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命懸けで生きることができずにいる

こんなことをブログとはいえ公の場で言うのはどうかと思うが
こういうのでも書く意味はあるかなと思ったので書いておく。


死について。
気付いてしまった。
僕がやたらと自ら死のうとしたがるのは、
自然と最期を迎えたときに「結局何もなかった」と思うのが怖いからだろう。
だから結果を出す前の「途中」で「不本意」という思いを抱いて死にたがっている。

全ての過程を終えた上で「結局何もなかった」と思うより、
まだやり残している状態で「あれさえどうにかなればなぁ」と後悔しながら
死にいく方がマシなんだろう。情けないが。

天下をとった豊臣秀吉でさえ辞世の句で
自分の一生はすべて「夢のまた夢」だったと言っている。
天下をとるかはともかく、
僕にはこの嘆きは自分のもののようにリアルに感じられる。
きっと僕もこうなる。

もし寿命を全うしたとして、せっかく百年近く生きてきたのに、
「結局何も足しにはならなかった」と思うのはとてつもなく恐ろしい。

死ぬこと自体は不思議なほど全く怖くない。
むしろ「途中で」死ねるならそれは僕にとっては救いですらある。
僕が怖いのはただ「すべては無意味」なんじゃないかということ。

生きがいを持つのはいいことだと思う。
僕もそれを求めていた時期はあった。
でも気付いてしまった。

誰かのために生きたとしても
その誰かに「意味がなかった」としたら・・・
誰かの幸せのために生きたとしても
その幸せに「意味がなかった」としたら・・・
人類の発展、文化の発展、学問の発展、
でも人類に「意味がなかった」としたら・・・
己が世界の、地球の、宇宙の歯車のひとつであったとしても
その宇宙に「意味がなかった」としたら・・・
誰かを幸せにし、世界に貢献し
「幸せだ、満ち足りている」と思うことはよくあるだろうが、
そう思う自分自身に「意味がなかった」としたら・・・

「意味がない」と断定できるならまだいい。
意味がない「可能性もある」と思うから不安になるんだ。

何かをあてにして生きがいにしてみても
その対象も自分と同じくグラグラ揺れる存在なのだとしたら
とてもあてにはならない。生きがいにはならない。
そんなものは一時的な慰めにすぎないじゃないか。
麻薬のようなものじゃないか。
別にそれでもいいが、
きっと僕は最期の最期になって後悔すると思う。
それが怖い。
幻に浮かされながらのこのこと生き延びてきてしまったと後悔する。

「知識」も「論理」も「貢献」も「救済」も
「他者」も「世界」もそして「自分自身」でさえも
何一つあてになるものはない。
そんなものにしがみついたところで本当の安心は得られない。

僕が仏教を好きなのは
仏教ははっきりと「その通りだ」と言ってそこから出発してくれるから。
下手な慰めを言って夢を見せないから。

世界は神の意のままだということに異論はないが、
目の前で触れられる距離にいて目と目が合わないのであれば
それはただの「神」という観念でしかない。
神は出逢えたときにしか神ではない。


結局賭けの問題だ。
このまま何の手も打たずに生きていてはきっと後悔する。
だから何かしらの手を打とうとする。もがく。
でもこのもがきが苦しみなんだ。
ジタバタするそれ以外に苦しみはないんだ。

手ぶらで敵地に特攻するのが怖いから
仕方なくジタバタ武装している。
このもがきがよくないのだとわかってはいても
怖くてとてもやめられない。

もがきをやめれば(死の問題に関しては)安楽でいられる。
でも5、60年後に「手を打つべきだった」と後悔する「のではないか」と恐れている。

結局賭けの問題だ。
僕は命すべてを賭けて、文字通り「命懸け」で生きることができずにいる。
賭けて無防備で生きた結果、「すべて無駄でした」となるのが怖いから。
そのときにはもうやりなおしがきかないから。
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人生観 | コメント(3) | トラックバック(0) | 2011/08/05 21:27
コメント
死生観
いろいろありますね。
ただ、「死」が抜き差しならない問題であることは、
多くの人にとって共通していそうですね。

