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聖地巡礼

今日、京都の吉水の草庵(安養寺)へ行ってきました。
ここは法然上人が浄土の教えを説かれた拠点であり、
またそんな法然上人のもとへ通い詰めた若き日の親鸞聖人が
信心決定(安心を得た)された地でもあります。
言うなれば聖地なんですが、人はほとんどいません。
あの辺り一帯は観光地で、近くには平安神宮、知恩院、高台寺、建仁寺、清水寺という
京都でも有数の観光スポットがあるんですが、吉水の草庵には人はほとんどいません。
行ったのは今日で3回目ですが、今まで人には2人しか会ったことありません。
「東山」の寺々を見下ろすようなやや高い位置にあることと、
それから「普通の小さなお寺」であるということがその理由だと思います。
でもだからこそ僕はここが好きです。
喧騒から離れられます。

本堂(?)は誰もいませんのでしんとしています。
奥から寺の人が家事をしている物音が聞こえてきます。
夫婦であったり親子であったりの会話も聞こえます。
たまに宅配も届きます。
そんな生活感あふれるところがかえっていいです。
知恩院や東西本願寺にも行ったことはありますが、
確かにあそこも心が落ち着き清らかな気分になるところではありますが、
周りの目もあってかどこか羽目を外せない雰囲気があります。
その点吉水の草庵はそこにいると段々なんでも許してもらえそうな気分になってきます。
今日はとうとう大の字で寝ころがり、
ごろごろしながらおそらく2時間くらいいました。

途中で別の参拝客が来たのでそのときは慌てて座り直しました。
その人は何かお経のようなものを唱えていましたがそれが何かはわかりません。
最後に蓮如上人の「白骨の御文」と思われる一節が聞こえてきたので、
もしかしたらその人も親鸞聖人の聖地としてこられたのかもしれません。
やや気まずかったですが、斜め後ろに座って最後まで聴かせてもらいました。
何か話そうかと思いましたが、何となく気まずい目線をお互い交わした後、
その人は帰って行きました。
しばらくの間その人の歌声がお堂の外から聞こえていましたので、
よほど気分が良かったのでしょうね。
いつもああいう熱心な信仰者を見ると不思議な気分になります。
彼の目に一体僕はどう見えただろう。

それからまた大の字へ。
最初はさすがに足は玄関の方へ向けていましたが、
なんとなく本尊の方へ向けたくなってきたので足はあぐらにして反対向きに寝ました。
やってみるとやっぱりそっちの方がしっくりきます。
腹を見せ万歳した格好なので、無防備感アップ。
結局、見性体験(禅用語?)とは音を外のものとして聞くのではなく、
内のものとして聞くということじゃないのか、とか、
今目の前にある阿弥陀如来にしても、法然上人、親鸞聖人という方々にしても、
僕の世界を荘厳するために在って下さる存在じゃないのか、とか
そんなことをぼんやり考えながらしばらくまどろませてもらいました。

帰る段になって、外へ出てみると、
感覚が研ぎ澄まされたのか何を見ても美しく見える、ような気がします。
普通映画にしても写真にしても、見せたいものにフォーカスを当てて背景をぼかします。
でも、寺を出てしばらくの間は世界の見え方が変わってしまって、
何を見てもそれが主役のように感じられ、
すべてのものにスポットライトが当たっているような気がして、
世界は本当に美しいんだなぁとしみじみ思いました。
逆に言えば、今までそれだけ鈍かったんでしょうね。
その感覚は、全部「気がする」程度です。
でもその感覚は大事にしていきたいものです。
すぐに消えてしまいましたしね。
今日は充実した一日でした。
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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/24 21:44

子と個と

僕は本当は誰でもないんだが、この身体を与えられた。
「個」として存在することになった。
その有り難さ。

本当は誰でもないんだ。
だから別に親と言っても本当は親でもなんでもないのだ。
でも、この身体を与えられ、「個」として存在させてもらえたこと、
有り難く思います。

「個」となるとは課題を背負うということ。
この課題、大事に歩ませてもらいます。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/22 21:00

好きなんです

嬉しいことを嬉しいと言える喜び。
好きなものを好きといえる幸せ。
身体の底から湧きあがってくるこの感覚。
その喜びを噛みしめている。
例え長続きしないとはいえ、こんなに幸せを感じていると
僕はその内死ぬんじゃなかろうかとたまに思ったりもするが、
それも僕が勝手に作り上げた幻想なんだろう。
幸せになってはいけない、という。

