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夏目漱石『私の個人主義』

今回は夏目漱石の『私の個人主義』から、僕の好きな部分を紹介します。
これは漱石が学習院で学生に向けて講演したものを文章にしたものです。



まずは漱石の若い頃の苦しみについての言及です。


『私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか
 少しも見当が付かない。私は丁度霧の中に閉じ込められた孤独の人間の
 ように立ち竦んでしまったのです。そうして何処からか一筋の日光が射し
 て来ないか知らんという希望よりも、こっちから探照燈たんしょうとうを用いてたった一条ひとすじ
 で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にして
 どっちの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。
 あたかもふくろの中に詰められて出る事の出来ない人のような気持がするの
 です。私は私の手にただ一本のきりさえあれば何処か一ヵ所突き破って見
 せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、生憎その錐は人から与えられる事
 もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分は
 どうなるだろうと思って、人知れず陰鬱な日を送ったのであります。』


僕にとっては他人事に思えない煩悶です。
漱石は留学先のロンドンで考え込んだ末にある考えに至ります。


『この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力
 で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全
 く他人本位で、根のないうきぐさのように、其所いらをでたらめに漂よっていた
 から、 駄目であったという事に漸く気が付いたのです。私のここに他人本位
 というの は、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、そ
 れを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。一口にこ
 ういってしまえば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人真似をする訳がな
 いと不審がられるかも知れませんが、事実は決してそうではないのです。
 近頃流行るベルグソンでもオイケンでもみんな向うの人がとやかくいうので
 日本人もその尻馬に乗って騒ぐのです。ましてその頃は西洋人のいう事だ
 といえば何でも蚊でも盲従して威張ったものです。だからむやみに片仮名
 を並べて人に吹聴して得意がった男が比々皆是ひびみなぜなりといいたい位ごろごろ
 していました。ひとの悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。
 譬えばある西洋人が甲という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとする
 と、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑に落ちようが落ちまいが、む
 やみにその評を触れ散らかすのです。つまり鵜呑といってもよし、また機械
 的の知識といってもよし、到底わが所有とも血とも肉ともいわれない、余所
 余所しいものを我物顔に喋舌しゃべって歩くのです。しかるに時代が時代だから、
 またみんながそれを賞めるのです。
  けれどもいくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているの
 だから、内心は不安です。手もなく孔雀の羽根を身に着けて威張っている
 ようなものですから。それでもう少し浮華ふかを去って摯実しじつにつかなければ、自
 分の腹の中は何時まで経ったって安心は出来ないという事に気がつき出
 したのです。』


これは別にこの時代だけの問題ではないですね。
他人本位。
それが人格的に程度の低いことだからやめようというのではなくて、
余所のものを身にまとっても結局不安は解消しないのだから
やめようということでしょうね。
というより漱石自身が不安でたまらなかった。ものすごく共感します。
どれだけ自己「について」語っても
肝心の「自己」がわからなければ不安です。


『私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。
 彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに
 立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは
 実にこの自我本位の四字なのであります。
  自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。そうして今
 のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ
 心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる
 理由を立派に彼らの前に投げ出してみたら、自分もさぞ愉快だろう、人も
 さぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するの
 を私の生涯の事業としようと考えたのです。
  その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰欝な倫敦ロンドン
 眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊悩おうのうした結果ようやく自分の
 鶴嘴つるはしをがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返してい
 うと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに
 自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。』


自己本位。
なかなか曲者の言葉ですね。
自分のしたいことをしよう、と言い換えても問題はないでしょうけど、
そんな誰もがいつも言っているものとは違うでしょう。
かと言って特別崇高なものというわけでもないでしょうが。

僕はまだ霧の中に閉じ込められているけど、
漱石のいう“自己本位に生きる”というこの方向で間違ってないと思う。

人間は赤ん坊として生まれ、やがて大人になっていくように、
自分も何もないものとして生まれ、やがて自分になっていくものとして
できているのだろう。
それは世間でいうアイデンティティとか個性とか
そんな甘くてフワフワしたものではなくて。
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好きなことば | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/08/01 21:56
コメント
「真実」と抑うつ感
いつも興味深く拝読させていただいております。

私たちは「真実」に出合ったとき「幸福」になるのではありません。まずはそれを恐れ、不安になって抑圧・回避し、それでもなお「真実」に触れ続けようとするならば、「抑うつ感」に苛まれるのではないかと思います。

「真実」とは、根源的な意味での「わからなさ」や「知り得なさ(not knowing)」であり、「無意味さ」であるでしょう。

例えば、今回のブログにもあるように、私(自己)に「ついて」は知ることができても、「私そのもの」は体験するしかなく、いかにしても「知の対象」とはならない、つまり「わからない」のです。

その意味で、私とは「わからない誰か」あるいは「誰でもない」のであり、生きる意味とは「無意味」なのです。

その「真実」(根源的な「無意味さ」や「不可知性」)に気付き、さらにそれに直面し続けようとする者は、深い「抑うつ感」に苛まれることになると思います。「どうせ何をやっても同じだ…。だから、何をする気も起こらない」。

彼らはいわゆる「健常者」よりは、一歩進んでいるでしょう。「真実」に直面しているからです。

しかし、「抑うつ感」に押しつぶされてしまっていることもまた事実です。

彼らの前にあるのは、精神分析家クラインの言葉を借りれば、「抑うつ態勢」を乗り越えるという課題です。それは、決して容易いことではありません。しかし、自分のペースで、何より、誤魔化すことなく、一歩ずつ進んでいきたいものです。

このブログからはその「誤魔化さない心」が伝わってきて、感心し、また教えられることが多いです。
ついにコメントをいただけましたか・・・
Shuさん、コメントありがとうございます。

他の方もここをご覧になるかもしれないので一応説明しておきますが、
Shuさんと僕とはともに大学で臨床心理学を学び合った仲です。
数少ない僕の理解者でもあります。

そんなわけでShuさんから「誤魔化さない心」が伝わると言っていただけると本当に嬉しいです。
一応僕の中のモットーのようになっていますから。


クラインですか。
僕はクラインのことは教科書的なことしか知らないんですが、
Shuさんの書かれた「真実」との直面からくる抑うつと、クラインの抑うつ態勢とはどんな風に重なるものなのでしょうか。
知識がないからか僕の中ではあまり繋がらないのですが…。
簡単でいいのでまた教えてくださるとありがたいです。


無意味についてですが、
きっとShuさんがおっしゃる「生きる意味とは無意味」というのは、「生きる価値なんてない」ということではなくて、
「生きるということは、意味という人間側の主観で切り取れるものではない、意味づけできるものではない」という意味ですよね。

それにしても「無意味」って不思議な言葉ですよね。
あまり関係ないですが、数学で「マイナス」を習ったときのことを思い出しました。
「A君はパンを-2個もらいました(つまり、2個あげました)」

少し違いますが「無意味」にも似たものを感じます。
例えば、目の前のテーブルにりんごが置いてあったとすると、「りんごがある」と言います。
りんごが置かれていなかったときには、「りんごがない(無りんご)」と言います。
そこにないにも関わらず「無りんご」という言葉(モノ)をテーブルの上に置きます…。

意味がないにも関わらず、「無意味」という意味がそこにあるかのようです。
不思議な言葉です。


またコメント残していただけると嬉しいです。
そのときにもまたShuさんらしさのあるものをお願いしますね。
今後もよろしくお願いします。

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