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言葉

世の中にはいろんな“正しい考え”がある。
生き方の指針とかそれ以外にも。
こうすべきだ、とか、自分はこうしている、とか。
そういう考えは大宗教家とか大哲学者とかに限らず誰でもが持っている。
が、それを言葉という点に限って言うなら、どれも戯言に過ぎないというのは言えると思う。
言葉そのものに決まった価値はなく、すべては受け取り手次第なのだ。

成熟した人間のいう言葉を要約すると大体「そのままでいい」に落ち着くと思う。何もするなと。
だが、受け取り手はそういう言葉を見ると、「何もするな」を「する」ようになる。
それを行動や人生の指針にしようとする。「何もするな」の奴隷になる。
「何もしない」を実践し、うっかり何かしてしまったときにはいけないと修正し、
人に「何かしている」と指摘された時には自分はいかに「何もしていない」かを主張し、
そうやって、自分は「何もしない」を忠実に実行していると思い込もうとする。

これは何をしているかというと、自分はセーフゾーンにいると思いたい結果なのだ。
「何かをする」とアウトになる。でも自分はしない。だから自分はセーフなのだと。
「何もするな」を例にとっただけで、これはどんな教訓にも当てはまる。どんな理想にも。
自分は正しいものをわかっていて、できている。
間違った人には間違いだと指摘できるのだから、自分はできている。
できないときもあるが、それを修正しようとしているし、
今はできていないというだけで長い目で見れば、できている。
自分は正しい、自分は大丈夫なのだ、安心していいのだ、安心する権利があるのだ、と。
心から「自分は正しい」なんて思える人はそうそういないかもしれないが、
自分は正しいと思っていない人間など多分いない。
皆何かしらプライドを持っている。何かしらの点において自分を慰めている。

そういうセーフとアウトの二極の間でしか生きられない人に、
「欲を出すな」「清くあれ」「自立しろ、自らの意志を持て」と言う言葉を見せたところで、
どうせその言葉はセーフになるための餌としてしか利用されない。
「それを実行している自分」を保つことによって。
だが、セーフは常にアウトになる予感を漂わせているし常に心は不安で騒がしい。
皆そうなのだが。

そういう人に対して偉人達は「何もするな」と言ったのだ。
「セーフになろうとするな、しなくても既にセーフなのだ」と。
人生訓なんかに騙されるな、道徳なんかに踊らされるな、何もするな、と。
そういう次元に立って初めて、「禁欲しよう」などの選択肢が現れるのだ。
そこで人生訓も生きてくる。

この文章にしても、「セーフになろうとするな」という言葉自体が、
自分を計る物差しになり得る。
もし僕の言葉を真に受ける人がいたとしたら、その人は自分を省みて、
自分はセーフになろうとしているだろうか、いないだろうか、
していたらアウト、していなかったらセーフ、と確認する。
自分は大丈夫だろうかと不安になって確認する。

「するな」も「しろ」もそういう怖さを持つ。
本物の金言は「そういうのをやめろ」と言っているのだ。
だが、この言葉自体はどうしても誤解される運命にある。
「やめろ」と言われたら否定された気分になる。
だから、「いえ、やってませんよ、セーフですよ」と、そういう思考でしか受け取れなくなる。
すべてを糧にする。自分を肯定するための。
そして、そんな自己中心的な自分は駄目だ、とまたセーフ衝動が動き出す・・・。
が、何もしなくてもいいわけだし、逆に何をしてもいいわけで・・・。
・・・終わらない。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/20 21:34

駄目な奴

真理を求めないようになって、僕に何が残ったかと言うと、
僕はクズだなということ。僕は本当にクズだったんだな。
ずっと一人前になりたかったし、そうなろうとしてきたし、
そうなれない自分を恥じたり隠したりしてきたけど、
事実として、僕は駄目な奴だったんだな。

一人前になりさえすれば、今問題となっているあれやこれだって解決できる。
だからそうなるんだとずっと頑張ってきたけど、
結局一人前になったとしても、そんなものは死ねば消える。
解決した問題もできなかった問題も、死ねば消える。その程度のものだったのだ。

何とかなりさえすれば、と努力することによって免罪符を得ていたのだ。
今は駄目だがいずれ何とかする、と思うことで今を肯定しようとしていたのだ。
本当はただできないという事実があるだけなのに。
現実をありのまま受け入れられないから無理に肯定する必要があった。

が、現実は、僕はしょうもないやつで、しょうもない人生を送っているのだということ。失敗だらけ。
浮かび上がってくるのは間抜けな自分。ああ、僕は間抜けなんだな。

僕としてはどちらかというとプラスの意味で書いているこの文章も、
普通に読んだらかなりマイナスなものと受け取られてしまうのだろうなと思うとちょっと怖い(笑)
真理にすがるのをやめたら、僕の人生に何が残る。何にも急かされなくなったら何が残る。
何かを目指して生き、何かに願いをかけて生きる、そういうものを取り去ってしまったら、
人生何が残る。
ただただ愚鈍な自分。愚鈍ながらも生きている自分。
ただただ情けない自分だけが残る。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/18 22:10

人間と呼吸

・ふと、自分は誰でもないと思うと気分が楽になる。
『○○○○』という名前を持った社会的存在ではなく、誰でもない。
そう思うと気持ちが晴れる。
それだけ「自分」というものに縛られているんだろう。
「自分はこういう人間だ」と。
罪悪感とか劣等感がどれだけ日常を息苦しくさせていることか。
しかもそれらはただの思いこみ。