やや以前、久しぶりにミスチルを聴いた。
いつからかミスチルは丸くなったというか、昔のようなトゲのあるような曲が減って、
ハッピーな曲が増えてきた、と個人的には思っている。
でも、久しぶりに聴いてみると、そのハッピーな歌ですら、
壮大というか、何か、重いように感じる。
ハッピーなことを歌っているのに、曲が何か重たい。
もちろん、それはボーカルの桜井さんのこれまでの紆余曲折が滲み出ているのでは
あるのだろうけれど、ハッピーにしてはやけに背景が重いな、と。
気楽にハッピーを歌えないのが現代の悲しさなのだろうか、とか無責任に思ったり(笑)
それが少し前のこと。

で、先日また何となく聴いてみると・・・、
いや~、いいですね(笑)
イヤホンを替えて低音が強調されたからかもしれないけれど、
何か心の奥深くに響いてくるようで、たいへん良かった。
昨日聴いたので言うと、アルバム『[(an imitation) blood orange]』の中の
『常套句』『祈り ~ 涙の軌道』、非常に良いです。
他には、アルバム『SENSE』の1曲目『I』の歌詞

『「誰も悪くないの」とか言い出すんでしょ!?
 自分を責めるふりして許しを請え』
『そんな風に自分を甘やかすのでしょう
 支持してくれるスポンサーに媚を売る「I」
 挙句には「死にたい」とか言い出すんでしょう!?
 思いどおりいかないときの一発芸 どう!?』

桜井さんのこういう歌詞、昔から好きです。
自暴自棄というか、自分自身に向けた辛辣な言葉。
何がそう思わせるのかはわからないが、
こういう厳しい(?)分析をしている人の言葉をみると、
「この人は僕の仲間だ」と言いたくなる。
アルバム『SUPERMARKET FANTASY』の中の『水上バス』も良かった。
こういうシングルにはなりそうにない、どこか物悲しい雰囲気の曲、昔から好きです。

いや~、好きなものを好きと言えるのは素晴らしい。
段々人間らしい感情が戻ってきたと感じるこの頃。
この腹の底から幸せがこみ上げてくるような身体感覚は大事にしたい。

熊木杏里さんも聴いてみた。
この方はあまり有名ではないかもしれないが、前から好きな歌手です。
あの声の透明感・・・。
熊木さんが歌う中島みゆきさんの『空と君との間に』、動画で見つけたときは思わず震えた。
動画の音質は悪いのにあの透明感。
残念ながらYou Tubeでは消されてしまったようだ。
『桜坂』もいい。福山さんの。これはまだ残ってる。
もちろん、カバーでなく彼女の作る曲もいい。
彼女の曲は、声の透明感が能天気方面へ行くのではなくて、
どこか物悲しさを感じさせるような方向に作用してくるので(例えハッピーな曲でも)、
そんなところが好きだ。

どうも僕はああいう声質が好きなようだ。
歌手でいうと熊木杏里さん、女優で言うと宮崎あおいさん、
あと、ひょんなことからドハマりしてしまったアニメ声優の花澤香菜さん(笑)

僕の中でのこの人達の声に共通するもの。
透明感とかナチュラルボイスとか言うのだろうが、
僕の感覚で言うと、「少年のような声」「中性的な声」。
女性にも男性にもなる前の声。
(ウィーン少年合唱団と狙いは同じ?)
けれどもアニメでよくあるような「少年キャラ」や「幼児キャラ」の「声の型」とは違う。
花澤さんに関して言えば、
僕は花澤さんのあまり声を作っていない(ように感じる)時の声が好きだ。

ちなみに普段一人でいるときの声が「地の声」「作っていない声」とは限らないと思う。
皆それぞれ「自分像」を作っているのだから。
花澤さんの透明ボイスは僕の中では開放感に結びついている。
作らない方がいいと言うのは声優さんには失礼なのかもしれないが・・・。
作っていてももちろんいいですよ(笑)
トーンをどれだけ変えてもその人の声だと特定できるように、
その人独特の声の振動の形(?)がある。
いわゆる「花澤さん」と称されるところの声の振動形状が好きです。
まあ「声が好きです」で済む話ですけどね。

花澤さんのことを語ると話が長くなる。
いつの間にかそんな重症の患者になってしまった(笑)
今は、大学時代の友人に花澤病をうつそうと奮闘中。
嫌がらずに聴いてくれる人というのは、本当に有り難い(笑)
好きなことを語るときは、冷静になったら負けだな(笑)
だって何を好きになるかに理由はないのだから。
「好み」を「理屈」の土俵に上げると「好み」がみすぼらしく見えてしまう。
好きなことを好きだと感じている、この感覚を大事にしたい。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/21 17:43

シューティング成仏

こういう考え方をしてみてはどうか。
感情は発散されるためにやってくる。
出来事のせいで腹が立ったり傷ついたりするんじゃない。
発散されるべく感情がやってくるのだ。
しかもそれは広い意味で自業自得。

