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内と外

内と外。
呑み込みと吐き出し。
僕は結構これにこだわっている。

自分にないものを探す。
足りないものを探す。
あれさえあれば。ああなっていさえすれば。
あれができるようになりさえすれば。
あれがわかるようになりさえすれば。
自分の人生もっと変わるのに。
という呑み込み。
それがないがために今自分は幸福ではないという。
現状を肯定できない理由を自分の欠陥に求める型。

それと
これさえなければ。
あんな出来事さえなければ。
こんな環境にさえいなければ。
という吐き出し。
自分には今自分を幸福にさせない余計なものがあるという。
こっちは肯定できない理由を自分の汚点に求める型。

前者は内に取り込む方向で、後者は外へ吐き出す方向。
だが、厳密に言えばどちらも「外に合わせる系」。
置かれている環境なり人生なりに対して、こちらが合わせていく方向。

そういえば、人生訓やことわざには矛盾するものが多い。
「あるがまま」とか「受け入れなさい」とか言ったり、
「諦めるな」とか「屈するな」とか言ったり。
スピリチュアル系とか宗教系ではわりと「抵抗するな」ということを言うか。
他力とか「おまかせ」とかもそう。己の意志で大いなるものの働きを阻害するなと。
これは外に合わせる系。

キャリア系の自己啓発ものだったら、「諦めなければ夢は叶う」とか言う。
「主体性を持て」「自立心を持て」「自分を譲るな」とか。
これは外を操作する系。
外のものに合わせるのではなくこちらが主体的に介入していく。

どちらが正しいのか。
どちらの言い分も正しく見える。
時に応じて、と言うのは結局何も言っていないのと同じだろう。

確かに、受けいれでいうと、
いつまでも現実を見ないでいるのはよくないように思える。
現実を引き受けねばならなくなるときもある。
だが、反対に負けを認めるのは妥協ではないかと思える場面もある。
簡単に諦めず頑張った方が得られるものが多いのでは、と。
やはり引き受けも大事だし、反発していくのも同じく大事だ。

僕もブログで両方書いている。
「なんでこんなに自分の感情を無視していたんだろう。
 もっと肩の力を抜いて受け入れればよかった」とか。
「好きなようにやられていた。主体性を手離してはいけない。
 もっと反発、奮発していかなくてはならない」とか。
一体引き受けるのか反発するのかどっちなのか。

でもこの種のどちらも正しいが相反する二つの人生訓も、
要は使い手次第なのだろう。
矛盾としか受け取れないならそれは力量不足ということになるのだろう。
この二つは実は同じことを言っている。

だいたい追い込まれているような状況にある人は、
「もっともっと、こんなものでは駄目だ。もっとちゃんとしなくては」
という外に合わせるモードになっていると思うが、
そういう人にも訪れるほっとする瞬間。
そのときの言葉は大体
「なんでこんなにがんばっていたのだろう。こんなに頑張る必要はなかった。
 自分は自分のままでよかったのだ。何を気にしていたのだろう。
 もっと自分を大切にするべきだった」といったところだ。
ちなみにそこに何らかの真理を見た人が「あるがまま」という言葉を流行させていく。

「もっともっと」と膨れ上がっていた自我が何らかのきっかけに出会うことによって
「ふぅー」という脱力と共にしぼんでいき、「元のサイズに戻る」。
呑み込み系で頑張ってきた人が「吐き出し」に転じたとき束の間の救済が訪れる。
そして不思議なことに、大体こういうときその人は、
現実を受け入れていると同時に、主体的でもあるのだ。
自分の意図やはからいを手離すことによって、かえって「自分」という意識が鮮明になってくる。
おそらく主体的であり、イキイキとした生命力のようなものが人間の性としてあって、
それが余計なものがなくなることによって目覚めてくるのだろう。
僕がたまにブログで書く「ちくしょう」とか「なめやがって」という言葉は、
現実を否定する言葉ではなく、現実を一旦吐き出して距離を置き、
現実からの「呑み込まれ」(主体性を奪われる)を回避した上での、
現実の受け入れなのだ。一旦距離を置くことによって精神が躍動する。
これでは説明になっていないだろうが、
現実を引き受けることと主体的であることとは矛盾しないのだ。

