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波の満ち引き

今朝起きたら、憑き物が落ちたように身体が軽かった。
長らく留まっていた悪い波もようやく去っていったか。
しかし、体調によってこんなに世界の見え方が違うか。
毎度毎度思い知らされることではあるが。
今も決して絶好調というわけではないが、
それでも見える景色に生気を感じる。
久しぶりに「楽しむ」ということがどういうことだったかを
幾分かは思い出せた。

生きること=楽しい。
生ということのその中に既に喜びというものが含まれている。
生命とは生かす意志。
草花を育むあの力。ワクワク。悦び。

これはもっと調子がよかったときに感じたことであって、
今はそこまでは感じていないが、その一端くらいは感じている。
これが調子が悪いと、生きること=苦行、になる。
「楽しむ」という発想がすっかり頭から抜け落ちる。
ものの考え方が丸っきり変わる。感じ方だけでなく考え方まで。
だってつい昨日と今日では丸っきり違うから。

しかしどちらが本当の自分かというと、どちらも本当の自分なんだろう。
調子のいいときと悪いときと、どちらの言葉に真があるか。
なんて言っても、やっぱりどちらも自分なんだろう。
その体調の波も含めて自分なんだろうなと思う。

100ある真理への階段のうち、1段目のときと2段目のとき、または10段目のとき、
どの瞬間の自分が最も「自分」であったか。
どの自分をもって自分の代表とするか。
やはりどれも自分なんだろう。
これから何をしようとも。どんなミスを犯そうとも。例え人格破綻者になろうとも。
それが自分であるということが自分というものを保証してくれているのかもしれない。

真理を追いかけている間は真理へどれだけ迫れたかこそが自分を測る尺度となる。
が、そんなことを超えてどの瞬間でも自分であり、また自分ではないのかもしれない。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/28 21:14

雑談

・ずっと母親から逃げている。母親というより、「母親的なもの」か。
自分を呑み込んで無に帰してしまう恐ろしいもの。
ずっとそれから逃げている。
せっかく「自分」になったのに呑み込まれてたまるかと。
またあの混沌の中に霧散してたまるかと。
甘やかされると溶けてしまう。
だから厳しさを求めた。
甘えの入り込む隙など与えずに。
それは父を求めての旅。
父を追いかけ、母から逃げる旅。

・「死ぬ前に」って死ぬのを自分の所有物にしてる。
「いつ死ぬか」、それは自分を超えている。
「このままでは死にきれない」ってまるで自分の力で生きているかのようじゃないか。


・不思議なことに、「虚無」ということの中には、
「全て」が知れてしまっているということが含まれている。
無なのに、全て。
知れてしまっているから虚しいのだ。
どこに手を伸ばしてもきっと何も掴めない。
なぜなら対象がないから。
いや単に対象がないだけならまだいい。
手を伸ばそうとするところの、自分がいないのだ。
だから何をどうあがいたところできっと何も掴めない。
あがくと名づけられるような粛然とした行為さえ起こらない。
と知れてしまっているのだ。
手を伸ばす自分の非を悟ってしまっているのだ。
その閉塞感。
だが、手を伸ばす力が弱くなっているわけではない。
「無い」という打ち消しの力が働いて伸ばす力を相殺しているのだ。
感情は滞りなく発散するべきだ。
相反する力との衝突のために発散できなかったエネルギーがどれだけ身体に害を及ぼすか。
「あってほしい」それなのに突きつけられてくる「ない」(という思い)。

国語の問題を算数の問題として解こうとするようなものだ。
計算の中身が間違っているのならまだいい。
頑張り次第で訂正も可能。
だが、計算すること自体が間違っているとき(国語の問題なのだから)、
そして自分にはその選択肢しか用意されていないと知れたとき、もはや為す術はない。
為す術はないが、それ(計算)をしてしまう自分を冷静に見ている自分もいる。
その苦しさ。
間違っているとわかっていて間違っていかざるを得ない苦しさ。
何にも触れられないのはわかっているのに手を振り回さねばならない苦しさ。
そんなぬめっとした、空気の重い世界。
しかし、手を振り回すのに疲れ、それをやめてしまったときにだけわかる、
手を振りまわさなければ掴むもの何でもある、ということ。
「ない」としたそのすべてが掴み得るものだったということ。
でも間違っているとわかっていて間違うことなどできるのだろうかとふと思う。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/22 21:01

