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道徳の授業

小学校で道徳を教えるべきか、また教えるとすればどう教えればいいのか、
ということが問題になっていると聞いたような。
(言ってなかったっけ?)
でも、こんなことは簡単なことで、道徳は教えるべきだ。
というのが僕の意見。そんなのは当たり前のことだ。

そういえば、小学生当時は道徳の授業は嫌いだった。
何を勉強しているのかもはっきりしないし、それ以前に、「あの雰囲気」が嫌だった。
皆で先生の周りに集まり、それを抱えた先生が、「みんな良い子です」というような。
僕は親に対しても先生に対しても、誰よりも「良い子ちゃん」だったけど、
だからこそ、そんな自分が嫌だというのもあって、余計に道徳の授業が嫌だったのだと思う。

道徳の授業に限らず、よく大人は子どもに向かって
「良いことをしてもらったらありがとうと言おう」と教える。
まったくその通りだと思う。
だが、果たして大人が上から言えることか。
むしろありがとうと言うべき場面でありがとうと言えないのは大人の方ではないか。
子どもは余計なことを考えずにありがとうと言う。
そんなことは大人に教えてもらわなくても言う。
むしろ大人に教えてもらって大人の仲間入りをしていくと言えなくなる。

果たして道徳とは大人が子どもに教えるべきものなのか。
何を教えるべきで、何を教わるべきか、その辺りをもうちょっと整理しないと。
道徳は必要か必要でないかなどと、道徳をあまり知らない人たちが
どれだけ議論をしたところで、そんな答えはただのヤジロベー。

なぜ大人は子どもに道徳を教えるべきか。
それは道徳が人間にとって最も大切なものであるから。
最も人間らしいものであるから。
人間は獣でも機械でもない。
だが教えると言っても、ないものを新たに植え付けるわけではない。
生まれたときからあるそれのことを、「それは大切なものなんだよ」と教えるのだ。
大切だとわからなくなったら世の中どうなることか。
それを避けるために教えるのだ。
そういうことに思い及ぶようになった者の責任として教えるのだ。

だから、ありがとうと言えと教えるのではなくて、
ありがとうと伝えたくなる、その心が何よりも大切なのだと教えるのだ。
そしてできるなら、我々大人も道徳を学ぶ一人の人間として今あなたの目の前にいるのだと。
決して、道徳マスターだからその秘訣を授けようというのではなくて、
道を踏み外さないように、己の一番大切なところを見失わないように、
と願う一人の人間として在りたいものだ。

別に不良生徒になろうと人を傷つけようと、そんなことはどうでもいいのだ。
「それは悪いことだ!」、そんなことは言われなくてもわかっている。
わかっていることを念を押してあげるために「それは悪いことだ」と言うのだ。
子どもは白紙でもなんでもない。
大人が善悪の基準を押し付けて「良識ある人間」に仕立て上げているのでは決してない。
むしろ子どもの方が善悪を見抜く目は持っている。
大人は「こういう見方もできるしああいう見方もできる・・・」とか考えるから見えなくなるのだ。
どんな罪を犯そうと、「お前は人間であることを決して忘れるな。忘れてくれるな」と
それを社会全体で説くのが本当の道徳の授業ではないか。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/28 13:22

泥棒どうぞ

良寛というお坊さんのあるエピソード。
ある夜、良寛さんの家に泥棒が入った。
泥棒は金になるものはないかと部屋を物色するも、金目のものは見当たらない。
手ぶらで帰ることができず、仕方なく良寛さんの寝ている布団を盗んで帰った。
良寛さんは布団を奪われつつも、目を覚ましては泥棒を驚かしてしまうことになり
可哀想だということで、泥棒が帰るまで寝たふりをしていた。
というエピソード。

それから、これも良寛さんだったか誰だったか、
もしかしたらエピソード自体を間違って覚えているかもしれない、
そんなおぼろげな記憶だが、あるエピソード。
ある人の家の米蔵に泥棒が入った。
偶然その現場に出くわしてしまったその人は、泥棒に向かって、
「そんなにいっぺんに米俵を運んでは疲れてしまうだろう。
 またこんな夜中に大量の米俵を運んでいては世間の人に怪しまれる。
 この米は明日私がすべてお金にかえておくから、
 また明日取りにきなさい。今日のところはもうお帰り。」
泥棒は半信半疑で翌日家に来てみると、ちゃんとお金にかえてあった、という話。

こういうのを聞くと、いや、これは馬鹿な行いだろう、と思えてくる。
そもそも宗教家なら泥棒に人の道を説くべきだ。
その泥棒を救ってあげるべきではなかったのか、とか思えてくる。
これが仏教の答えなのか。これが仏教の説く正解なのか。と。

でも、これは正解でも何でもないと僕は思う。
これはただこの人達の「性格」の問題だと思う。

「正しい行い」「正しい人間像」を突き詰めていくと、
やがて一つの答えに行きつくような気がする。
でも、そうすると「正しい人」達は皆同じようなことを考え、
同じような行いをするのだろうか、という気がしてくる。
個性がないな、と。

