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コラボ企画 「『伝える』ということ」

今回はいつもと違います。
考えすぎ』というブログを書いていらっしゃる
「まこっちゃ」さんという方と、コラボ対談をさせて頂きました。
対談と言っても、メールでのやりとりを
何回か繰り返したというものですが、
当人達は真剣になって取り組みました(はずです)。

それにしてもまこっちゃさんの文章は読みやすいです。
それに比べて僕は・・・。

何を言っているのかわからなければ飛ばして下さって結構ですので、
長いやりとりですが見て下さると大変嬉しいです。

テーマは「『伝える』ということ」です。
「コミュニケーション」については誰しも関心があると思いますので、
そういった意味でも面白い内容になっていると思います。


では、読んで下さる方は↓「続きを読む」からどうぞ。



【まこっちゃ】


だいぶ前に、
コミュニケーションの意義
という記事を書きました。


コミュニケーションにおいて重要なのは、
実は、伝えたい内容そのものよりも、伝えようとしている人の姿勢や態度、その雰囲気なのだ。
・・・そういう趣旨の文章です。
今でも、基本的な考え方は変わっていません。
そもそも、「伝えたい内容がそのまま相手に伝わる」なんてこと自体、あり得ない気がします。


ただ、だからと言って、
「伝えたい内容そのものなんか、伝わらなくてもいいんだ」
とは、どうしても思えません。
今、こうして話している時もそうですが、
やっぱり僕は、伝えたい内容を伝えたいからこそ、現にこうして伝えようとしているわけです。


「伝えたい」とか、「わかりたい」といった動機がなければ、
そもそも現実のコミュニケーションは始まりません。
これは、かなり大きな矛盾だと思います。
「伝えたい内容そのものよりも、その場の雰囲気が重要」であるものが、
「伝えたい」という動機付けが無くては始まらないわけですから。




そもそも、「伝える」ってどういうことなんでしょうね。
「伝わった」とは、どのような状態のことを言うのでしょうか。
確かに伝わった保証など無いのに、「伝わった」と思える時がある、ということも不思議です。


かめさんは、
「伝える」ということについて、
どのように捉え、どのようなことを考えていらっしゃいますか?




【岩岡梅亀】


まこっちゃさんの考え、読ませてもらいました。
う~ん、確かに矛盾していますね。


例えそれが不可能であっても、「相手の話そのものを理解しようと頑張る」姿勢が
また心を打ち、関係が深まるんでしょうね。



僕が「伝える」ということについて思うのは、
一つは「伝え方」に関して、です。


独り言、二人称的な発言、三人称的な発言、ブログ・ツイッターでの発言、
報告としての発言、詩など、
伝えようとしている「内容」が同じでも、
状況や相手によって発言の仕方が大きく違ってくると思います。
話される「言葉」はもちろん、「口調」、「間」、「抑揚」などが変わってきます。


ですが、そういった表面に現れた差異だけでなく、
「伝え方」の中にはもっと根本的な差異があるような気がします。


僕は「相手」と「発言(というより表現)」とは切り離しては考えられないと思っていて、
「表現」はその時その場その相手限りのものだと思っている…のですが、
ちょっとまとめきれていない部分があるので、
自分でも何を言おうとしているのかがわかりません(笑)
また話していく内にわかってくればいいですが。



「伝える」ということについてもう一つ思うのは
自分の伝えたいことがそっくりそのまま相手に伝わるのかどうか、です。


まこっちゃさんも「あり得ない」とおっしゃっていますが、僕もそう思っています。
個人の心の中に生じてきた「伝えたいこと」とその人の「心」とは切り離せないと思います。

「伝えたいこと」は、それが浮かび上がってきた(母体となる)「心」の中でしか
生きられないような気がします。



ですが、確かに「通じる」という事態はありますし、不思議ですね。
そういえば「通じる」にも単純に「説明が通じる」というものもあれば、
「気持ちが通じる」「心が通じる」というものもありますね。




どうも僕はまだまこっちゃさんのおっしゃりたいことを掴みあぐねている
(察しあぐねていると言う方が失礼がないでしょうか)ので、
もっとお聞きしていきたいんですが、
ご紹介いただいた記事の最後で

「コミュニケーションのなかで大切なのは、
相手の話そのものを理解しようと頑張ることよりも、
むしろ、そのコミュニケーションを通して、
相手全体を感じ取ることなのではないか」 と結論を出されていますが、
やはりまだそこに何か煮え切らないようなものを感じていらっしゃるのでしょうか?