タイトル付け難い

毎度毎度思うことだが、
「もう死のう」と思うとおかしなことに気持ちが楽になる。
楽になれそうもないから死のうと決めるのだが、
そう決めると、狙ってないのに楽になる。
そして気付く。
あまりにも生きようとしすぎていたのだと。
「生きねばならない」
その思い込みのゆえにもう生きられなくなっていたのだと。

あまりにも重いものを背負っていたのだ。
それはとても背負い切れるものではなかった。
世界の全てなのだから。
世界は大きすぎる。
世界は「ありすぎる」。
僕はこんなにも重いものを自分の身体として生きていたのか。

背負えるものではないのだ。
背負えないから、既に全体を背負えているのだ。
背負えるものではない。だから背負うことができる。
「こんなものは自分ではない」。だからこそそれが自分になるのだ。

無が怖かった。
ペンを無くすのは怖くない。靴を無くすのも怖くない。
他にも何でも、持ち物を無くすのは怖くない。
本当に怖いのは自分の立っている場所を無くすことだ。
全財産でも、住む所でも、社会的地位でも、大切な人でも、
それを無くすのが怖いのは、それらが自分の持ち物だからというのではない。
「この世界への信頼」が無くなってしまうから怖いのだ。
「自分に限ってそんなことは起こり得ない」
その信仰を打ち砕くのが「無」だ。
「この世界に秩序はないのではないか」
「この世界は無慈悲で無情なものなのではないか」
「自分が何をしようとしていなかろうと、
そんなことと世界とは何のリンクもないのではないか」

それが怖かった。
だから逃げた。必死で逃げた。
生きたい。生きたい。
そうしてもう何十回目か、もうそれ以上は走れなくなった。
それで諦めてもう終わりにすることにした。

世界は違って見えた。
どうせもう死ぬのだから何も恥ずかしがることはないか、と。
些細なことなんてどうでもよくなった。どうせこれから死ぬのだから。
でも、これも何回目か、ふと気が付いた。
死のうと決心しようとしなかろうと、どうせ死ぬということに何も変わりはないのだと。
死のうとした人にだけ死がくるのではない。
生きたいと願う人もどうせ死ぬのだ。
「生きたい」と願っている間は「死は来ない」とどこかで思い込んでいる。
それが、決して失いたくないとする「世界への信仰」。
生きたいと逃げている間、死は観念上のものにすり替えられるのだ。
だがそんなことをやっているその人もその内死ぬのだ。現実問題として。

自分はどれだけ生きようと走り続けてきたか。

だが、

死ぬのだ。

ほんの束の間でも夢が破れたときに気付く。
自分がどれだけ生の亡者であったかと。
自分がどれだけ決して背負えるものでないものを背負おうとしている者であったかと。

無が怖い。
でも世界は「有りすぎる」。
とてもこの手では掴み取れないくらい。
とても背負えるものではないくらい。
そうとわかれば、無とは全てのことだったのだ。

この肩で担える責任なんてたかがしれている。
すべてのことに対する責任なんてとれるわけがない。
そんな無理なことをやろうとすると、いつか責任に押しつぶされてしまう。
だが、押しつぶされるから、全てを包むことができる。
背負う身体を無くしてしまえば全てが自分の身体となる。

未知のものは怖い。だからすべてを既知にしようとする。
でも、自分なんかにカバーできるものはたかがしれている。
この世界は自分にカバーできないもので溢れているのだ。
だが、そんなむなしい努力もやめてしまえば、
未知というのはそのまま自分の可能性と言い換えることができるのだ。

