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2014年後半思ったこと。

これから新年を迎えるというときに書くことではないかもしれないけど、
でも、今年の後半どんなことを考えていたかということをほとんど書いていなかったので、
やっぱり今日書いておこうかと。

「世界がどうなろうと知ったことではない。もういい。ほっといてくれ」と思っているときでも、
「う~ん、やっぱり死のうか」と思っているようなときでも、
幸せがすぐ近くにあるような、そんな匂いを感じるときがある。

やがてくる幸せではなくて、今現にある幸せの存在に感づいた、というような。

こういう言い方をすると、「見ようとしないだけで、
今どれだけ自分が恵まれているかに目を向けなさい」と言っているような気がするけど、
決してそうじゃない。
むしろ、僕はそういうセリフは極力言いたくないタイプの人間だから。

恵まれていようと、地獄にいようと、
そんなことに関係のないところに幸せというものはあるんじゃないかなと思う。
「~だから」幸せなのではなく、幸せはそれ単体で存在するのでは。
理由も損得もなく。

感情と不幸はリンクしてない。昨日の晩そう思った。
どんなに苦痛の中にあろうとも、反対に喜びの中にあろうとも、
そんなことと幸せとは直接的な関係はない。

人生に絶望し、これから自殺をしようとするそのときでも、
その人はその状況の中に幸せを見出すこともある。
例え、見出しつつも自殺を実行しようとも。

だから、自殺者を不幸と決めつけるのは良くない。
もしかしたら自分の人生を肯定しつつ、亡くなっていった可能性もあるのだから。
人生を肯定しつつも死を選ぶ人と、肯定し死を避ける人との違いがどこにあるかというと、
幸福感が第三者(神)への感謝に結びついたかどうかによるんじゃないかと思う。
それが信仰というものの正体だろう。

苦しい状況の中にあると、自分が今不幸の中にいると思い込む。
あってはならない状況にあるのだと。道を逸れてしまったのだと。
でも、その道こそが本道だとも言える。

神はその道へ行けと言った。
多分、神は、自殺者に「自殺しろ」と言う。
そして「よくやってくれた」と言う。

同時に、自殺を思い止まった人にも、「よく思い止まってくれた」と言う。
要するに、絶対肯定なのだ。
何をしようとも逃れられない。

かなり語弊があるし、どういう意図で僕がこれを言っているかは伝わらないだろうけど、
神を人格化するとこうなるんじゃないかなと思う。

「不幸だ」という感覚は思い込みによるものだ。
辛かろうと、人生の本道から逸れたわけではない。
私怨により人を殺めようと、それが神の道に従うことでもあるわけだ。
でも、「最初からすべて決まっている」とはあまり言わない方がいいというのが一番のポイントでもある。
「決まっているだろう」と言われると、「決まってなんかいるものか」と言いたくなる。
多分、どっちも正解だ。

それでも、あんまりこういうことを言ってると、
前向きになろうとして書いてるように思われてしまうような気がして、それはちょっと気に食わない。
こんなにため息ばかりつきながら書いているのに。
はい、今年はこれで終わり。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/31 19:00

「僕は思う」

「僕は思う」というセリフについて。
何か意見を言ったり書いたりするとき、最後に「~だと僕は思う」と付け加える。
断定したくないときに。
説教めいたことを言うとき、「こうしなさい」とは言わずに「こうした方がいいと僕は思う」と言う。
それがフェアでもあるから。
でも、それは果たして優しさとか責任感だけで出てきた言葉か。

自分の意見にどれだけ自信があろうと、それが絶対に正しいとは限らない。
特に、人生に関することだったら、これは紛れもなく経験がものを言うし、
まだまだこれから経験を積む余地があるという認識を持つ以上、
現時点での「正しい」をそのまま「正しい」とは言えない。「正しいと思う」と言う。
それが相手への礼儀でもあり、また、自分の良心に応えることでもある。