【まこっちゃ】


そうですね。
煮え切らないものを感じてます。


「相手の話そのものを理解しようと頑張ることよりも、相手全体を感じ取ることが大切だ」
と言いながら、
そのこと自体をわかって欲しい、と思っている僕がいます。
だから、
「そうだよね、相手全体を感じ取ることが大切なんだよね」
なんて簡単に同意されてしまうと、
違和感があります。
もっと、ちゃんと真剣にわかろうとして欲しい、と感じてしまうんです。


たぶん、
「・・・することが大切だ」
という命題の下で行為されることのすべてが、
僕にとっては、本能的にむず痒く感じられてしまうのだと思います。
平たく言えば、
「『大切』だからするのかよ!」
って感じです。
1.大切
2.だから、する
という順序そのものに、僕は、異様な違和感を覚えます。


・・・かめさんの質問に対する答えになっているでしょうか?




「伝え方」の問題は、確かに、
「伝える」ということを考えるにあたって避けては通れない問題だと思います。


「伝え方(あるいは表現)」と「伝えようとしている相手が誰か」ということは、
おっしゃる通り、切り離せないですね。
僕も、かめさんに伝えようとしてこうして書く文体と、
誰にともなく書く記事の文体とは、自分でもわかるくらい違います。
伝えることのできる内容の範囲とか幅も、文体による制約を多分に受けますから、
これは、けっこう根本的な問題ですよね。


文化圏によって(例えばアメリカと日本で)考え方が違うのは、
言葉が違うからだ、とよく言われますが、
それは少なからず当たっていると思います。
日本語で考えるのと、英語で考えるのとでは、
どこか考え方の仕組みそのものが根本的に違っている気がします。


でも、一方で「翻訳」ということもされていて、
それなりに成り立っていますよね。
だから、まったくバラバラでもない。
どこかで「ちゃんと伝わっている」と、僕自身、思っています。
僕も、「全然伝わらない」と思いながらこんなふうに長々と書くほど暇じゃありません(笑)。


もし、「伝え方」に根本的な差異があるのだとしたら、
幅広いコミュニケーションというものが、どのように成り立っている(あるいは成り立って
いるように見える)のか、不思議でなりません。




【岩岡梅亀】


僕は自分のブログの中で「・・・することが大切だ」と
結構言っていると思います(笑)が、
それに対して「そうだよね、大切だよね」と簡単に同意されてしまうと
僕も違和感というか、寂しく思ったり抵抗を感じたりする場合があります。
気軽に書いている文章だったら気になりませんが、
思いつめて書いた文章だったらそう感じるかもしれません。


「もうこれ以外にないんだ・・・」という血の涙を流す(大袈裟ですが)思いで
自分自身に言い聞かせている言葉なのに、
安易に同意されてしまうと、
それが産まれるに到るまでの痛みが
なかったことになってしまうような気がするからです。

ですが、流す血は自分自身の身体から出るものなので、
自分とは異なる血が流れている他の人に
その痛みが伝わらないのは当たり前だと割り切っている部分もありますが。



「伝え方」に関してですが、感覚的な表現で申し訳ないですが、
僕は「関係性の手」の伸ばし方によって違いが出てくると考えています。
相手とわかり合いたいと思っているときには、
相手に向かって手を伸ばしているような感覚がありますので、
「関係性の手」ととりあえず表現します。


この「関係性の手」の伸ばし方には様々種類があると思います。
例えば、相手と「通じ合っている」と感じるときには、
相手の身体に手が直接触れているような感覚でしょうし、
触りたいけど触れなくて恐る恐る伸ばす手もあるでしょうし、
ブログやツイッターの中には、
誰に向かってでもなくとりあえず手を出しておいて、
誰かこの手を握ってくれないかな、
というようなニュアンスで出す手もあると思います。



それから、まこっちゃさんが「翻訳」とおっしゃったので、
そこから「通じること」について連想したのですが、

例えば、自分とは異なる言語を使う人に対して
自分の思いを伝えようとする場合に、
こちらの意図を相手に理解してもらえたときには、
「通じた」という言い方をしますよね。