だが、吐き出しによって救われた人も、その救済期間が終了すると、
その人の語る「吐き出し」という言葉の内容は実は「呑み込み」に転じている。
「あるがまま」という名の現実否定。「自分らしく」という名の自分否定。
「あるがままであることによって私は救われるのだ」というしがみつきは、
紛れもなく「外に合わせる系」。また自分を偽り始めている。

なぜこんな文章を書いたかというと、昨日ふと、
「自分の内でもなければ外でもない。
 が、確かに自分の内にあり、また外にある。
 これは呼吸そのものだな」
と気付いたからだ。
内に取り込む(引き受ける)のが正しいのか、外へ出す(主体的である)のが正しいのか、
どちらが正しいのかと考えたときに、
これは丸っきり呼吸だなと気が付いた。
吸うだけでも吐くだけでもなく、両方揃って呼吸となる。
空気を吸って自分の身体を充実させるが、空気は自分ではない。
だが確かに自分の内にある。

人間とは呼吸する生き物だ。
というか、呼吸こそが人間のすべてではないかとさえ思った。
「どちらが正しいか」を求めると一つのことしか目に入らなくなり、
人間を点で捉えることになる。
が、人間は呼吸する生き物だ。点ではない。波だ。
その人間の捉えどころのなさ。実体のなさ。本体のなさ。
内にあって外にあって。生があって死があって。
空気が入って生き、空気が抜けて死ぬ。
無限から有限が生まれ、やがて無限へ還る。
生だけが人間ではない。波の中に人間がいる。
う~ん、どう説明していいかわからない。
というか何を言いたいか忘れてしまった・・・。

人間いかに生きるべきかと問うたとき、
禁欲・知足という発想もあるし、自由に好きなことをして生きるのがいいという発想もある。
これはどちらも正しい。
だがこれはどちらも正しいとわかる人にのみ有効なことであって、
どちらかしか見えない人にとってはまったく(と言っていいだろう)役に立たない。
この言葉の本来の重みを引き出すことはほとんどできない。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/29 23:00

奴隷のススメ

おそらく今の僕に一番必要な言葉。
「自分の殻から抜け出せ」。

殻に閉じこもっていることはわかっている。
し、「殻」と認識している以上、当然出たいと思っている。
だいたい、「殻」という表現は悪い意味で使われるから。
でも、出られない。

どれだけあがいても、殻、枠、壁に触れない。
その覆っているものに触ったことはないのだが、
自分が何らかの空間の中に閉じこもっていることはわかっている。
せめて触れたらそれを手掛かりに踏ん張ったりもできるのだが、
触れない以上、何をしても空振りに終わり、やがて萎える。

萎えると言っても、萎えっぱなしではない。
人間の身体はどこまでも生きよう生きようとするから、
そのうちまた気力が充実してくる。
が、それをぶつける先がないから(触れないとは対象がないということ)、
発散できなかった生命力が内向して身体を傷つける。

この鬱々とした感じ。
自分のことを言っているのだが、これは「現代の特徴」と言ってもいいと思ってる。
現代で何が問題となっているかを挙げて、
その上位のほとんどはこれに関係してるとさえ思ってる。
まあ、僕がランク付けするわけだが。

みんな出たいのだ。殻から。
「昔はよかった」のは、昔はエネルギーを流す対象があったからだ。
吐き出し口がなければエネルギーは鬱滞する。
鬱滞が続くようなら、やがて作りだされるエネルギー量自体が減少する。
生きる力をなくしてしまう。