それから、本当は自信があるのだけれど、「控え目」という美徳のために断定を避ける場合もある。
あとは、皮肉として謙虚アピールする場合もある。わざと控え目になることで、相手へ仕返しをする手法。

他にもパターンがあるかもしれないけど、大体そんなところか。
とりあえず言えるのは、これは気配りとか良心に従っているというよりも、
保身と言った方がいいのではないかということ。

あえて断定を避けているのではなくて、断定する勇気がないからしないのだ。
大体、自分の意見を発する以上必ず「僕が思っている」のだ。表明してもしなくても。
「これが正しい」と言ったところで、それは必ず「これが正しいと僕は思っている」と言ってるのと同じこと。
それなのに、「絶対の正解」が頭をよぎり、保身を図る。
どうせ自分の言ってることなんて正しいか間違っているかどちらかなのに、
外れたときの保険として「と僕は思う」と付け加える。

相手に「こうしなさい」と言って相手がそれに従い、後になってそれが誤りであったとわかった場合、
「僕がそう思っただけで、『本当』はそうではなかったみたい」という言い訳をするため。
『本当』なんてどこにある。
『本当』を口にできるのか。どうせ言うことはみな「僕の考え」に過ぎないのに。
わざわざ「違うかもしれません」なんて言う必要ないのに。
違ったら違う。合ってたら合ってるとその時点で答えはでているのだから。
答えは発した時点で出ている。
なのに、「思う」というフィルターを通すことによってまるでそれを左右できるかのような錯覚に陥る。
本当のところ、「正誤」も「善悪」も大したことではないのだ。見方によってどうとでもなるから。
むしろ問題なのは、「思う」という武器を使うことによって自己を特権階級に置こうとすること。
主人公視点を保とうとすること。

常に「正解」に依存しているこの姿。
堂々と「自分」ではいられず、「正解」に頼ろうとする。
自立できず、どこかにあるであろう確かな宿主に寄生しようとフラフラ。

素直に「僕は思う」と言いたい。
思っているから思っていると言っただけ、というのを。
「思う」という言葉を「書く」とか「持つ」とかと同じ、単なる動詞の一つとして使いたい。
特殊な地位から引きずり降ろしたい。
そういう意味では神なんていない。
でも、素直に「僕は思う」と言える人は、もれなく神や世界を信仰している人だろう。
神の機嫌を窺わなくなった人こそ信仰者だと思う。
話が逸れたかな。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/27 23:04

重力

まっすぐに立つ。
身体にかかる重力を感じる。
日頃どれだけ大地に身体を預けていなかったかを思い知る。

いつも、崖から落ちているような感覚だった。
地面が欲しい。立つことができる地面が欲しい。
根なし草どころではない。まるで宇宙を漂っているよう。
上も下もない。当然北も南もない。どこを見ても真っ暗。
真っ暗だと対象がないのだ。「それ」がないから物の位置が定まらない。
ひたすら流されているようで、流されているのだと確かめる物も見つからないから、
本当のところ自分がどうなっているのかもわからない。
崖から落ちているのなら、いっそのこと早く地面に衝突したかった。
衝突すればそこが地面だとわかる。
基準が定まればそこからすべての物の位置を測ることができる。
落ちて初めて、「自分が落ちていた」のだと説明できるようになる。
物を測り、自己を定めることもできる。

そういうことは今までこのブログで何回も言ってきた。
まあ今も思っているのだけど。

でも、地面はあったのだ。
普通に立っているこの地面が。

神を欲していた。真理を欲していた。法を欲していた。絶対の法を。
それは、従いたかったからだ。
正しいものに。
正しいものに従うことによって自己を規定できる。
正しいものに根差すことで、自己を肯定できる。
人が作ったものには従えなかった。
「それ正しいの?」と問われれば、
「そういえば、本当に正しいのかなぁ」と疑わざるを得なくなるからだ。
だから自己を疑わなくても済む絶対のものが欲しかった。
絶対的に自己を規定し、肯定したかった。
そのための尺度が欲しかった。