こんなことを言いつつまた夢を見始めている。
死ぬのを保留にし、やがてまた生きようとし始める。しなくていいのに。
そしてまたその内こける。
何のために走るのか。きっとこけるためだ。
こけて自分というものを思い知るために走るのだ。
でも、それに付き合ってられなくなって、そこに悪い運が重なったとき、
きっと僕は死ぬ。
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つぶやき | コメント(8) | トラックバック(0) | 2014/07/20 18:17

二つの問題

苦しみとは何か。
何なのだろう。

生きるのが辛いと。
辛いと感じさせるものがある。
そういうとき人は当然それから脱しようとする。
原因を排除したり、こちらが変わったり。
辛いから頑張る。辛いのは嫌だから。

でも、別の問題として、「どうせ死ぬ」という問題もある。
生きるのが辛い、だから何とかして辛い思いをしないで生きたい。
そのために頑張る。頑張って生きる。
自分に鞭打ったり、良い暗示をかけてみたり、気分転換したり、
元気になれるものに近づいてみたり、「生きる」テクニックは色々ある。

でも、それとは別に、「どうせ死ぬ」という問題がある。
「頑張って生きる」けど、「どうせ死ぬ」。
生きたいがためにああだこうだと試行錯誤し、問題の解決を図る。
だが、そんな奮闘をしている自分が死ぬという問題が別にある。
前者は「自身の抱える問題」、後者は「問題の中に収め取られている自身」。
前者は持ち物。後者は所属。
持ち物に問題がある場合、満足を得る方法はいくらでもある。
だが、その満足を追い求めている自分の所属が曖昧であるというのは、きついことだ。

これはただ整理のために書いているので、今は希望のあることはあまり言えない。
ただ、ここで言っている「後者」は極めて主観的な問題だということは言えそうだ。
主観的。だから考えないのが勝ち。
でも、僕がそうだからよくわかるが、「後者」のような人には絶対にこの言葉は通じない。
むしろ、忌避される。
でも、結局落ち着くとしたら、一周まわってそういうところだろうと思う。
考えるなとは言わない。言われたところでやめられないのもわかっている。
でも、落ち着くところはきっとこういうところだろうと思う。
僕はまだその途中だが、そんな風に思う。

やっぱり人は、より良く生きるべきなのだ。
なぜか。
そう決めたから。それを良しとすると。
善悪正邪の基準を定めたからあらゆることの価値を測ることができる。
何がプラスで何がマイナスか。
それは自分の基準次第。
その基準を定めるのは間違いなく主観。任意。
でも、必ず、人はその任意の決断に落ち着くものと思う。

高い視点に立って見てみれば、
客観や真実にこだわりすぎて主観に立てなかった人が、
「後者」の問題にからめとられることによって、
やがて主観に立てるようになって帰ってくる、
と言えると思う。
要は、「自分である」ことができるようになるのだ。
絶対も普遍も神も、そんなものに頼ることなく。
自分だから、自分でいい、と。
正しいか正しくないかは自分で決める。

これは完全な無神論者のようにも見えるがそうではない。
この人にとって神はどこにいるか。
「誰もが必ず主観に帰ってくる」というそこにいる。
どういう道を歩んでも、人は必ずそこへ向かって進んでいく。
そういう風になっている、という設計者という意味での神。

もう一つは、完全に主観でいられるということが、
すべてが他から与えられているものだ、というところに立たねば不可能だというところ。
100%の主観は100パーセントの客観に立たないと無理。逆もまたしかり。
その辺の説明は今の僕にはまだ無理。

すべてが神から与えられているという完全な受動と、
すべては自分の選択であるとの完全な能動が、
同じ事態をそれぞれの方面から見たものであると言えるようになったとき、
人は必ず「より良く生きる」を旨として生きることを決めると思う。
そこで、「前者」と言っていた問題、つまり生きる上での様々な困難、に対して、
被害者としてではなく、自ら積極的に参加していくことになる。
その上で、自己暗示だったり気分転換などのテクニックが必要になってくる。
なぜそうするのか。なぜそうして生きるのか。と問われれば、
「そう決めたから」。
でもそれは自分が勝手に決めたのではなく、ある種の必然。
決断したのは自分だが、その決断は必然でもある。
という構図。