草花でいうと、根が枯れてしまうというところだろうか。
土から栄養を吸収できなくなる。
栄養がなければ、伸びんとする力も湧いてこない。
草も人間も同じ。

栄養とは味。
人間も根が枯れると何物の味も感じなくなる。
何を食べても味気なく感じるようになる。
「適量の栄養素を摂りなさい」とか皆言うが、僕はそんな信仰は持たない。
どんなに栄養を摂っても、味を感じなければ健康であれるはずがない。
栄養素が人を生かすのではなく、味が人を生かすからだ。

人は物質によって生かされるのではない。
己の精神によって生きるのだ。
己の生きんとする力を生みだすために食らうのだ。
食らうから味を感じる。
摂っていても味は感じない。それではただ生かされるだけの人形。

味はどこに存在するか。己で食らうところにある。積極性の中にある。
この主体性を手離してはいけない。
が、生きていると段々消極的、受動的になってくる。
色んなものを気にし、色んなものに合わせるようになる。
色んな価値、良い悪い、そんなものを気にするようになって、身動きが取りにくくなる。
人が決めた良い悪い、人が決めそうな良い悪い、そんなものに合わせるようになって、
つまり「人間らしく」なることによって、生きんとする一個の生命ではなくなってしまう。
何が己が生命力を妨げたか。何がその力を押さえつけたか。
己が観念だ。それを指して「自分の殻」という。

何が正しく何が間違っているか。何に価値があり何に価値がないか。
そんなものに答えはない。
答えがないからずっと殻から出られない。壁に触れない。
触れないからイライラする。触りたい分だけイライラする。その気持ちの分だけイライラする。
触れなかった経験を重ねると段々触りたいと思うこと自体を諦めるようになる。
経験を重ねなくても、「絶対の正解なんて自分にわかるものではない」と
皆どこかでわかっているから、段々あがく手が重たくなってくる。
本気であがくことができなくなってくる。
イライラの及ぼす身体への害が許容量を超えると気持ち自体を抑える方にシフトする。
そして生まれるのが無気力人間(僕)。

価値など自分で作っていくものだ。
己を操っていくような、己を主導するような価値など本末転倒。
あくまでもこちらが主体。
良いか悪いかは自分で決める。
というか皆それぞれ好き勝手に決めている。
その決めた価値を「自分由来」と思えるかどうかが肝要。
皆「普遍的な価値」を求めるから殻に閉じこもることになり、やがて鬱になる。
「人と人とがわかり合う、通じ合う」を目指す人が
実は自分の殻に閉じこもっているのだという皮肉。

なぜ誰もが納得する言語を話そうとするのか。
それは裏を返せば、「自分」ではいられない弱さの表れではないのか。
人からの保証なしでは自分ではいられないという弱さではないのか。
だがそれをここで断罪するなら、それはただの「価値」の奴隷。
「正しさ」の奴隷は「弱者」を切り捨てることを生きがいとする。
「弱さ」とは何か。何を「弱い」と言うか。「自分は」何を「弱い」と言うか。宣言するか。
また、何を「良い」と言うか。何のために言うか。言ってどうするか。
これは決していわゆる精神論ではないし理想の話でもない。
「意志」の話をしているが精神論ではない。
「こうするべき」といっているが、理想を語っているのでもない。
それらは奴隷のススメだから、むしろそれとは反対のことを言っている。
そうかと言って、「これは完全に僕の価値観だから気にしないで下さい」と言うのでもない。
むしろ僕の価値観なのは当たり前なのだから。
その辺の説明が難しい。


何を書くか決めないままダラダラ書いてたら意外と長くなった。
後半ちょっとニーチェを意識した。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/26 23:46

輝けなくなった星

今読んでいる本。
ニーチェの自伝のようなもの『この人を見よ』。
それとパウロ・コエーリョの『ベロニカは死ぬことにした』。
どちらもまだ途中だが、とりあえず思うことを。
僕にとっては、同じことを訴えかけているように感じられる。