・自分は誰でもなく、これまでしてきたこと、起こったことに何一つ間違いはなかった。
これから起こるどんな悲惨な未来も大したことではない。
うん、ちょっとした生命の躍動を感じる。
別にプラス思考で現実をごまかしているわけでも、これらが事実だというわけでもない。
ただ、イキイキしてくるとそういう風に思えてくる。
何なら、今ある現実がすべて願って得たものだと思ってもいい。
人間の値打ちはどれだけ現在を肯定できるかで決まるんじゃないだろうか。
現在を肯定できている人は幸せ者だ。
ただそんな人も次の瞬間には無常に押しつぶされて不幸になっているかもしれない。
そういう状況でも現在を肯定できるなら、
その人は単に幸せ者であるばかりでなく、「大した人物」だ。
その点で言えば、僕は人間として下の下だ。


・僕が自分を省みて、周りの人を断罪しているかどうかに気を配り、
自分の非を嘆くのと同じように、
周りの人によって自分が断罪されたからといって、
それはその人の責任であって、僕が気にすることではない。
なんだ、簡単なことなんだな。
自分の中に正しいものがあるのだから、わざわざ周りに合わせる必要はない。
人に批判されるのは嫌なものだ。批判されるのがわかると顔を伏せたくなる。
だが、批判する方が間違っているのだから別にそれに合わせる必要はない。
人より自分の方が正しいから威張っていいのではなく、
一個の生命であるから威張っていいのだ。
同じ理屈で他の人も威張って良い。
威張ってもいいのに中々威張れないのだが、それは僕の問題。
僕だけの問題。


・スピリチュアルブームや哲学、思想、道徳というものと、
宗教というものの違いが少しわかってきた気がする。
それはやはり以前から勘付いていたように、
宗教は「なぜそれをやるのか」と問う以前の問題なのだ。
とそんな気がする。
問うたら最後、救済はない。問うこと以外に苦しみはないからだ。
なぜプラス思考になるべきなのか。なぜ明るく生きるのか。
他にも様々な「こういう風にしなさい」「こう生きるのが正しい」などの
「生き方のススメ」があるだろうが、なぜそれをやるのか。
なぜと問える次元でそれらの言葉を使ったとしても、その人達はただの幸せ者にすぎない。
その人達が「よくできた人」に飛躍するか否か、それが宗教的な次元の話。

幸せ者はいつ不幸せ者に変わってもおかしくない。
変わったら、それはその人に過失があると断罪する。
では断罪された人に救済はないのか。
結局「本人次第」という言葉ほど宗教と縁遠いものはない。
その「本人」の次元で悩む人が宗教を欲するからだ。
宗教と言っても特定の教団に限った話ではない。
「自分はこう思う」というところに落ち着けず、
「絶対の正解」「誰がどう考えても誤りは見いだせないもの」なしには
安心できない人に「あなたはそう思うんだね」と言ったところで救いはない。
その人はあなたにも、別のあなたにも、その他のあなたにも、
「そうだ」と思って欲しいんだから。
そういう疑似宗教をやっている人に「お前は誰か」と問いかけるのが本当の宗教の次元。


・「集中」という言葉。
それは普通「一点集中」という意味で使われる。
色んなことに気をかけていると「注意散漫」と言われる。
だが、何にも集中しなくなるとどうなるか。「一点」を持たない集中とは。
かえってすべてのことに集中できるんじゃないか。
すべてのことに気を遣えている状態。それは何にも集中していない状態。
無であることによって全体を覆い尽くす、というまぁ僕のお気に入りの形。
「一点」を持つと、人は苦しむ。悪い意味で「人間になる」。

「一点」の世界では人は「なぜ生きるのか」と問う。
また「これ」という目標を持たねば生きるのが難しくなる。
「これ」のために生きるのだという、生きがいや
自分が存在していることには「こういう」意味があるのだ、
との実存の肯定手段を持たねば生きるのは難しくなってくる。
だがそれらは実は生の一点集中なのだ。「これ」にすがる。
「これ」を中心にあらゆるものの位置が決まる。
だが残念なことに決して崩れない「これ」などはないのだ。

人間は呼吸的存在なのではないかと最近思う。
点でもないが、動的でもない。
「動的」というとそれをどこかから眺めているようだから。
視「点」がない。そうするとあるのはただ吸って吐くという呼吸だけ。
ただ生きて死ぬ何者かの存在。
存在を存在(点)として捉えない観点。点から眺めない観点。

人は「点(対象物)」を手に入れることによって人になった。
が、無常であるところの点に絶対性を求めずにはいられず、
薄暗い迷路の中へ入り込んでしまったのもまた人間の性のゆえだった。
けれども、点を知ることの恩恵は大きく、
苦しみなく点を扱うことができれば、それは人間として最高の人生ではないか。
それこそ「できた人物」だろう。

苦しみや不幸といったものは現在を肯定できなくなったところにだけ存在する。
現在を「何かが上手くいっていない・どこか間違えている」と思い込み、
それを「点(ターゲット)」とすると、問題解決と称しながらの完全なる奴隷的受動生活が始まる。
「生きる」が始まる。「何かのために生きる」その「何か」が点。
が、本当は人間は生きてなどいないのだろう。
ただあるのは呼吸だけだ。点のない視点。
呼吸、呼吸といって何が言いたいかというと、
何も点を持つなということではなくて、点を使えということ。
吸う(生)のも点だし、吐く(死)のも点だ。
それをどちらかだけに決めてしまわないで両方掴む観点があるんじゃないかということ。
単なる「幸せ者」は点の奴隷だが、「できた人物」は点の主人だ。
この奴隷から主人への飛躍が宗教の次元だ。
哲学も道徳も、奴隷としてそれらに使われてしまったら良くて「幸せ者」しか生まれない。
が、主人としてそれらを使えるなら、この人類の遺産は大きなものとなる。
こういうとはっきりしそうだが、かえってぼやけそうな気もする。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/06 14:11
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