしたら、「効率的」という言葉が
恐ろしい魔力を持つ言葉となったことではないかと僕は思う。

「これが効率的・合理的」と言われるともうそれを覆せなくなる。
無理に覆そうとすると「酔狂」「変わり者」などと言われる。
自分でもそう思い、「趣味でやってるんです、道楽です」などと言う。
だが、効率と言うなら、人間はどうせ死ぬのだから、
それなら生まれた瞬間に誰かに殺してもらうのが一番効率がいい。
そういう見方も成り立つ。生→死の時間短縮だ。
人間は地球にとってガンのような存在だという意見を持つ場合なら、
なおさら早く死んでしまうのが地球のためでもある。

「効率的」というのはそういうことだ。
皆それはおかしいと思いながらも、それに対して本気で反論することができない。
これが一番の生きづらさだろう。
皆本心に自信を持てない。「効率」「理」と言われると本心が引っ込む。
でも「効率」なんて本当はそんな恐ろしい言葉ではないのだ。
人間は効率のために生きるのではない。

引き出しの下の物を取るときに上の物をどかすのは
「結果的にその方が効率がいい」からではなく、
その一つの行動が人生のすべてだからだ。
それがすべてだとわかるなら決して適当にはしない。
わからないから適当にする。

明日必ず死ぬとわかっていたとしても、
きっとご飯を食べるし、風呂にも入る。
それができない場合は動揺が収まらならい場合であって、
動揺全くなく「どうせ死ぬのだからもう必要ないや」と割り切る人はきっといない。
明日死ぬにもかかわらずご飯を食べ風呂に入るのは、
決して空腹・不潔が不快だからというのが第一義としてあるのではなく、
それがその都度の務めだからだ。
その都度の務めを否定することは人生すべてを否定することになる。
死ぬ前ならそれが誰でもわかる。
人生とは「この瞬間」のことだと思った方がいい。
時間として考えない方がいい。

僕はよく「ながら○○」というのをやるが、
あれも効率に囚われているからだ。
「この待ち時間、他のことをしていた方がいい」と。
でもそんなに急ぐ理由は本当は何もないのだ。大抵の場合。
一度に複数のことをした方がたくさんのことができると言うが、
別にそもそもたくさんのことをする必要はないのだ。
決められた時間にこれだけの量を、という条件がないものならば。
「効率」という言葉のせいで
「早く動かないといけない」「多く経験するのが良い」と思わされているが
本当はそんなことはない。
何事も丁寧にやるべき。
最初はゆっくりでも洗練されてくれば早くなる。
洗練された動きというのは見た目はゆっくりでも案外と早いものだ。
だから肝心なのは、「丁寧」にやる中で気にするべき一つの項目として
「効率」があるということ。
効率というのは本来そう使われるべき言葉だ。
別に効率さんに悪気があるわけでもないし、価値がないわけでもない。
使い手の力量が足らないだけ。
関連記事
人生観 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2014/02/04 20:19
 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。