が、文章を書こうとしてもうまく書けない。
まとまらない。書きたいことが多すぎるのとまだはっきりしていないのと。
気力があれば何回かに分けてポツポツ書いていこうかなと思う。
一応あらかじめ言っておくと二つの本に共通している思う
(今僕が一番はっきりさせたいと思っていることでもある)のは、
このブログでたまに使う言葉でいえば、「精神力」ということ。
あとそこから派生して「人間的な情を断つ」ということ。
といっても「ガンバリズム」とか「ストイック」とかとは関係のない話なのでご安心を。

まず『ベロニカ』について。
何気なく手にとって読んでみたのだが、驚いた。
ついこの間『知れてしまっている』という記事を書いたところで、ベロニカのあの独白を聞いたから。
特にこの辺のところがすごい。
『そのうち、わたしも馴染みのバーやナイトクラブに通うようになり、世界の不公平や問題について話し、映画館に行き、湖の周りを散歩するようになるだろう。・・・』
から始まる、これから自分はこういう人生を歩む『だろう』の羅列。
恋人もできるだろう、結婚もするだろう、子育ても順調ではないがなんとかやっていくだろう、と。
一部取り上げるならこんな感じ。

『そんなある日、旦那が初めて愛人を囲って、わたしはたぶん、看護婦の叔母さんみたいに思いきり騒ぎ立てるか、また自殺するか考えるだろう。でもその頃には、わたしももう、年をとりすぎて、臆病になって、わたしの助けを必要としている二、三人の子供がいて、全てを捨てる前に、彼らを育てて、この世界で居場所を見つけてやらなければならない。わたしは自殺しないだろう。わたしは癇癪を起こして、子供たちを連れて家を出ていくと脅すだろう。全ての男たちのように、わたしの旦那は負けを認めて、わたしを愛しているし、もう二度と浮気はしないからと説得するだろう。』

念のために書いておくがここで言っている「旦那」とはまだ出会ってもいない架空の人のこと。
そんな架空の人とこれから送るであろう日々の想像。
あともう一つ断っておかねばならないのは、抜き出した部分がそういう印象が強いだけであって、
これは別に被害妄想ではないということ。
ベロニカは別に「これからの人生辛いことしか待っていないわ」と言って悲観的になっているのではない。
辛いこともあるだろうし、楽しいこともあるだろう。充実した人生だろう。やりがいのある人生だろう。
さまざまな困難に出会うだろうし、その度自分はボロボロになるが、乗り越える度に一回り成長している。
そんな人生が待っている。
そんな先の知れた人生が待っているくらいなら
『まだ勇気があり、死ねるくらいに十分健康であるうちに、今ここで全てを終える方がいい』
という悲観なのだ。
今までの経験上、これは多分同じ感覚を持つ人にしかわからないのだろうと思う。
そこで悲観に繋がる理由が。
普通それらは「辛いこともあった。楽しいこともあった。色々失敗をして色々学ぶことができた」
とプラスに作用する要素なのに、ベロニカにとってそれは「知れ切った味気ない事実」でしかないのだ。
まだ経験していないにもかかわらず、もう経験したような事実なのだ。
どんな想定外のイベントも、知れ切っているのだ。
僕の言葉でいえばだが。
だから、僕にとってベロニカのこの一連の独り言はものすごく生々しく聞こえる。
これから自分の身に起こるどんなイベントも、死の前には無意味、という虚無感。

といっても当然ベロニカがただ悲観しているだけの物語ではない。
この後色んな人に出会い、色んな考えに出会っていく。
まだ最後まで読んでいないが、多分そういう話。
多分テーマになっているのは「狂う」ということ。
そして印象的な言葉、『隣の人の邪魔になるとか考えるのはやめなさい』
この辺りのことが「人間的な情を断つ」と言ったところ。
別に無感情になれという意味ではなくて、
簡単に言えば「世間体を気にするな」と受け取ってもらってもいい。
世間体を気にするのはなぜか。空気を読むのはなぜか。
なぜ「おかしなこと」を言えないのか。
なぜ変人、狂人と思われたくないのか。
なぜ正しくあらねばならないのか。
なぜ人にはいい人と思われたいのか。
なぜこの場ではこうするのがマナーだろうかなどと考えるのか。
なぜ人にはやさしくしないといけないのか。
なぜ人を傷つけてはいけないのか。
理由は簡単なようで、でもよくよく考えてみると難しい。
「人間的な情」とはそれのこと。
暗黙の了解としているようなそれ。場の圧力とか。
『ベロニカ』で問題としているのは多分それじゃないかと思う。

