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太宰治『人間失格』

下の書いたのは太宰治の『人間失格』の中の文章。
こういう文章を紹介しても、
教養になったり知見を広げることになったりは特にしないと思うけど、
ここには一人の人間のリアルなものが表現されていると思うので紹介する。

もちろん、これは小説内の文章なので、
空想上の人物の発言であり、また誇張されているところもあり、
そういう意味では全くリアルではないけど、
小説にしたからこそそこに太宰治のリアルが現れているとも言えると思う。
リアルなものが誇張されることによって歪むのではなく、
誇張されたものこそが太宰治のリアルだと思う。
それはともかくどうぞ。



 めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか
聞こえませんでした。その迷信は、(いまでも自分にはなんだか迷信のように思われて
ならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食
べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど
自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉はなかったので
す。

 つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事にな
りそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食い
ちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけ
たことさえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実
にしばしば、仕合せ者だと人に言われてきましたが、自分ではいつも地獄の思いで、か
えって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっ
とずっと安楽なように自分には見えるのです。

 自分には、禍いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が背負ったら、その
一個だけでも十分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと思った事さえありました。

 つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないので
す。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、
それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨な
阿鼻地獄なのかもしれない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺も
せず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦
しくないんじゃないか?エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、い
ちども自分を疑った事が無いんじゃないか?それなら、楽だ、しかし、人間というもの
は、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない
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好きなことば | コメント(15) | トラックバック(0) | 2011/10/10 15:11
コメント
隣人の苦しみ
そうですね。
でも、太宰治がこのような文章を書き遺してくれた、ということが心強いです。

隣人の苦しみ、わかりません。
だから逆に、「わかってもらえない」苦しみを、僕も誰かに与えているのかもしれません。

僕の場合、
「あまり難しく考えるな」
とよく言われます。
でも僕は、ごく基本的な、単純なことしか考えていないつもりなんです。
周りの人は、スイスイと乗り越えられてしまっている、そのことに僕は乗り切れていないだけなのです。
でも、「深く考えるね」などと敬遠されている感じがします。

僕から見れば、
「乗り越えるコツを、ケチらないで教えて欲しい」
と思うところですが、
たぶん相手にも
「今さらそんなことを言われても、何にそんなに引っかかってるのかわからないよ」
と思われているのでしょう。

ただ、
「めしを食べなければ死ぬ」
というのは、僕は、たぶん本当だろうと思っています。
一人暮らしをしてみて、ものぐさで何もせずに一日食事を抜いてしまったり、
そんなことが少し続いただけで、
自分でも驚くほど体の力が抜け、買い物に行く気力さえ失ってしまったことが何度かありました。

やはり、きちんとバランスのとれた生活と食事をすることは、
自分が頭で知っていた以上に重要なことなのだ、
と痛感させられました。
太宰治は、食事をしなくてもそれなりに動けてしまった人なのでしょうか。
とにかく、僕の場合は、そんな感じでした。
前提でひっかかる
まこっちゃさん、コメントありがとうございます。

おそらく太宰治にとっては、
食事をして栄養をきちんと摂って、切れないように繋いでいく「生」の、
その意味を感じられないことが何よりの苦しみであり不安であったんだと思います。

皆は生が脅かされるようなことに対して不安になり、それを苦しみと言っていますが、
逆に言えばそれは生が脅かされない限り襲ってこない不安や苦しみですよね。
ですが太宰治の場合は生きることそのものが苦しみというか、
皆がそうまでして継続していこうとするその生の意味を感じられないということが
苦しくてしょうがなかったんだと思います。

そこに世間とのギャップを感じたのでしょうね。
周りの人が問題にもしないでスイスイと乗り越えているところで
自分はつまづいている、という・・・。

「めしを食べなければ死ぬ」というのは、
もう既に「生きること」を前提にしていますよね。
ですがその前提の「生きること」がわからないのだと思います。

自分に引き寄せすぎかもしれませんが(笑)、
僕は太宰治をそういう風に理解しています。
周りの人との間にギャップを感じてしまうというのは苦しくて寂しいことですよね。
なるほど
そもそも僕は「死ぬのが怖い」人間なので、
その辺は、僕自身がピンと来ていないかもしれません。

「生きること」がわかるから、「めしを食べなければ死ぬ」ということも理解できるというのではなくて、
「死ぬのが怖い」から、「めしを食べなければ死ぬ」ということも単なる脅しではなく、むしろ切実な問題として痛感せざるを得ない、
という状況です。僕の場合。