僕自身のことで言えば、僕はずっと「どう生きるか」ではなく「なぜ生きるか」を
問題としてきた。
どう生きるかなんてどうでもいい。
それは「生きる」と決めた後の話だ。
生きると決めたなら生きるにあたっての問題もあるだろう。
でも、僕は生きると決めたわけではない。まだ生きるということに納得した覚えはない!
という感じだったが、結局一周まわると、
「どう生きるか」こそが問題になると思う。
「なぜ生きるか」は「不安定で堪らない!」という訴えに言いかえることもできるだろう。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/14 23:08

間違い論

なんか、間違ってたな、と昨日思った。
最近の自分が。
苦しいときというのはどこかに無理があるということだし、
きっとまた間違っているんだろうなとは思いつつ、止まることができなかった。
本当に面倒なもので、人間はこけてしまうまで止まれないらしい。
あらゆる努力が走るために費やされる。
止まろうとする努力でさえも。

そんなこんなで、昨日になって、やっぱり間違ってたなと気付いた。
どこがどう、というよりも、姿勢が。
それで、昨日はわりと平和に過ごすことができた。
自分が平和でないときは世界までも平和でないように見えてしまう。
平和を実感できるのは1年間に数日しかないんじゃないか、とか思ってたけど、
確かに、今日はもうやや平和ではなくなっている。
また走り始めている。
だから、またその内、(数ヵ月後か?)こけることになる。
その繰り返し。
その過程をあえてここで披露することになるのだが、
間違いだけを披露しても申し訳ない。
だから、ここ最近間違えていましたと、一応申し添えておく。
そこまでで1セットだから。

ただ、これがまた自分を惑わせることになっていくのだろうとは思うが、
今後の自分のために一応書いておく。

やっぱり、自分を足場にしては駄目だな。
自分を超えたものに心を開かなくてはならない。
自分を足場にしていては自分を超えたものには出会えない。
結局「こける」ということが自分の外から与えられたものであるから、
そういう意味では大いに自分を足場にして結構なのだが、
それでも、方針としては、「駄目だ」。

どういうとき、「地獄」から「平和」へ移ることができたか。
どういうとき、「平和」からまた「地獄」へ流れて行ったか。
これは完全に、「自分を超えたものに心を開いたかどうか」が鍵になっている。
神にしても仏にしても、自分を基点にアプローチしていっても永遠にたどり着けない。
それゆえ何年も苦しかったのだ。
自分を離れることができれば、途端に世界が平和になる。

だが、簡単にその「離れ方」を忘れてしまう。
今も既に見失っている。
「その間違いを正そう」という気になっているのがその証拠だ。
本当は「間違って、こける」それでいいのだ。
だが、それをよくないことに感じている。
これが一つの指標になる。
もうちょっと言ってやれば、
「離れ方」にこだわろうとしている時点で、既に走りだしている。
「ああかな、こうかな」と。
本当は「ああでも、こうでもいい」のだろうに。
正解は経験上知っている。
だが、それが本当の正解として活きてくる瞬間がほとんどこない歯がゆさ。
いや、この歯がゆさも不純なものか。
また自己完結の世界に入っている。
本当は世界は平和なのに。

この段階でなら、まだ強引に「自分を離れる」考え方にシフトすることは可能だと思う。
ちょっとコツはつかんでるから。自分を操作していく。
だた、それをやるかどうかはちょっと微妙だな。
やっぱり神棚とかお内仏があるのが一番いいのかもしれない。
シャンとする瞬間。シャンとする場所。
自分でシャンとしようとすればするほどできなくなるから。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/13 22:47
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