で、多分ニーチェもそれを意識している。
ニーチェについて一番書きたいのはニーチェ自身の言葉でいえば
「生命力」とか「活力」ということについてだが、それは今回は疲れたのでまた今度に。
今回はちょっと想像してみたら面白かったこと。

この自伝を見てまず驚いたのが、章のタイトル(笑)
「なぜわたしはこんなに賢明なのか」
「なぜわたしはこんなに利発なのか」
「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」
中身をみても、この人はどれだけ自尊心が強いのか、
こんなに堂々と自分はいかにすごいかということを書く人間が実在するのか、
というどう受け取っていいのかわからないような印象を持ってしまう。
この人は本当に自尊心が強い人なのだろうか。
というか、自尊心が弱すぎるからこその見栄の塊のような人なのか。
それとも別の狙いがあるのだろうか。
そこのところはちょっとわからない。
でもちょっと「あり得る」候補として想像してみて面白かったのは、
僕の中ではニーチェは人間的な情を断とうとしている人になっているから、
ニーチェはただ周りなど気にせずに思っていることを正直に書いただけなのでは、
ということ。
ここまでひどくはないにしても、きっと誰もが心の中ではこんな汚いことを考えている。
人よりも自分の方が物事をわかっていると思うし、周りは皆馬鹿に見える。
すべての点において自分が優れているとは思わないにしても、
「何かしら一つ」の点において、「誰にも譲れない」一つの点において、
「密かに」自分は優れていると思っている。
「何も優れたところはない」という点で自分は特異だと思っているパターンもよくある。
口には出さない。
なぜか。それを言うことはタブーだから。そんな自分だけの秘密。
そこに賭けている。自信の最後の砦のようなもの。
それを手放すと自分が自分でなくなってしまいそうなもの。
そんな自分の芯のようなものは口には出さないし、出せない。
まあ、そんな芯に限らず、自分の方が優れているという誰にも言わないが
内心では皆思っていることをニーチェは(わざわざかどうかはわからないが)書いた。
それをパッと見「この人変わってるな」と思ってしまうというのは、
それだけ僕らが常識に囚われていることの証拠でもある。
そういう風にニーチェが、自分がすごいと思っているからすごいと書いただけ、
なのだとしたらちょっと面白いなと思った。
どんな批判にも屈しないほどに「完璧な自分」だから書いたのではなく、
また誰にも理解されなくても「本当に」自分はすごいのだとの信念があるから書いたのでもなく、
すごいと思うからすごいと感想を書いただけ、なのではないか。
違うと言われたら、「はあ、そう思いますか」と。

ではなぜそれはタブーなのか。
社会生活が・・・そんなのは当たり前すぎるので別の観点から。
やはり人間的な情だ。場の圧力とか、嫌われたくないとか。
あとは「間違いを犯せない」からだ。
皆自分が正しいとは心の底では思っているのに、
「でも、実際のところどうなんだろう」「思い込みに過ぎないかもしれない」
「主観に過ぎない」と知っているから、それを堂々とは口に出せないのだ。
特に公の場では。
皆自分が主観から離れられない存在に過ぎないことを知っている。
だから「本心」が言えない。
その証拠に子どもは平然と自分のすごさをアピールする。しかも嬉々として。
そのすごさが「まやかしであるかもしれない」とは考えないから言える。
知恵をつけると考えてしまうから言えなくなる。