でも、そんなことはないのだろう。
むしろ、よくできた人ほど個性的になると思う。
良寛さんが泥棒を気遣ったのは良寛さんの優しさだ。
別に正解でもなんでもないし、正解であろうともしていない。

一般的に「高尚な人」のイメージとして、悪人には教えを説き、悔い改めさせるというものがある。
でも、これは言ってしまえばお節介だろう。
本当に高尚な人ほど己を失わないように気を付けているものだ。
ふと宙に浮いた「善悪」という観念に足元を掬われて、自己を失うことはしない。
その上で、その人の性格として、泥棒に盗ませる人もあれば、教えを説く人もあり、
問答無用に打ちのめす人もあり、そこに個性が表れる。
そして見る人はそこに親しみと尊崇の念を抱く。

高尚な人とは自分の誠丸出しの人なのだ。
俗人は自分の誠を着飾ってしまうが故に俗人なのだ。
そしてそんな俗な自分だからこそ、高尚な人に触れると
そこに聖なるものを見、思わず敬意を抱いてしまうのだ。
高尚な人の漂わせるオーラが、己を着飾らないようにとの日々の訓練から
にじみ出ているものであることをどこかで感じているからこそ、敬意を抱くのだ。
そしておそらく高尚な人同士が出会っても、お互いに敬意を抱き合い、頭を下げるのだ。
皆根っこでは俗人であるから、その人の背後に物言わぬ鍛練の跡を見、
自然と頭が下がるのだ。

大体、人に最も善い影響を与える人というのは、
「正しい人」ではなく、良寛さんのような「誠丸出しの人」じゃないのか。
そういう人に出逢ってこそ、本当に悔い改めようとの意志が芽生える。
どう悔い改めるかは問題ではない。悔い改めようとの気持ちが尊いのだ。
そんな気持ちはどんな人にでもあるのだ。ただ出てこないだけなのだ。
出てくるだけの縁がなかっただけなのだ。
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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/24 20:13

道を歩む

何が正しくて、何が間違っているか、と言っても、
そこに基準となるものがなければ、何を言っても薄っぺらい。

「こうするべきだ」「いや、ああするべきだ」
そんなこといくら言っていても、基準がなければそれは不毛な争いだ。
逆に基準があるなら、人に批判されてもそれでいいのだ。

道心があれば何が正しくて何が正しくないかが定まる。
道心とは、それに則って生きていくということだからだ。
それに反しているものは誤りであり、過ちとなる。
だから反しないように常に点検して生きていくことになる。
それがないのにあれが正しいこれが正しいと言ったところで、
それは実に軽い、フワフワした言葉なのだ。どれだけの理屈を込めようとも。

と、そんなことを考えていて、これは西洋的な神への信仰に似ているなと気が付いた。
神の是を是とし、神の非を非とする。
何を賞賛し、何を罰するかは神の定めたところに従って決められる。
ここに秩序が成立し、倫理も成立する。
清く正しく生きるべき方向が示される。

西洋で言う神への信仰というものが東洋で言う道心ということにあたるのかもしれない。
少なくとも、近いものではありそう。
キリスト教などでは道心ということは言われているのだろうか。

西洋社会において、今はどうかしらないが、神を信仰することはごく普通のことなんだろう。
皆、神を信仰している。
東洋においては、道心を持つに至るところまで行った人はほんの一握り。
「宗教家」の中でもほんのほんの一握り。
西洋では、信仰が広く行き渡っている。信仰の門の中へは入りやすい。
でも、全体的に見ればそれは浅い信仰かもしれない。
東洋では、信仰の門の中へは入りにくい。
そのかわり、入ってしまった人たちの信仰は堅く深い。

東洋には唯一絶対の神はいない。
だから、道心といっても、何を道とするかは「任意」のものとなる。
しかしお釈迦さんの最期の言葉は「自灯明 法灯明」だった。
「自らを拠り所とし、法を拠り所とせよ」と。
つまり、自=法(絶対)なのだ。
自と法がイコールで結べるようになったとき、道心の芽が出、そこに道が開かれる。
そしてその道を拓いていくことになる。

それは任意の道ではない。
それが最も自然な道なのだ。
それが最も自己である道なのだ。

人は容易に自己を手放す。
それを手放さないようにといつも鍛練することが道を歩むということなのだろう。
自己が自己に還ろうとすることに理由はない。
「それは正しいのか。それは絶対的な道なのか」といくら言われたところで、
そんなことはその人のうわ言にしか聞こえない。
その人のいう「絶対」と自分の歩む「絶対」と、どちらに実があるかは明らかだからだ。
もし真に受けてしまったときは、それを恥とする。
自己をお留守にしたことを恥とする。
それが道を歩むということだと思う。
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人生観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/23 22:00

