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読書日和、ではないか

この間、なんでか知らないけど突然夏目漱石と太宰治の小説を読みたくなって、
図書館で借りてきた。
大学生の頃はこういう小説を読んでたなぁ。
自分の抱えているものを解消するヒントがどこかにあるんじゃないか、
閃きを生む刺激にはなるんじゃないか、という気持ちで。
当時を思い出したくなったのか、借りてきたわけだ。

で、もうすぐ返却期限。
まだ1ページも読んでない(笑)
「まだ」というか、まぁ、読まないだろうな。
読みたいという気がまったく起きない。
借りる時点で多分そうなるだろうなとは思ってたけど、やっぱりその通りになった。

ちなみに、このブログのタイトル、自分でも忘れることがあるけど、
『門の下に立ちすくんで』という。
この言葉は漱石の『門』という小説の中から取っている。

今手元にあるわけだから、該当箇所を探そうと思えばすぐ見つかるのだけれど、
なぜかそれをするのも面倒なので、もしかしたら間違った情報を書いてしまうかもしれませんが、
ご了承下さい。
もしかしたら『行人』と混ざってる部分もあるかもしれません。

『門』という小説には、終盤に、主人公が神経衰弱(今でいうノイローゼ)をなんとかするために、
禅寺で数日間住み込みの修業をさせてもらうシーンがある。
が、結局は何の助けにもならずに茫然としながらまた日常に戻っていく、
という淋しいシーンがあって、そんなモヤモヤした気持ちのままこの小説は終わる。

そのシーンでの主人公の心情描写が、
「自分は宗教なしではとても生きてはいけない。
 が、しかし宗教の内でも生きていけないのが今回わかった。
 そんな自分は門の下に立ちすくんで、ただ日の暮れるのを待つだけの哀れな男なのだ。」
という、大体こんな感じだった。
「門」というのは「寺の門」のことで、門を境に内(宗教・聖)と外(世間・俗)に分けていて、
そのどちらの世界にも属せない自分は、この門の下でただ茫然としながら一生を終えるのだろう、
ということ。

この、聖に行きたいけど行けず、かといって俗で生きて行くことも自分には無理だろうという、
どこにも救いがない状況が自分と重なって見えて、印象に残っていたから、
ブログを始めようと思ったときに、タイトルの一番の候補となった。
あと、主人公が単に宗教好きなわけではなく、ただただ楽になりたいだけであって、
で、その方法は仏教以外にないと踏んだというのも、共感できるポイントだったから。
近現代人の理性に耐えうるのは仏教、とりわけ禅以外にないだろうと。
『門』に限らず、漱石の後期の作品の中には「近代と個人主義」のテーマがよく出てくる。
そして、そんな小説の中には必ずといっていいほど、神経衰弱の登場人物が描かれる。
今で言えば、神経衰弱というより、うつか。生気を失った現代人。
理性を発達させたが故に先人よりもイキイキとは生きられなくなった人々。
その問題に取り組もうとした漱石には感じるものが多かったし、タイトルとして引用させてもらった。

ただ、僕としては、『門の下に立ちすくんで』、「そのまま呆けたように生きてやるつもりはない!」
という意味を込めてのタイトルではある。
「内」でも「外」でもない。この「門の下」に留まることによってのみ真の救いが得られる。
そのあがきの様をここに記録しておいてやる、という意気込みで。
でも、そういう名前で始めたものの、やっぱりあんまりいいタイトルじゃなかったなぁと後悔はしていた。
だって、「立ちすくんで」って(笑)
変えよう変えようと思っていたけど、代わりになるようないい案もないし、
変えるとなると、やっぱり何か心境の大きな変化、もうこのタイトルでは僕の今の心情を表わせなくなった、
っていうものがほしいところだけど、そんなものも今のところないし、
ということで、結局変えずに今まできた。
あ、別に変えるときがきたという宣言ではないですよ。
ただ流れで説明しただけで。

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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/01/31 16:13

自分を客観的にみる

たまに自分を客観的にみられるときがある。主に寝起き時に。
自分をふり返ってみて色々思うことがある。
今は寝起きじゃないから客観的にはみられないけど。


素直に神様を信じられたらどんなに楽か、とたまに思うことがある。
僕には神が信じられないんだ。
目に見えないものを信じられるか、とかそういうことじゃなくて、
神に頼ろうとする己の心に、ある種の汚らわしさを感じるから信じられないのだ。