この構図。
自分が主観に過ぎない、一つの点に過ぎない、
どれだけ手を伸ばしても世界すべてを手に入れることはできない、
世界そのものになることはできない、
どれだけ絶対者に憧れても相対者に過ぎない、という構図。
全体の中のたった一つでしかない。
宇宙に漂う星の一つに過ぎない、という構図。
ニーチェのやろうとしたのはこの構図からの脱却だろう。
単に「神」だけの問題ではない。
「本心」が言えないことからの脱却、の問題でもある。
かつて一つの星が「自分は特別美しい」とふれ回っていたが、
やがて似たような、それでいてそれぞれユニークな星がいくつもあることを知り、
もう以前のようには輝けなくなってしまった。特別でも何でもないのだから。
優れても劣ってもいなくて、「皆同じ」なのだから。
そんな星の救済の問題。

で、ニーチェが言ったのは、本人がどう言ったかは忘れたが、
「世界を自分の好きなように、自分の都合のいいように解釈したらいいじゃないか」
ということ。
星の例で言えば、「自分を中心に宇宙が存在するのだ」ということ。
普通にこれを受け取ったら、とんでもないことを言ってるように思える。
でもそれがまた常識に囚われている証拠でもある。
「自分勝手に解釈してはいけない」
「『解釈』では正しくない。『事実』が知りたい。少なくとも安易に断定はできない」
などと考え、抜け出せない世界に沈み込む。
ニーチェが言っているのはその世界からの脱却。
あれも正しくこれも正しい。絶対的な観方はなく、観る場所によってものの正しさは変わる。
「その中で色んな観方をしていきましょう」ということでもなければ、
「無限に問うていく、この問うということの中で生きていきましょう」ということでもないと思う。
あくまでも脱却。
「好き勝手に決めつけたらいいじゃん」と。
決められない人に決めろと言う。問う人に問いをやめろ答えを出せと言う。
決められないのは「正しさ」を軸に生きているからだ。真理を追っている。
真理を追っているからこそ、決めたいのだが、それゆえに決められない、というフラストレーション。
でもそれは真理を追っているからだ。「絶対なんてない」と口では言いながら、期待している。
いわば中途半端。これを徹底させると「正しさ軸の生」から外れる。
だから、「何でも言える」。
例え、「間違っている」と批判されても、腹を立てるかどうかは別として
「ああ、そうですか」という話になる。
間違っていたら間違っていたのだろうしそうでなかったらそうでないのだろうと。
「間違ったことを言ってはいけない」という強迫観念から解放されているから。
その強迫観念が「神」とか「世間」とかいわれる「人間的な情」。
理想の話ではなく責任の所在の話だが。

ふう、疲れた。思っていたよりもずっと書いてしまった。
疲れたので今後も書くかどうかはわからない。
とりあえず書くとしたら、ベロニカは、僕の言葉だが、
「宇宙の中の一つの星に過ぎない」という構図に呑み込まれて
人間としての生命力をほとんど失ってしまった。
輝けない星になってしまった。
それが再び精神(内から発する光)を輝かせるようになっていく、という話(じゃないかと思っている)
ということと、
ニーチェが言いたいのもこの生命力の大切さだろうということ。
観念ではなく、もっと身体的なニュアンスでの「生命力」。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/15 17:40

弱虫

・苦しい、というのを受け入れてしまっている。
苦しいというのを飲み込んだ上で、どうすれば楽になれるか、と。
「苦しい」という言葉が出てこない。そのおかしさ。異常さ。
当たり前のこととして受け入れている。
叫んでも良かったのだ。ちくしょう!と。
なのに当たり前のことにしている。
主体性のなさ。
現実から一歩引いて生きている。
諦めている。自分の人生を生きるということを。
生きるということさえ「合わせている」。
仕方なく生きているだけ。
自分の人生だという実感がない。
そういう時期もあったがもう手離してしまった。
とても敵わぬ敵に出会ってすっかり魂が委縮してしまった。