欲したのはそれがなかったからだ。
どこを探しても見当たらない。
また、どこにもないということもわかっていた。

自分を貫いてくれるもの。
自分を導いてくれるもの。
絶対的に自分を従わせてくれるレール。
ここを歩いていれば安全というレール。

まるで無重力だった。
どこからも「呼ばれない」。
こちらへ来いとも。あちらへ行けとも。
自分に指図してくれる何者もなかった。
あるのはただ「相対者」の言葉だけ。「絶対者」ではなかった。

でも、無重力ではなかったのだ。
当たり前か。だって地球には重力があるのだから。
自己を従わせるものなら確かにあったのだ。重力が。
引かれていた。確かに「落ちていた」のだ。

基準を探していた。自己の位置を定めてくれる。
でも、そんなものないのだと諦めがついてくれば、確かに最初から大地があったのだ。
ずっと衝突していたのだ。
この身体が自分なのか。大地と接する足の裏が自分なのか。それとも大地そのものが自分なのか。
そんなことはどうでもいいのだ。
そんなことはどうでもいい次元で、確かに何者かが大地の上に立っているという事実がある。

最近のこれは諦めの境地なのだろうか。
このまま死んでもいいと思っている。
このままでは死にたくない。こんなあやふやなままでは死にたくない。
こんな中途半端なままでは死にたくない。
人生の何たるかを突き止めるまでは生きたという気もおきないし、
それを掴む前に死んでしまってはきっと、死ぬに死に切れない。
そうやってそれを「力」に生きながらえてきたのだ。
どこからも引っ張ってくれる力が存在しないから、
仕方なしに、「突き止める」という大義名分を自分で用意して、それにすがって生きてきたのだ。
「まだ」でなければ「未来」がない。「先」があると「今」からベクトルを伸ばすことができる。
「課題」を持つことで「すべきこと」という自分を規定する尺度を簡易的に適用できていたのだ。
物を観測できれば観測者の位置も定まるしね。
「今はまだ駄目なのだ。今はまだ中途半端なのだ。」
その言葉を利用して、自己をなんとか保とうとしてきた。
いや、保つどころか、最初からずっと手に入れようとしかしていなかったのだ。
自分自身に欺かれていたのだ。

が、もうこのまま死んでもいいと思うようになってきた。
こんな自分では嫌だと思ってるけど、そんな自分のまま死んで行こうと思うようになってきた。
重力。なすがまま。
この辺のことが、意気込みとしてではなく、素直な感想として思えるようになってきた感がある。
ただ、今自分に覇気があるかというと、まるでない。これまで通り。
それでも、これまで覇気がないのに何とか自分を奮い立たそうとしていたのが
よくわかるポジションではある。
今まで立っているようで立ってはいなかったのだ。
本当に「立つ」とは脱力すること。重力に身を委ねること。
中途半端に立とうとするから、「立っていない」が起こる。
重力に任せた分だけ反作用が働く。それが均衡というものだろう。
本当に運命に引かれるなら、反作用で立てる。
下に引く力と反発して上に伸びる力。
どちらが自分かは何ともいえないが、とにかくそういう現象は確かにそこに存在している。
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決意・覚悟 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/17 22:05

こだわりに込めた願い

久しぶりに何か書こうという気になった。

人にはそれぞれユニークな癖がある。
他人から見れば不思議でしょうがないのだが、
本人にとってはそれをするのがある意味で自然なのだ。
むしろ我慢しているとどこかむずむずしてくる。

こだわりも癖だと言っていいと思う。
小さなこだわりもあれば、どうしても譲れないような大きなこだわりもある。
己のすべてを賭けていると言いたいようなこだわりもある。
他人から見れば不思議でしょうがないのだが、
本人にとっては深刻なのだ。
客観的に見ればそれはやってもやらなくてもどちらでもいいようなことなのだが、
本人はそこにある種の正義のようなものを見ている。
が、そう思っているのは本人だけなのだ。
客観的にみれば大抵のこだわりは本当につまらないようなものなのだ。