ですが、例えばうろ覚えの番号で電話をかけたとして、
電話が繋がったときにも、同じく「通じた」という言い方をしますよね。


前者と後者には違いがあると思います。
前者においては「こちらの意図が伝わったかどうか」が問題になりますが、
後者においては「繋がるかどうか」が問題になります。
「気持ちが通じた」「心が通じた」というのは後者でしょうね。



「関係性の手」によって自分と相手とが一本の“線”で繋がっている状態が
「わかり合っている」「通じ合っている」という状態だと思います。
こちらで「あ」と発音すれば、あちらで「あ」と響くというような。

「自分の言いたいことが相手に伝わるのかどうか」を考えるときには、
間主観的と言いますか、視点の置くところを自分でも相手でもなく、
その間を繋ぐ“線”に置く方がいいんじゃないかな
と、こうして書きながら段々と思えてきました。


結局は、まこっちゃさんが最初におっしゃったように、
「内容そのもの」よりも「雰囲気」が大事、ということになりますが。




【まこっちゃ】


なるほど。
「関係性の手」の伸ばし方によって、
「伝え方」そのものが根本的に違ってくる、ということですね。


確かに、伝えたい内容そのもの以前に、
「どんな風に伝えたいか」によって、
「伝え方」自体が規定されてしまっていて、
それに引きずられる形で、「伝えたい内容」の姿も違ってくる気がします。


「通じる」ということの意味合いも、
おっしゃるように多岐にわたっています。
どういう場合に、どういう意味合いの「通じる」になるのか、
・・・という話も確かにおっしゃる通りだと思いますが、
こんなに複雑なことをわかってしまう(またはわかった気になれる)自分が奇妙に思えます。


最近、まだ1歳にならない息子を見ていて思うことがあります。
僕や妻の仕草を、息子が時々真似する(ように見える)んですが、
彼にとって、自分の体のその場所が、僕や妻のその場所と同じ場所に相当する、
ということが、どうして彼にわかるのか、非常に不思議です。
彼自身の全身を、彼は見たことがないはずなんです。
でも、相手の同じ場所と、自分の同じ場所の対応づけができているから、
真似できるわけですよね。
いつ、どうやってわかったんでしょうか。


視点の置き場を、相手でも自分でもなく、
その間を繋ぐ“線”に置く、というお話は、とても興味深いです。
言われてみれば、
特に「わかりあおう」としている相手との会話では、
そういう意識の持ち方をしている気がします。
逆に、敵対視している相手との会話では、
同じ“線”でも、自分の側に極端に寄せた位置に視点を置きますよね。
でも、この感覚って何なんでしょうね。
誰にも教わってませんし、それこそ伝えようのない感覚だと思うんですが、
なんとなくわかる気がします。


不思議ですよね。
「伝え方」の仕組みに関して、
人間に共通の何かがあるんでしょうか。




【岩岡梅亀】


息子さんがいらっしゃるんですね。
ご両親の真似をされるんですか。可愛らしいですね。


確かになぜ相手と自分の身体の対応づけができているか、不思議ですね。
きっと心理学の子どもの認知の発達などを扱う分野の中には
その答えになるような説があるんでしょうが、
その種の説明で言い尽くせるようなものなのか、
それとも言い尽くせないものなのか、
微妙な感じがします。
ちょっと僕には馴染みがないので何とも言えないですが。



「なぜ通じるのか」ですよね。
あまり考えたことがありませんでした。


卑近な例で、“誰かがタンスの角で足の小指をぶつけたのを見て、
思わず自分の小指が痛いような気がした”
ということについて、
おそらく普通に考えるなら、相手の心(痛み)を想像したとか、
自分の過去の同じような体験を思い出したにすぎない、
というような説明が考えられると思います。

ですからその痛みは、
想像や記憶などのイマジネーションのようなものが引き起こした、
あくまでも「自分自身」の痛みである、とされると思います。


ですが僕はなんとなく、
単なるイマジネーションと言い切ってしまえるものでは
ないんじゃないか、と思っています。


“現代人には相手の身になって考える想像力が足りない”
とよく言われていますが、
これはもちろん「想像力」の問題でしょうが、
今まで使われてきた意味よりももっと広い意味での「想像力」
だと思います。
少なくとも、鍛えて「力」を伸ばすことができるような
ものではないと思います。


相手を理解しようと「想像力」を働かせて気張るよりも、
肩の力を抜いて、妙なこだわりを捨てて相手と向き合った方が
「わかりあえる」ことが多い、というのは、
きっと僕の思い込みではないと思います。