朝起きて、なんとなく気だるい、あるいはイライラ。
そんなときはだいたいあれのせいかこれのせいかと考える。
でも本当のところ、そんなことはどうでもいい。
自分の中に今それがあるということ、そこに着目する。
そういう感情さんがやってきたのだ。
そしたらもうやりたいようにやってもらう他ない。

やらせてあげないといつまでも居座り続ける。
一度でもきちんとやらせてあげればその人は満足して消える。
不発を繰り返していると段々力をつけていく。
それは身体に良くない。
そのとき感じたことを感じたままに感じるのが一番いい。
邪魔を入れないこと。
水のようにさらさら感情が流れる。
そんな人は端から見ていても気持ち良いだろう。

自分が何に興味を持ち、何をしたいと思うか。
それはそうさせるべき因縁あってのこと。
そんなものは考えてもわかるものではない。
だから、とりあえず自業自得とだけ思っておけばいい。

したいことをする。本能の赴くまま生きる。
普通、人はそれを衝動的だと言い、どちらかというと悪とみなす。
衝動も欲望も本能も、確かに悪だが、別に悪で結構じゃないか。
欲望なんて、死ねば消える。
身体がなくなれば消えるのだ。
身体を持つ以上、それが皆無となることは絶対にあり得ないのだから、
悪じゃなくなるのは、死ぬときまでとっておけばいい。

極端な話、「世界」「自然」「神」「無限」、これらが美しいものなら、
「僕」、これは汚いもの。不完全なもの。悪。
どうせ身体が消えれば僕は消えるし、悪でもなくなる。
なら、死ぬときまでは悪じゃなくなることはお預けにしといたらいいじゃないか。
もうそれは確定した事実なのだから。

とは言っても、人間何のために生きるかというと、悪じゃなくなるためだ。
一個一個悪を外していくのだ。
自業自得でやってくる悪さん達を。
溜め込まないで、成仏、成仏。
その悪さんの最後の砦が身体だろう。
「食べたい」「寝たい」も身体がある限り逃れることはできない。
この砦がある限り、最後まで悪なのだ。
だから言ってみれば、「僕」自体が成仏されるべくやってきた悪さんなのだ。

「僕」は成仏するために生きてる。
その上で最後の仕上げとなるのが身体という悪からの解放。
ある面から見れば身体は成仏を阻む邪魔者ではあるが、
別の面から見れば、身体のあるおかげで成仏ができるとも言える。
いや最初から身体を持たなければ、
つまり生まれなければ成仏なんてしなくても良かったのに、
と言うのであれば、それは神さまに言ってほしい。
それは神さまのお楽しみなんだろうから。
でもおかげで人間としては芸術活動、創造活動ができる。
生きるということは、感情(自然)を感情(自然)のままに表現していくことだろうから。

「食べたい」「寝たい」などの欲求が悪だからと言って、
わざわざこちらからそれを克服しようとしなくても、それは最後に置いておけばいい。
それよりもまずは自分の気になることに感情を向けたり、考えたりする方がいいのでは。
何に心が動くかは人それぞれだし、それは個性。
個性とはつまり成仏を阻むものだが、それのあるおかげで成仏ができるのだから、
人間としては個性万歳というものだ。
悪だからこそ成仏することができる。
不完全だからこそ、完全を目指す道を歩むことができる。
そしてそれは死がある以上、必ず叶うことが約束された道なのだ。
歩まされ、歩む。最前線で。
歩んでいるつもりはなくても向こうから勝手にやってくる。
ちょうど(昔の?)シューティングゲームのように。
あれは「進んでいる」のでもあるし、「進まされている」のでもある。
ほっといても景色は刻一刻と変わる。
一生無感動な人なんていない。
皆常に何かについて考え、悩み、時には楽しみ、感激している。
それらは享受されるために向こうからやってくる。
享受してもらえた感情さんは満足して成仏する。

「自由」「個性的」、これらは賛否両論。
尊いと言われもし、醜いと言われもする。
ではどちらが真の自由なのか。あるいはどちらでもなく別のところに真の自由はあるのか。
「無私」こそ尊いのか、「個性」こそ尊いのか。
いやいや、別にそんなややこしい話ではなく、「自由」は一つで、そしてそれは悪なのだ。
「欲望」を悪と定めるなら、同じく「自由」も悪と定めておけばそれで片が付く。
どうせいつか悪でなくなる。それは決まっている。何年か何千年先かそれは知らないが。
なら、それまでは悪であることを許しといてあげればいい。

・・・・・・という一つの見方です(笑)
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/19 21:47

