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それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ

今回も夏目漱石『私の個人主義』の続きです。

前回では漱石の苦悩とそれからの脱却(それ以後も苦しんだようですが)の体験
について紹介しましたが、
今回は、漱石の学生に向けての激励を紹介します。
僕は初めて読んだときはものすごく励まされました。


『以上はただ私の経験だけをざっとお話ししたのでありますけれども、
 そのお話しを致した意味は全くあなたがたのご参考になりはしまいか
 という老婆心からなのであります。あなたがたはこれからみんな学校
 を去って、世の中へお出かけになる。それにはまだ大分時間のかか
 る方もございましょうし、またはおっつけ実社界に活動なさる方もある
 でしょうが、いずれも私の一度経過した煩悶(たとい種類は違っても)
 を繰返しがちなものじゃなかろうかと推察されるのです。私のように
 どこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴みたくっ
 ても薬缶頭やかんあたまを掴むようにつるつるして焦燥れったくなったりする人が
 多分あるだろうと思うのです。もしあなたがたのうちですでに自力で
 切り開いた道を持っている方は例外であり、またひとの後に従って、
 それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして
 申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)
 しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘
 り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。いけない
 というのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不
 愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならな
 いからです。私のこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を
 模範になさいという意味ではけっしてないのです。私のようなつまら
 ないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があ
 れば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それはあ
 なたがたの批評と観察で、私には寸毫すんごうの損害がないのです。私自身
 はそれで満足するつもりであります。しかし私自身がそれがため、
 自信と安心をもっているからといって、同じ径路があなたがたの模範
 になるとはけっして思ってはいないのですから、誤解してはいけません。』


やはり「寸毫の損害がない」と言い切るほどの自信と安心を得るには、
「自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚」がなければ無理なんでしょう。
借り物で着飾ったところで安心は得られません。


『それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもし
 ばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。
 もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする
 人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の
 仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道
 があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び
 出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。
 容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首をもた
 て来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数の
 うちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧かもやのために懊悩して
 いられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘
 当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家の
 ためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族の
 ために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のた
 めに、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし
 私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかに
 こだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。
 ――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かに
 ぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は忠告がましい
 事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなた
 がたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙っていられなくなる
 のです。腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあ
 るというような海鼠なまこのような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が
 不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっ
 しゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越しているとおっしゃ
 れば、それも結構であります。ねがわくは通り越してありたいと私は祈る
 のであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せ
 なかったのです。その苦痛は無論鈍痛ではありましたが、年々歳々
 感ずる痛には相違なかったのであります。だからもし私のような病気
 に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならん
 事を希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの
 尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯
 の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。』


「もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ」
というフレーズが好きです。
僕自身の経験から言って、この煩悶を抱えていて苦しいのは、
ひょっとして自分はとんでもない間違いをしているんじゃないだろうか、と思うことです。

こんな悩みを抱えていると、普通の人は「そんなことは考えるな」と言います。
僕は心の中で、
“この悩みを無視することの方が間違っている、というか無視しようと思ってもできない”
と思うんですが、
僕の心の中にも常識人がいますから
“本当は考えない方が正しいんじゃないか”と思ったりもしてグラグラ揺れます。
直感と理性(常識)の対決ですね。
その矛盾で苦しんでいます。

ですから
「もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ」
という部分を見て本当に励まされた記憶があります。
何かしらのこだわりがあるということは
自己の創造の余地がそこにあるということですからね。
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好きなことば | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/08/03 21:12
コメント
夏目漱石って
そういうことを言う人だったんですね。
ひねくれてて親しみにくい印象がありましたが。
まあ、ひねくれてるのかもしれませんけど。

確かに励まされますね。
少なくとも、「夏目漱石もそうだったんだ」という気持ちになります。
まこっちゃさんへ
夏目漱石は僕の中でもひねくれたイメージがあります。
まあ、きっとひねくれてるんでしょうね(笑)


省略しましたが、こんなことも言っています。

『はたして私のいう事が、あなた方に通じたかどうか、私には分りませんが、もし私の意味に不明のところがあるとすれば、それは私の言い方が足りないか、または悪いかだろうと思います。で私の云うところに、もし曖昧の点があるなら、好い加減にきめないで、私の宅までおいで下さい。できるだけはいつでも説明するつもりでありますから。』


若い弟子達を自宅に招いて議論したりしていたようですし、
意外と若者に対して熱いものを持っていたのかもしれませんね。
なるほど
かなり等身大に率直に語る人だったんですね。
そういう人がお札に描かれていた、というのは、
なかなか洒落たことですね。

変に有名になると、受け取る側が一定の偏見を持ってしまいます。
この効果は、けっこう大問題ですよ。
自分の無知を棚に上げて言うのもナンですけど。
文学について
おっしゃる通りだと思います。
変に有名になると、偏見を持ってしまいますよね。
特に僕のようなひねくれた人間は
世間でもてはやされる人や物に対しては、
「そんなつまらないもの」とつい反発したくなります。

よく本を読むのは良いことだとか、
夏目漱石とか太宰治とかそういう文豪の小説を読むのは良いことだと
されている風潮がありますが、
僕自身多少なりとも小説を読むようになって思ったのは、
こんなものを読んだところで別に人間としての格が上がるわけでも何でもない、ということでした。

特に太宰治の小説なんてものは、とても読みなさいと言えた代物ではありません(僕は好きですが)。
にもかかわらず、文豪=すごい人、それを読む人=教養がある人、というイメージがはびこっています。

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