そうかと言って、相手と自分を繋ぐもののことを
“気”“波動”“魂”というような言葉を安易に使って
説明することにも気が引けます。

この種の言葉は、本人の中で意味が曖昧なまま使うと
単なる観念になってしまう気がしますので。



まとまりのない文章を書いてしまいました。
あやふやなものについて書いたので
結局あやふやな内容になってしまいました。

自分の心と相手の心をつなぐ「何か」、共通する「何か」について、
まこっちゃさんは何か考えをお持ちでしょうか。




【まこっちゃ】


返信が遅くなってしまいました。


「なぜ通じるのか」
「なぜ、『通じる』と思えるのか」
それは、想像力で補うような部分もあるが、単にそれだけではないし、
かといって“気”や“波動”といった神秘的な言葉で片付けてしまうのも違う気がする。
・・・といった所でしょうか。
僕も、まったく同感です。


僕の考えもまとまっているわけではないんですが・・・。
かめさんが、前に「どういう相手か」ということによって根本的に大きく違ってくる、
とおっしゃってましたが、
そこは大きなポイントだと思います。
つまり、「伝わる」ということの普遍的な定義とか、
共通の原理があるわけではなくて、
基本的に個別的なものなのだと思います。
ただ、単に個別的であるだけなら、
共通の言語である日本語も成り立たなくなるわけですから、
やはり何か共通「的」な枠組みがあるような気がします。


でも、その枠組みは、
外部から規定されているものではなく、
同じ枠組み(である言語など)を使っている者それぞれが、個別的に勝手に使っていながらも、
いつの間にか自然と使い方が共通してしまっているような、
そういう緩い枠組みなのだと思います。




その枠組みを共通させているのは、たぶん人それぞれの感覚や感性じゃないかと思います。
たぶん、「人類共通の」感覚や感性があって、
個人差はあっても似たような状況で似たようなことを感じ、似たように理解して似たように
反応する。
だからわかりあえるんじゃないかと。


でも、それも幻想かもしれません。
1ヶ月前に東日本で大地震が起きて、今も余震が続いていますが、
今、僕が強く思うのは、
「同じ日本」という感覚は幻想だった、ということです。
記事でも書きました。
http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10847075594.html

普段あまりスポーツ観戦をしない僕ですが、
それでもオリンピックなどで日本の選手が出場しているのを見ると、
「なんとなく」「同じ日本人として」応援しています。
でも今、被災地の人々の状況を伝えるテレビニュースの画面と、
僕がこうして生きている状況の間には、
あまりにもギャップがあります。
誤解を覚悟で言いますが、「同じ日本とは思えません」。
現地の方からすれば、僕のこの感覚は非常に薄情だろうと思いますが、
実際そうなのだと思います。
現地の状況を「わかる」と言えば、明らかに嘘になってしまいます。


でも、こういう事態になる前には、
そんなことは思いもせずに、ごく自然に、東北の人も僕も同じ日本人だと思っていました。


それでも、そういうことを多少でも思えるのは、
テレビ報道があったからです。
偏った報道がされている、といった批判もあるようですが、
限られた時間内での放送に対し、多くを求めるのは無理が過ぎる気がします。


最初の話とは趣旨がずれるかもしれませんが、
「本当に伝わったかどうか」を別にしても、
兎にも角にも伝わってきたこと、伝えられたことをベースに判断し、生きている場面が極めて多い、
と改めて痛感します。
「本当に伝わったかどうか」さえ微妙なのに、
伝わってきてしまったことを前提にしてものを感じ、考えて判断し、行動して生きているわけですよね。
その中で、伝えることの責任の重さも大きく問われるような気がします。


「本当に伝わる」ということがよくわからないからといって、
影響の大きさを思えば、無責任ではいられないわけです。
そう考えると、とても怖いです。
僕が今、こうして喋っていることも、それが相手にどう伝わるかもよくわかっていないくせに、
気づかないうちに大きな影響を及ぼしてしまうわけですよね。


かめさんは、そういう怖さを感じることはありますか?