実は僕は芸術家だったんです

最近、嘘を言わない、本音で話す、ということを考えている。
だから、そういう記事を書いてみた。
でもその言葉が嘘っぽかった。からボツ。
書きたいという衝動が湧いてからしばらく時間が経ったからかもしれない。
そういうときはどうも説明口調になる。
今もそういう衝動のないままに書いているわけだが。

そこで書きたかったっことを要約すると、
人間は主体性を失っている、だからもう一度それを取り戻さなければならない、
というようなこと。
まぁ、堅いですな(笑)

他にも、人生とは芸術活動である、創造活動である、ということを書いてみた。
これもボツ。
衝動のないまま書くとどうしても嘘くさくなる。
「自分の考え」を「誰か」あるいは「自分」に発表することになる。
この「モノ感」がたまらなく嫌だ。
モノの受け渡しはやめたいものだ。
つまりはそれが「嘘を言わない」ということになるのだが。

「相手」や「自分」を認めてしまうとどうしても物の交換になってしまう。
会話のキャッチボールというのがそう。ボールの交換。
それよりも、「叩けば響く」という世界の方がいい。
相手も自分も認めず、世界ありのままでありたい。
世界の中で世界の創造に参画したい。
そこに「外」も「内」も溶ける。
「受動」も「能動」も、「運命」も「意志」も。

世界は確かに美しい。でもそれだけでは芸術ではない。
人間を介して初めて芸術になる。
世界はいつも動いている。どんなときも活動を止めない。
でもそれだけではただの自己完結的な活動にすぎない。
それが人間を介することによって芸術となる。
一旦有限を経由することによって無限が無限を知る。
それが世界の意志。
それを人間の側からみると、
生きるとは芸術活動であり創造活動なのだ、ということになる。

常に何か創っている。巧拙係わらず。
皆芸術家なのだ。大半が「芸術センスに乏しい芸術家」であったとしても。
文字の芸術家であるところの書道家だけが字を書くわけではない。
字はみんなが書く。みんな下手な書道家。

結局、芸術的美とは何だろう。
まさか自分がこんなことを考えるようになるとは夢にも思わなかったが。
芸術的な美とは自然の美が人間を通して自然のまま現し直されたものではないか。
言いかえれば、人間臭さを極限まで排除した、
混じりっけのない自然の表現。
いかに自分の「変な癖」で自然の邪魔をしないか。
だから終わりがない。
削ぎ落とすことではあるが、それは自由になっていくことでもある。
大体、個性というのものは自分を縛るものだから。
「こういう人間」観念の中から出られなくなるし。

この間宮沢賢治を引用して、それから気になっていることがある。
それも書いてみたが、やっぱりボツ。
身の丈にあってないことを書くのはいいのだが、嘘をついた感には耐えられなかった。

まあ、大体こんなこと。
賢治のあの「素直さ」「純粋さ」はどこからくるのか。
単に心がきれいだから、という問題ではないだろう。
賢治は、僕で言うところの「嘘を言わない」を徹底して
試行錯誤しながらああいう文章を書いていたのではないか。
あの気取りのない自然さは、相当苦労しながら出していたものではないのか。
彼の何がすごいかというに、心がきれいとかそんなことじゃなくて、
自然ありのままを出すテクニックに長けていたところではないか。
相田みつをさんにしても、
あの気取らない文字を書くために何回も書き直しをしていると確か言っていたし。

おそらく芸術家にはそういう自覚があるのだろう。
歌手にしても、自然の風、空気の振動などのただの音を、
自分の身体を通すことによって芸術に高めている。
いい声というのはよく身体に響かせて出す声なのだろう。
身体に力みがあったりするといい声にならないと聞いたことがある。
いかに響きの邪魔をしないか。その精進の道。

今朝ふっと思ったのだが。「童心」のいかに大切なことか。
大体、社会に合わせて仮面(という嘘)を被っていると
段々苦しくなってくる。そういうときは童心がない。
自分の心の声を聞いてみればわかる。
「ああしなければならない」「こうしなければならない」
それは外に合わせようと必死になっている「大人の声」だから。
世界が楽しくてしょうがないときはいつも「子どもの声」。
僕は男性だから女性のことはわからないが、
男性が大体社会で苦しくなっているときは男色の強い声(変な意味じゃないですよ)。
心を緩めることができたり、自分の中の幼さだったり間違いを許せることが
できているときは、女色が混じっている。
大体「すべてを受け入れる」のは母ですからね。相場が。
そういう世界でのみ弱音を吐露できる。
が、それは外に探しにいかなくても内に既にある。
この声をどれだけ大切にできるか。


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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/11 16:44
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