ここでいう神を信じるというのには、色々な意味が含まれてるけど、
「すべては上手くいっている」とか「すべてのことには意味がある」というような、
「神の意図」に関するものを特に指して言っている。
あとは、「この世に正解はある」というような「絶対性」の問題も僕の中では大きいかな。

「神を信じる」というと、どうも、不安定な自分を肯定するために神に寄生しているような気がして、
そのあり方自体に拭いようのない違和感を覚えていたんだと思う。
今表現するとそういうことになる。

簡単に言ってしまうと、僕は不安でたまらなかったのだ。
自分という存在がぽっと出のようなものに思えて、そうじゃないという理屈を必死で探していた。
人に言われてそうだなぁと納得するのではなく、
自分で考えてみて、もうどう考えても僕はぽっと出の存在じゃないんだなと。
最初は自分を肯定するために考えていたけど、そういう魂胆抜きにしても、
これはもう僕の存在には意味があった、僕は生きていてもいいのだ。という結論を出したい。
そんな思いがすべての原動力だった。

不安だから神に頼る。不安だから絶対に頼る。不安だから正解に頼る。
自分一人では立てないから、「立っていいんだよ」というお墨付きを欲した。

でも、同時に、その「逃げ」にやましさも感じていた。
「頼る」という行為に弱さを感じたというよりも、もっと根が深い問題。
「頼っては立てない」「頼るというあり方は間違っている」という、直感。
何の根拠もないけれど、「それは間違っている」ということだけは「わかっている」。

この「わかる」というのがやっかいなのだ。
「1+1=3」と、どう頑張ってもそれを本気で言えないのと同じで、
「違う」と思ったものに対しては、どうやっても本気で取り組めなくなるのだ。
つまり、「神を信じるのが違う」と思ってしまったら、もう神を信じることはできなくなるのだ。
どんなに神を信じたくとも。

僕が神を信じることができないというのはそういうこと。
神がいるとかいないとかの話ではなく、神に頼りたがる自分の心に非を認めてしまったからなのだ。

それが僕の人生を大きく変えたんだなぁと改めて思った。
変わったと言っていいかはわからないけど。

あと、不安、不安と言ってるけど、別に不安になるようなきっかけなんてなかった。
不安になっていったというよりも、不安(定)であることに気付き始めたと言った方が近い。
なんというか、先が見えてしまったのだ。
なんやらかんやら今と同じようなこと何十年か続けて、そのまま死んでいくんだな、と。
そう思ったときに、とてもこのままじゃ死んでいけないと思った。
「何かが足りない」「まだ何かをしていない」という強烈な思い。
でも、その「何か」の正体がわからない。

この感覚はさっきの「ぽっと出」とも関連してる。根なし草。根をはっていない。
「生きていない」。

「何かをせずにはいられない」という焦燥感。だってまだ「生きられてない」のだから。
でも、同時に存在する、「何をしても間違いだ」という感覚。
神のときと同じ。
この「間違いだ」は、決して揺るがない直感。
「何かをせずにはいられない」という感覚の正体は、
「何か」をすることによって自分を肯定しようとしている、
自己放棄的で依存的なあり方であって、それは「間違っている」という確信。

まるで空いた穴を「何か」で埋めようとしているよう。
「自分」を形成する上で欠けてはいけないはずの「何か」が欠けている。
決定的に欠けている。
それがないから「自分」が完成しない。
完成していない「自分」を引きずって、彷徨って、泣き喚いて、うな垂れる日々。
そして、「そんな自分が間違っている」という揺るがぬ確信。

それがなぜ「間違っている」のかについては一応説明しようと思えばできる。
でも、そんな理屈を超えて、まず直感があって、
その直感が心の中心にずっと居座っているのだ。

この直感が僕の人生においてかなりの影響力を持っているのだなとしみじみ思う。
そう。この話の根本にあるのは、「僕はどこに向かえばいいのか」という問いではなく、
「僕はこういうものを持っている」という自己の再認識。
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いま・ここ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/01/24 23:04
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