【岩岡梅亀】


なるほど。やはりそうですか。
個別的に勝手に使っていながらも、いつの間にか自然と使い方が共通してしまっているような枠組み・・・。
本当にそんな気がしますね。


そういえば、魚や鳥が群れでいるときに、
まるでその群れが一つの生き物であるかのように動いていますよね。
きっとその中の一匹(羽)というのは、
自分自身の動きだけで完結しているんだと僕は思います。
「群れとして」というよりも、「自分として」行動しているんじゃないでしょうか。
もちろん、意識は持っていないでしょうが。


ですがそれを群れの外から眺めた場合に、
結果的に全体が一つの生物のようになっているんじゃないかなと思います。


「個別的ながらも普遍的」というのがキーワードのような気がしますね。
一人ひとりは全力で個別的に生きているのに、客観的に見ると実は皆同じことをやっている。
しかも協力関係も自然にできあがっている。
そんな気がします。


人間同士でも、感覚や感性を共通させる型のようなものがあるのかもしれませんね。



「同じ日本」に関する記事、読ませていただきました。
僕にも震災後に書いた記事があります。
http://iwaokabaiki.blog15.fc2.com/blog-entry-78.html
まこっちゃさんの考えと似たようなことなのかどうかはちょっとわからないですが。


その記事の根本にあるのは、「同じでないものを同じとしていく」ということです。
まこっちゃさんもおっしゃるように、
被災された方と「同じ」気持ちであるとは、僕にもとても思えませんが、
その幻想である「同じ」を幻想のまま、いわば理想のようにして、
「われわれ同じ日本人だ」と一人ひとりが覚悟を決めていくのが
大事じゃないのかなと思います。

まこっちゃさんの記事にも、個々人の自覚が大切だということが書かれていたので、
共通する部分があるのでしょうか。




伝えることの怖さについてですが、
本当のことが伝えられないために、発言していく度に誤解が増殖していく、ということや、
本質的に人間社会が誤解で覆われている(にも関わらず成り立っている)、
ということに対する怖さでしょうか。
それとも、自分の発言が誰にどんな影響を及ぼすかわからない、という怖さでしょうか。




情けないことですが、僕が感じるのは自分の発言が誤解されたらどうしようという、
自己中心的なところからくる怖さくらいのものです。


ただ、相手にも自分と同じように一つの人生がある、と感じた場合に限っては、
自分が与える影響がその人にとってどういう結果をもたらすか、
ということを考え、怖くなってきます。


どんな行動がどんな影響を与えるかもわからないですし、
そもそもどうなれば善くてどうなれば悪いのかもわからないですから。
責任の取りようもないところに自分はいつも立っているんだなと思うと
怖くなったりはします。




【まこっちゃ】


また返信が遅くなってしまいました。
すみません。




震災後に書かれた記事、拝読しました。
ただ、僕が直感的に思ったのは、
その「同じ日本人じゃないか」という感覚がまさに幻想ではないのか、
ということです。
身も蓋もない言い方で、申し訳ありません。
でも、今の僕には、
どうしても、その「同じ日本人」を出発点として定めることができません。
やはり幻想に思えてしまうんです。


そもそも、地縁、血縁といった感覚は、
初めから定義されてそこにあるもののではなく、
生計を共にしながら支えあう時間と空間を共有する経験を通して、次第に沸き起こってくる
ものなのではないでしょうか。


だから、その感覚が持てない人に、
「同じ日本人じゃないか」と言ったところで、そもそも通じないわけです。
また、その感覚を持っている人にとっても、
それは当然にそこにあるものではなく、
支えあって生きてきた軌跡と、これからもそうして生きていくであろう展望があって初めて
成り立つ概念であるわけです。
その意識がなければ常に崩れ去る、・・・というか、そもそも幻想なのだ、と。


とはいえ、その幻想を心の支えにして生きていることも事実です。
幻想を幻想と思わなければ、本人にとってそれは真実です。
その狭間で、人は自分を保っているのかもしれませんね。




伝えることの怖さについては、
おっしゃるように二種類ありますね。
その両方の意味で、「怖い」と感じます。


まさにおっしゃるように、
相手にも自分と同じような人生がある、とイメージすると、
言葉を一つ発することもひどく恐ろしく思えてしまいます。
自分の日常を振り返れば、誰かの一言によってその後の行動が大きく変わってしまう、
ということは多々ありますよね。
もちろん、自分の場合は、
自分なりに自分で判断した結果そう行動しているつもりでいますから、
そんなに大問題だとは普段あまり感じていませんが、
同じことが、自分の何気ない一言から相手に及ぼす影響についても言える、と気づくと、
急に変な怖い気持ちになります。
例えば、破壊力の大きな兵器を「ぽん」と預けられて、いつでも発射できる状態で立っているような。