こだわりとは、そこに力を入れているということ。
身体をみてもわかるように、動くためにはそこに力を込めなければいけないが、
その込め方や筋肉のどの部位に込めるかにも人それぞれ癖がある。
またどう動きたいかにも癖がある。
そうするといつも緊張している部位が出て来て、それはやがてコリとなる。
こだわりとは凝りでもあるわけだ。
身体のどの部位が凝りやすいかは生まれついてのものや置かれている環境によって
人それぞれ異なる。
自分の癖を知ることは大事なことだと思う。
そして凝りが他の部位であってもおかしくなかったのだということを思うのも大事なことだと思う。

唐突で話が飛ぶかもしれないが、人は癖を無くすために生まれてくるんじゃないかと最近思う。
別にそれが事実だとか言うつもりもないし、本気でそう思っているわけでもない。
でもそう閃いた時、心がすんなりと受け入れた。

癖はどんなに直そうとしてもなかなか直るものではない。
そこに力を入れたがっているのに、入れずにおくことはなかなか難しいのだ。
癖は外側から矯正できるものではない。
では、どうすればなくなるか。
やり切れば自然と納まるのだ。
片側への歪みは、歪み切らせてあげることで、自然と平衡を取り戻す。
過去のトラウマも心のしこりも同じ。
なくそうとしてなくなるものではない。全力で痛みを発散することによって成仏する。
燃料を使い切れば、もう運動を起こしようがなくなるのだ。
動機がなければ動きようがない。

さっき、癖を直すために生まれてくると言ったが、
だからそれも、癖を出さないように我慢しながら生きなさいということではなく、
むしろ反対に全力で癖をやるしかないということなのだ。

人生レベルのこだわりというのは、周りとの衝突を生みやすい。
自分のことを思って書いている。
でも、そういう癖を持った人間として生まれてきた以上、それをやり切るしかないかなと思うのだ。
例えそこに何の正義もなくとも。
もちろん、後天的に手に入れる癖もある。
でも、それも含めて、それをやるために生まれてきたんじゃないかなと思ったりする。

昔は、自分のこだわりに正義を見ようとした。
淋しい思いをすればするほど、そこにこだわった。
誰も理解してくれないけど、自分のやろうとしていることは正しいことなのだ。
自分は人間ならば絶対やらねばならないことをやろうとしているんだ。
自分こそが真っ当なのだ。やらない方がどうかしているのだ。
とそう言い聞かせた。そう全力で思えなかったからこそ。
でも、その正義というものは、僕が「正義と見ていた」だけだった。
正義と見れば見える。見なければ見えない。
純粋な正義などないのだ。別に正義に限らず。
僕のこだわりは、客観的に見れば別にやってもやらなくてもどっちでもいいようなものなのだ。
そう見抜く客観的な目が欲しい。

きっと、やり切ってしまえば、なんて無駄なことをしていたのだろうと思うのだろう。
やらなくてもいいことをずっとやっていたと。
でも、そう思えるためには、全力でやり切るしかないのだ。
ちょうど脱力するには一度全力で緊張しなければならないのと同じように。
生まれ持ったその動機の分を使い果すまで。その分量は人それぞれ。

癖なんてものはないに越したことはない。
でも、そのない方がいいようなものを、
あえてするために持って生まれて来たという観点を持ってみるのも面白いと思う。
その癖が結果悪へ繋がろうと善へ繋がろうと、ただ引き受ける以外にないのかなと思う。

その癖にどんな願いを込めているのか。それを想像することの大切さを思う。
「偉業をなすため」とか「使命」とかそうやって主観に逃げるのではなく、
幼さゆえにやらなくてもいいような失敗を何回も繰り返している我が子を見守るような客観的な目で
自分のこの癖は何をやろうとしているのか、どんな願いを持っているのかと、
見抜くのではなく、見守ることの大切さを思う。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/09 20:33
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