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修行マニア

世の中には修行マニアというものがいる。
自分を痛めつけて精進して、痛めつけて精進して、ってそうやってしか生きられないマゾヒスト。
まぁ、僕がそのタイプなんだけど。

根っこの部分ではそうなんだと思う。
修行らしい修行は全然したことないけど、タイプとしてはそういう部類だと感じることが多い。
変な話だけど、自分を責めると安心できるのだ。
「耐え難い苦痛」に耐えてるときこそ、ある意味最もイキイキとしているのだ。

あとは潔癖癖。これも修行マニアの特徴だろう。
自分の過ちを訂正し、間違った習慣を改めて、一歩一歩前進していく。
自分との闘い。誰にも気付かれなくても、一歩一歩着実に歩んでいく。

・・・とそういう「キャラ」になりきれているときはイキイキしてる。

修験者とかにこういうタイプの人間は多いんじゃないかなと思ってる。
僕もたまにものすごく心が引かれることがあるのだ。
「ああ、『精進』のみを求めて生きていけるような『清い』世界に行きたい。
 そんな世界で生きられたらどんなに幸せだろうか」と。

前世は修験者だったんじゃないかとわりと本気で考えたこともある。
そして多分その修験者のときに思ったのだ。「もう二度と修験者になんかならない」と(笑)
だって、一皮むいてみたら、ただのマゾヒストなのだから。

「(真面目な)修行僧」というと、世間の人のイメージとしては、
「はあ、御苦労さまです」という感じの、別に憧れもしないけど、自分を厳しく律している、
(変わり者というニュアンスを含む)「偉い人」という認識かなと思うんだけれど、
で、修行僧の方もそう言われてまんざらでもないような感じになるんじゃないかなと思うんだけど、
でも、この人は本当はそんなに大層偉いわけではなくて、
ただ、そうやってしか生きられないだけの人なのだ。
というか、そうやって汚いものを洗い流し洗い流ししても、
まだ駄目だ駄目だと言って、結局清い世界では生きていけない哀れな人なのだ。
そういう暗いものを最奥に秘めながらも、
人に会って「へえ、よくそこまでやりますねぇ」なんて言ってもらえると、
「俺はこの世に不満なんて何ひとつない」なんて本気で思ったりする。
人を誤魔化すんじゃなくて、自分自身を誤魔化してる。

「自分にはまだこんなに駄目なところがある」と、普通は気にしないような細かいところも反省して、
常に自らを追い込むストイックな姿に、実は自分自身惚れていて、
そうやって惚れている間だけは生きていけるような気がするのだ。
でもこれは誤魔化しているに過ぎない。
本当はいつも「生きられてない」と感じているのだ。

「改めなければならない」と思うことによって生きる推進力を得てる。
「成長してる」と思うことによって、得てる。
そうやってしか自分の存在価値を実感できないのだ。
厳密には「実感をキープしてる」のではなく、「実感を得ようとしてる」のだが。
止まると死ぬ。だから走り続けねばならない。
これはこの間も書いた通り。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/09 21:48

「辛いけど頑張りましょう」って言いにくくなった。

大学生の頃、友人と、
「お互い辛いけど、頑張って生きていこう。
 この人生というものは相変わらず一筋縄ではいかないけど、それでも自分のペースで生きていこう」
ということを言い合っていた。

その友人というのは僕とは違って、いつも死にたいと思っているようなタイプではなかったけど、
それでも日々生きるのに苦労しているような、「生きるのが下手」なタイプであることには違いなかった。
まぁ、似たようなタイプなので、いつも別れの際には、
「まぁ、しんどいですけど、頑張りましょう(年上なので敬語)」なんてことを言い合っていたわけだ。

それは間違いなく本心だったし、それが最もその場にふさわしい言葉だと思っていたのも事実。
でも、いつからか、この挨拶、なんか変だなと思っていた。
使い回しの定型文みたいになっていたというのもあるけど、多分、それだけじゃない。