でも、こうして、
怖いと言いながらもべらべらと喋ってます(笑)。
「自分が、かめさんに何か取り返しのつかない影響を及ぼしてしまうのではないか」
という気持ちよりも、
別の気持ちが勝っているからなんですよね。


他の誰にでもこうやって話すか、というと
(まあ、けっこう話すほうですが)やはり相手によって話し方は変わってきます。
どういう反応が戻ってくる相手かによって話す内容も話し方も変わるわけですが、
そもそも、反応が戻ってくることが愉しいんですよね。


何が愉しいのかは、お互い違うことを感じているのかもしれない。
でも、こうしてやりとりが続いている時間があり、それを共有している。
それが続いていくことが予想される。
そのことが不思議で、また愉しくて、僕に「次の言葉」を言わせるのかもしれません。





あと、また話は逸れますが、
今回は返信がだいぶ遅れてしまいました。


時間的に余裕がなかったからなんですが、
僕からの返信が遅れている間に、かめさんの考え方や捉え方が変わっていく、
といったことはあるのでしょうか?
僕の場合、時間が経つだけで考え方や意見が変わってしまうことも少なくない(迷惑ですよね)ので、
かめさんの場合はどうなのか、ふと訊きたくなりました。




【岩岡梅亀】


そうですね。
僕も「同じ日本人」というのは幻想だと思っています。
同じではないものを同じだと言っていくことに救いがあるんじゃないかなと
僕は思うんですが。

ですから、「同じ日本人」というのを出発点としてではなく、
目標として、しかも永遠に到達できないからこそ目指していく目標として
掲げたらどうかなと考えています。


「同じ日本人」というのは、同じだという根拠があってそう言うのではなくて、
在日外国人の方を見て「同じ日本に住む人だ」と思えれば
それで「同じ」と言ったらいい、という程の意味です。


他と区別して自分の所属するグループの結束を固めようとすると、
他のグループとの間に諍いがおきますので、
そうではなく、
各自が器を大きくするというか、
自分とは異なって見える人でも、
なるべく「自分と同じ人間だ」と心を開いていけたらいいと思いますので、
それを理想として掲げたらどうかなと密かに考えています。


「同じ県民だ」だと他の県民との対立が起きやすそうですし、
「同じ地球人だ」だと漠然として実感が湧かないですし、
やはり「同じ日本人だ」くらいがちょうどいいのかなと思います。


ですが確かに、同じとは思えていないのに「同じじゃないか」「仲間じゃないか」
と言って肩に手をかけられると反発したくなりますね。
そういえば僕自身がそう反発したくなるタイプの人間なのだということを
忘れていました(笑)


なんにせよ、あまり無闇に「同じだ」とか「わかる」とは言えないんですね。
相手に強要すべきものではないですから、気をつけないと駄目ですね。


テーマとは随分離れてしまいました(笑)



他の人に影響を与えることについて。
お互いに影響し合っているというのは
仏教でいう「縁」と言い換えていいと思いますが、
自分があらゆる人と縁で繋がっていると思うと、
それは恐ろしさを生みもしますが、逆に心の支えになったりする場合もありますね。
自分が存在したという証がその人の中に残るわけですから。
(むしろそれゆえに恐怖へと繋がるのかもしれませんが)


ところで、まこっちゃさんは、
本来別々の人間が同じ時間を共有し関係が築かれていく、
ということに対して独特の感受性を持ってらっしゃるように思いますが、
僕はそれが素直にすごいなと思います。
僕はなかなかそうは思えなくて、
周りの人達や新たな出会いなどにもあまり感謝したり心を動かしたり
できませんので。
見習うようにします。




それから、
時間が経つことによって考えが変わるかというご質問ですが、
考えは大きくは変わっていませんが、
なるほどそういう視点もあるなとか、
あそこはこう表現しておくべきだったなとか、説明不足だなと思うことはよくあります。





このコラボのやりとりも、
実際に会って話してその日の内に終わってしまうものとは違って、
文字だけのやりとりを1ヶ月以上に渡ってやっているわけですよね。


まこっちゃさんからいただくメールは紛れもなくまこっちゃさんの主張ですから、
これがまこっちゃさんの主張なんだなと思って受け取るんですが、
実はその裏ではまこっちゃさん自身がもう新たな別の考えを持たれていたり、
実際はわかりませんが意見を変えられていることもあるわけですよね。