・罪悪感、責任感。責任感の強い人はうつになりやすいと聞いたことがあるが、
それはわかる気がする。
責任感という名の弱さ。
あまりにも「人間的な」情。
罪悪感も責任感も“飲み込み系”だ。
主体性の放棄。
行きつくところまで行くと、「自分が消えれば」となる。
「知ったこっちゃねぇ!」と叫ぶ自由もあるのだ。
そこに精神が輝くのだ。
別に滅茶苦茶やっても良かったのだ。
人を殴ろうとも。犯罪を犯そうとも。悪人になろうとも。
「そんなもの知ったこっちゃねぇ!お前らにとやかく言われる覚えはねぇ!」
そう言う自由はあったのだ。
それをまた忘れていた。

・生きることが罰になっている。
死ぬと罰から逃げたことになる。だから生きている。とも言える。
ちゃんと罰を受けています。甘んじて受けています。
誰も笑って生きてなどいません。ちゃんと苦しんでいます。
毎日毎日死にたいと思いながら、「それでも」ではななく、「だからこそ」、生きています。
死にたいからこそ、苦しいからこそ、罰として死なずに生きています。
こんな人のどこに主体性があるだろうか。自分の人生という意識があるだろうか。
僕はちゃんと苦しんでいます。見て下さい。
ほら、僕はこんなにも可哀想な人間ですよ。
こんなにも惨めな人間ですよ。
まったく哀れですね。自分で自分の人生を滅茶苦茶にしている。
ちゃんと自分で自分を罰していますでしょう。
という誰に対してかもわからないアピール。
結局はそうやって身を守ろうとしている。
身を傷つけることが守ることになっている。
でもそれは弱い者のとる手段だ。
苦しみを飲み込んでしまった者の。魂の委縮してしまった者の。
まるで亡霊のようだ。
人間であることを忘れてしまっていた。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/08 22:59

知れてしまっている

知れてしまっている。
知らないからワクワクできる。
知ってしまうとワクワクできない。

子どもの頃、早く大人になりたかった。
漠然とした大人への憧れ。
未知の世界。
探検・冒険感覚。
自分の世界を切り拓いていく。

でも、大人と言われる年齢になってみると、なんだこんなものか、という感じだった。
子どもの世界と何も変わらない。
自分を待ちうけている輝かしい未来があると思っていた。
これから何でも自分を待っているものがあると。
でも、あと待っているのは死だけだった。

人生というのは進めば進むほど開いていくものだとずっと思っていた。
でも、それが死という一点に向かって閉じていっていたのだと気付いた時、
人生観が根底から覆った。
これから楽しいこともいっぱいあるだろう、もちろん辛いこともある、
でもそれら含めて人生じゃないか、面白いじゃないか、そう思っていたけど、
でも、そんなことをやりつつもどうせ死ぬのだと思ったときの虚無感。

先が知れてしまったのだ。
楽しいことをする、辛い思いもする、幸せで満ち足りるときもあるだろう。そして死ぬ。
これから自分に起こることが知れてしまった。
色んな思いをして生きて、最後には死がある。
その経路が知れてしまった。
知れてしまうともう楽しめない。
知っているから。
知らないからワクワクできる。
何を見ても、どこかで見たことがあるようなものに見える。
見たことがなくてもいずれどこかでまた見るだろうものに見える。
何を見ても知れてしまっている。
新しい何か、がない。

不思議だ。
この世のすべてをみたわけではないのに、すべてを知った気になっている。
きっと、「あとは死ぬだけだ」との思いからだろう。
なんやかんや言っても、最後は死ぬ。
それは誰もが同じ。
そこが知れてしまっては、それまでのどんなことも大したイベントには感じられない。

この「知れてしまっている」との思いが世界を味気ないものに感じさせる。
それがなければ世界は楽しいものとなるだろう。
すべてを知らなければ、すべてが外からもたらされるものであれば、
かえって人生は楽しいものとなるだろう。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/03 22:08
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