僕は死が怖いです。
最終的に死んでしまって、記憶もすべて消え去ってしまうのであれば、
この人生に何の意味があるんだろうか、
・・・という順序で発想して怖がってます。

基本的には、この世界は不思議で面白い、という感覚があるのかもしれません。
どんな小説よりも不思議だと思います。
・・・というか、
小説や映画も、所詮、この地球上のどこかにある光景を切り取って組み合わせたものでしかないような気がします。
「真実は小説よりも奇なり」です。

昼間は明るくて、夜は暗い。
見え方が全然違うけれども、同じものだ。
・・・なんて、
空想だけで思いつけますか?
地球からの距離も大きさも全然違うのに、
昼間は太陽が出ていて、夜は月が出ていたり出ていなかったりする。
見える大きさは似ている。
・・・こんな漫画みたいな偶然ありますか?

現実は、偶然と呼ぶには巧妙にうまくできすぎている気がします。
だから僕は、基本的にこの世界が面白いです。
でも、いつか死んでしまうことが怖く、そしてそれを思うとすべてがむなしい。
けれども、誰も答えを教えてくれない問題だからこそ、
死ぬまでに、なんとかしてこの世界を納得してやろう、
自分がいつかは死んでいく(が今は生きている)この人生を知りたい、
と強く思っています。
ただ、がむしゃらにそれだけをするわけにもいかず、
まずは生きていかなければいけないので、
目先の仕事のことにもそれなりに真剣に取り組まなければいけません。
バランスの取り方が非常に難しい、と感じています。

方向性が全然違いますが、僕にとっての死生観は、こんな感じです。
まこっちゃさんへ
人生観って本当に色々ですよね。

僕もまこっちゃさんと同じで死を思うとむなしくなるにもかかわらず、
僕の場合は死が怖いという感覚はほとんどありません。

よくあの世があると思うことでこの世で生きていくのが楽になる、という人がいますが、
僕の場合はあの世があってもらってはとても困るんですね。
せっかくこの世で生きなくてもよくなったのに
死んでからもあの世で生きなければならないというのは僕にとっては本当に苦痛です(笑)
たとえ天国であったとしても。
もし肉体が消えるだけで今のままの意識がそのまま残ったとしたら、ですけど。

本当に人生観は色々です。
きっとそれぞれの人が自分の抱えているものとどう折り合いをつけるか、
どう上手くバランスを取れるようになるか、が大事なんですよね。
それは「一般的な答え」でどうにかなるものではなく、自分自身で創っていくしかないんだと思います。
それが「自己を生きる」ということじゃないかと思います。


僕がまこっちゃさんのすごいところだと思うのは、
偶然や奇跡というものに対して感動する感性を持っておられるところです。
人間が豊かに生きていく上で大切なのは、
「謙虚であること」「些細なことにも感動できること」「慣れてしまわないこと」「何でも楽しめること」
じゃないでしょうか。
いつも「こんなのは当たり前だ」と思っていたら、生きていても全然楽しくないでしょうしね。
当たり前
自分としては、
むしろ僕は、「当たり前」を感じ取る感性に欠けている、
と思ってるんですが・・・。

「当たり前でしょ」と言われて、ピンと来ないことが多いんです。
一応、理解して「世間ではこれが当たり前なんだ」という捉え方をすることまではできることもありますが、
実感としては何が当たり前なのか(そもそも打ち合わせもしていないのに、どうして複数の人がそれが「当たり前」だとすぐに直観できるのか)がさっぱりわかりません。

死後の世界は、僕は、あって欲しいです。
せめて記憶や意識だけでも残ってくれたら、
なんて思ってます。
・・・真逆ですね。不思議なものです。
根本的な感覚が全然違うのに、
そういう者同士でも会話が成り立つってすごいですよね。

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