ですが僕にはそういうことが起こっているかどうかはわかりませんから、
目の前のその文章こそがまこっちゃさんの真意なんだと受け取ってしまいます。
もちろんまこっちゃさんにとっての僕の場合もそうですよね。


あと、誰かにブログやメールなどで
自分を批判されたり文句を言われた場合でも、
その文章を読む度に相手がいつも怒っているような気がしてきます。
文字には怒りが表されていますから。


ですが、実際のその人はというと、
すっかりこちらのことを忘れて楽しく過ごしている場合もありますよね。
文句を言うだけ言ったその瞬間にすっきりして
怒るどころか気分がよくなっている場合さえ普通にあると思います。
こちらがその怒りの文章を読んでいるその同時刻にでも。


そう思うと「言葉」というのは本当にやっかいだなと思いますし、
人間関係というのも、本当にまこっちゃさんがおっしゃるように、
そういうある種の誤解の上で
なぜか上手い具合に成り立っているんだなぁと改めて思います。



【まこっちゃ】

このあたりで、いったん区切らせて頂いてもよろしいでしょうか。
なんか、伏線的なテーマがざくざく増えてしまい、収拾がつかなくなりそうなので(笑)。



お話させて頂いた内容の全体を通して思ったのは、
「伝える」ということに関して、あまり厳密に定義しようとか思わないほうが良さそうだ、
ということです。
何事もそうなのかもしれませんが、「伝える」ということに関しては特に禁忌なのではない
か、と思えてきました。
「伝える」ということの意味や伝え方を、変に固定化すると、
たぶん、かえって伝わらなくなります。

かめさんが、
「同じ日本である」を前提にするのではなく、
おそらく達成されることがあり得ないような、幻想かもしれないような目標として、それを
掲げ続けることが重要なのだ、
という話(と僕は理解しました)をされていたのが印象的でした。
この話も、「それは本当に重要なのか?」と突き詰めて考え、統一的な根拠を探す、といった類のものではなくて、
兎にも角にも、まずは皆でそれを掲げるのだ(と言い続けるのだ)、
という意思表明をするわけですよね。
それが、いつの間にか気づけば伝わってしまっている。
「伝える」ということには、そういう側面が大きい気がします。

論理的には何の根拠も無い絵空事であっても、
言っている本人が大真面目に熱心に語っていれば、臨場感あふれるリアルな事実として相手
に伝わってしまうことがあります。
「伝える」ということにおいて、もう、それは事実であるわけですよね。



今回は、問題提起がたくさんありました。
話がいろいろ飛んでしまったので、
改めて別の機会に、提起された問題の一つ一つについてお話させて頂きたいと思います。


今後とも、宜しくお願い致します。



【岩岡梅亀】


本当に伏線的なテーマがどんどん出てきましたね。
それだけこの「伝える」というテーマが深い含蓄を秘めているものだったのだと
前向きに捉えておきましょう(笑)


よくよく考えると、「『伝える』ということ」をテーマにしてこうしてお話をするということは、
なかなか珍しいことなのではないかなと思います。


お話させてもらって改めて思ったことですが、
僕よりもまこっちゃさんの方がはるかに「伝える」ということに関して
敏感でいらしたと思います。
中でも、
コミュニケーションというものが誤解を重ねながらも奇跡的に成り立っている
ということについては、僕もやりとりの中で改めて深く考えさせられました。



まとめというわけではありませんが、
「伝える」というテーマでの今回のやりとりの中に一貫していたものは、
コミュニケーションのその中には人と人との間を繋ぎ、
それを成り立たせている“何か”があり、
それは発された言葉そのものやその言葉の意味よりも
重要な意味を持っているのではないか、
ということだったと思います。

コミュニケーションというものは単に、
それぞれ独立した「人」と「人」との間を
客観化され物と化した「言葉」が行き来しているということではないのでしょうね。



今回は本当に面白いやりとりができ、嬉しく思っています。
ぜひとも、今回メインでは取り上げられなかったものについてや
全く別のテーマについても今後お話ができたらと思います。

こちらこそ、今後とも宜しくお願い致します。



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コラボ企画 | コメント(0) | トラックバック(1) | 2011/06/12 16:34
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