夢の、過失の、痛いの

今日の夢。
兄が溺れていた。
なんとか助け出したがもう手遅れかもしれない。
兄が湖の中にいることは一度確認していた。
でも溺れているとは思っていなかった。
助け出してから、なぜあのとき気が付かなかったのだろうと己れを責めた。
その悲しみ。痛み。


思えば、僕がずっと抱えてきたのは「悩み」「やりきれなさ」「むなしさ」「モヤモヤ」であって、
「痛み」「悲しみ」ではない。
確かに僕にも耐え難い「悲しみ」も「痛み」もある。ここには書かないが。
でも僕の日常を占めているのは「悩み」であって「痛み」ではない。

世の中には本当に大きな「痛み」を持った人がいる。
自分の過失で我が子を失ってしまった人。
震災で家族を失った人。
その人達の「痛み」に直面したとき、一体僕はどう「ある」のだろうか。

僕は人間にとって一番厄介な感情は罪悪感だと思っている。
自分が被害者で加害者が別にあるなら問題ない。
問題ないと言っては失礼かもしれないが、
「あいつのせいで」と思える相手があるなら、それはある種まだ救いがあるのだ。
でも、自分が加害者である場合。そしてその罪から自分を傷つけている場合。
あいつのせいで、とは思えないのだ。自分が悪いとわかっているのだから。
どこにもぶつけられない感情。内向するエネルギーが心身を蝕んでいく。
これが僕の一番の「辛さ」。

でも、自らの過失で自らの「悲しみ」を作り出してしまった場合。
上の「我が子」の例のような。
責める相手がいない。自分が悪いのだから。
自分を呪う。
自分を殺したくなる。でも殺したところでそれが逃げであることはわかっている。
生きても罪。死んでも罪。どこにも生き場がない。
きっとそんな苦悶があるだろう。
それは罪悪感も同じ。
でも違うのは、それが堪らなく「痛い」ということ。
涙に直結するような、鋭い痛み。
罪悪感は、鈍い痛み。
「悲しみ」の人は「辛くはない」のだ。
「辛い」のは生きようとしている人だけ。生きるのが辛いのだ。
その点罪人は生きようとの意志があるのだ。
「生きる」のが「辛い」のだ。
でも、「悲しみ」の人は、ただただ「痛い」のだ。
どうしようもなく「痛い」のだ。
もしかしたら上記の苦悶もなく、ただただ「痛み」の中にあるのかもしれない。

そんな人がいるこの世界。
そんな人を前にして、僕は一体どうある。
そんな人がいることを知らずして、僕は今一体どうある。
そんな人がいるこの世界で、僕は今一体どうある。
そんな人がいることに思い至らなくて、人生観も何もない。
「生きたい」人生観はもう終わりにしたい。
「生きている」人生観。「ともに生きている」人生観。それだ。

生きたい。でもそれを邪魔するものがたくさんある。
「それをどうするか」。
それはもう終わりにしたい。

「痛み」のある世界。
その世界で「どうあるか」。
「どうあるべきか」ではなく、「どうあるか」。事実今自分は「どうあるか」。
そういう世界観。人生観。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/21 15:33

間抜け

この間、『反省点なし!』という記事を書いたが、
よく考えるとあれほど恥ずかしい発言はない。
「私には道心がありません!」と暴露しているようなものだから。
恥を恥とも感じない恥ずかしさ。

あそこで言いたかったのは、
僕は「何かを間違った結果、今苦しんでいるのだ」とは思っていないということ。
ただそういう流れが来ただけだということ。
僕が「正解」を踏み外した結果、その報いを受けたということではなく、
ただ、なることがなっているだけだということ。

確かに、暗くて重い波に呑まれてしまったのは僕の至らないところではあるが、
波が来たこと自体は僕の過失でもなんでもない。
押し寄せてくる水や漂流物は確かに僕が拵えたものではあるが、
「波が来る」ということそれ自体は僕によるものではない。
それぐらいの気持ちで書いた。

でも、恥ずかしい・・・。
呑まれるなよ。
それは恥だぞ。
それを恥だと感じることができない。
それは僕に道心がないからだ。
「恥ずかしいこと」ではなく「恥ずべきこと」なのだ。
自分のその至らない様を大っぴらにして、平気でそれに気付かないでいた。
そのことは恥ずかしく思う。
別に隠さずどんどん書いていけばいいが、
いばることではない。
書き方の微妙なニュアンスで、見る人が見れば道心のあるなしは一発で見抜かれる。
きっとそういう人は僕のことを責めはしないだろうということはわかっている。
僕でもある程度は見抜けるし、見抜いても別にその人のことを切り捨てようとは思わない。
むしろ多分親しみを覚える。
でも、自ら恥じるべきことだとは思う。
それくらいの道心の芽は僕にもある。
全くないのではない。ただぼんやりしているだけ。
あれは、「私は間抜けです」と宣言したようなものなのだ。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/18 21:03
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