「本当にこの人生っていうのは、そんなに辛いものなのかなぁ」と思うようになったからだ。
一応弁解しておくけど、僕の人生が辛くなくなったという意味ではないし、
辛いと思うのも楽しいと思うのも自分の心次第だ、という意味でもない。
ただ、なんとなく、
「僕らは辛い辛い言い合ってるけど、それってただ傷を舐め合ってるだけじゃないのかな」
と思うようになったからだ。
共通の悩みを持つ人、その人にしかこの話は通じない、と言えるような、
そんな相手を持てるということは本当に恵まれたことだと思う。
でも、そう思う自分の心の中に何か不純なものがあるような気が段々としてきた。

「僕らは、いや僕は、本当に辛いのだろうか。
 辛いと言うべき理由があるから、辛いと言っているのだろうか。
 本当にそうなのか?
 本当は、辛いと言いたいから、人生を「辛いもの」に変えてるんじゃないのか。
 『僕は辛い。あなたも辛いんだね』、そう言わせてくれる相手を欲しただけじゃないのか。
 辛いから辛いと言っているんじゃない。辛いと言いたいから辛いと言っているんだ!」

そう気付いた。
じゃあ、なんで「生きるのはしんどい」と思いたかったのか。
そんなのは、もう10代の頃からわかってた。
抵抗がなければ、生きているという実感が得られないからだ。
進む足が「重い」と感じるから、「頑張ってもう一歩」前へ進めるのだ。
超えがたい壁があるから、「超えたい」と思えるのだ。
「勝てない相手」だから、「勝ちたい」と思えるのだ。
そうやって、推進力を得ないと、人は歩けないのだ。
立ち止まると自分が「無」になってしまう。
動いているからこそ、自分自身に価値を見いだせる。
何もするべきこともなく、してはいけないこともなくなってしまっては、
世界から「あなたはいてもいなくてもどっちでもいい」と言われているようなもの。
それは耐えられない。
だから、前に進むことでしか、自分を感じられない。
そのためには、わざと窮屈なところに飛び込みさえする。
制限を欲するのだ。「なんで制限があるんだよ!」と文句を言うために。

自分の口から発せられる「辛いなぁ」という言葉の中にそんなものを見たのだと思う。
もっとも、僕は「辛い」「死にたい」なんて言葉はブログでしか言わないようにしてるけど、
大学時代の友人が「辛いなぁ」と言うたびに、「辛いですよねぇ」と返していたのは確かだ。
「辛くなんかない!」でも「もっと頑張れ!」でもなく、「僕の方が辛いですよ」でもなく、
「(人の世ってのは)辛いですよね」と返していた。

あえて言うなら、「僕の方が辛いですよ!僕の話を聴いて下さい」と返していた方が、
人間として親切だったかもしれない。
僕はそこで、自分の話をせずに、相手の「辛い」を広げて深めて「あげよう」とした。
「その『辛い』を存分に出していいんですよ」とでも言うような空間を作って「あげた」。
偽善ではなく、確かに思いやりからなのだが、
そんな自分にいつからか吐き気を催すような嫌悪感を持つようになった。

ちょっと話がそれたかもしれない。
「辛いですね」と言いたくなくなった理由として、「辛いと思いたいから言っているのだ」ということと、
「自分に偽善のようなものを見るようになった」ということと、二つ言ってしまったけど、
その二つは繋がっているような気がする。
偽善ではないのだ。
だが、先の見通しの悪い思いやりは、ふり返って見直してみると、醜くさえ見えるのだ。
相手が「辛い」と言ってきたときに、相手の「辛い」に合わせざるを得なかった自分の無さ、
自己の世界観の無さ、それを情けなく思う。
「辛くなんかないよ!」でも「そりゃ辛いよ」でもなんでもいいから、
自己の世界観を背景に語れるようになりたいものだ。
相手に合わせて主体性を失うのではなくて。
鬼が出ようと、蛇が出ようと、「辛い」と言う人間が出ようと、
「そんな奴らは皆ペテン師だ」と言えるくらいでないと人間として駄目だろうな。
こう言うと誤解されるだろうけど。

でも、メールの別れの挨拶で、「辛いけど、頑張りましょう」ときたら、
頑張るとも頑張らないとも言えず、「まぁぼちぼちやりましょう」としか言えない自分ではある。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/03 20:43
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