ただ、ギャップの苦しみは、よくわかる気がします。
結論は正反対なのに、おもしろいですね。
思い出
 学生の頃に「人間失格」を読みました。一回しか読まなかったけれど強烈にシンクロしてしばらくそのまま僕も同化して落ち込みました。 当時出会った文学好きの先輩がいて、彼とこの本に関して話したとき彼は主人公に怒りを感じると言いました。 僕とは全く別の感情。彼の場合は違和感であり、僕の場合は同化。
そんな思い出がある本です。この本は危険だと思い、手放したか、それ以降は読んでいませんが、強烈に焼きついています。
 太宰治についてはウィキで調べたりなどしましたが、彼は「乖離」している人で、「歪み」を書き残したとも思っています。だから僕も同調したのかもしれないけれど。

社会の闇の闇の底部分が書かれたものが日本の代表文学でもあるってなんだか矛盾もしているようですけれど、人間のリアルという意味では避けられないのでしょうねと僕個人の感想です。

あと感覚として食べないことを続けると自然と食べています。それって「生きたい」ってことと理解しています。食べないことを維持できないのが僕でした。
僕も同化しました
J太郎さん、コメントありがとうございます。

J太郎さんが人間失格を危険だと判断されたのは僕もよくわかります。
僕も同化して落ち込んだクチですから。
「あそこに書かれているのは僕だ」と言いたくなるほど同化しました。
それだけに太宰治の最期が自分の未来とダブって恐ろしくもなりました。

太宰治って読む人によって感想がバラバラになりますね。
昔誰だったかは忘れましたが太宰好きの女性タレントが、
「太宰治はサービス精神旺盛で笑わせてくれる」ということを言っていました。
でも僕の中では、サービス(道化)をするのは生きていくためのいわば処世術で、
ヘラヘラした笑顔の仮面の下ではいつも泣いている、というのが太宰治だと思っています。
そういう意味では乖離ですよね。
怒りを感じたり、同化したり、笑わせてもらったり、本当に人それぞれですよね。


それから、僕自身の「死にたい」という気持ちを分析すると、
それが根底では「生きたい」という気持ちと繋がっていることに気付きます。

空腹は苦痛です。
その苦痛から逃れたい気持ちが「生きたい」という欲求なのだとしたら、
生きることに苦痛を感じてそこから逃れたいと思う気持ちも
同じ「生きたい」という気持ちなんですよね。

だから、必ずしもすべてがそうかはわかりませんが、
「死にたい」と言っている人(僕も含む)は
そういう方法で「生きたい」と言っているんじゃないかなと思います。
「あそこに書かれているのは僕だ」
まさに僕もそうでした、主人公って自分じゃんと。
同じ本を読んでも別の意見を持つ人と出会い、僕は同化しているとそちらの方へ進んでいくような気がして、無理矢理ポジティブにした経緯がその後の思考としてありました(それはその場しのぎであって、それも処世術の一つでしたが)。

太宰治の小説はたぶん何冊か読んで、どれも同じような内容のばかり読んで、どれも同化していました。

彼の「乖離」は幼少期の不可避の出来事があってと推測するその手の専門家がいて、それは遍歴や私小説を見ればと明らかだと説明している人がいました。

僕自身、それを知ったのは本を読んでしばらく経ってからのことなので、読んで感じた「同化」に対して、納得することが出来ました。今だと冷静に対処できるかも。

生と死の欲求の関係をそこまでかめさんが理解されていることはすごいですね。生きたいも死にたいもごく似た感情らしいですね。

僕の場合、長い間「まだ死ねない」という思いが強かったのです。生きたいとか死にたいとかじゃなく。でも「まだ死ねない」っておかしな感覚でもあってもう少しで死ぬという前提でまだだと踏ん張っている感じで

最近やっとですが、「死にたい」ということを処世術で隠していたことが判明してしまいました。

それが僕にとっての乖離でした。

そうなんですよね、空腹は苦痛です。
僕の場合もいくら死にたいと思っていも空腹だけは我慢できずに、冷蔵庫に立ってしまい、夜中でもスーパーに行ってしまう。おかしな話ですよ、死にたいなと思っていても「何食べようかしら」と選びたいんだから。

 余談ですが、以前、食べなくても生きられる人特集がやっていて、思い込みの力なのか、脳内分泌の特質体なのか、腸内にたんぱく質を生成する細菌が多いのかと分析していました。 ネパールの瞑想少年が青年になり、数年食事せずに瞑想してお釈迦様の生まれ変わりだとされていることもユーチューブで見ました。 
 僕は食べないということは無理ですが、学校で習った一日3食、30品目、2,000キロカロリーでバランスのよい食事というのは経験上、嘘だなって感じています。
偏食のほうが体調がいい。
矛盾
「まだ死ねない」という思いですか。
J太郎さんのその思いと似ているのかどうかはわかりませんが、
僕は小さい頃は「神」というのを割と自然に心の中に描いていました。
その姿も声も意志も漠然としていて固定した像はありませんでしたが。
(ちなみに高校生くらいになると漠然としたままではいられなくなって、
結局神がわからなくなってしまいました。)
「死にたい」という気持ちを持つことはその神に背くような気がしたので
思ってはいけないものだとして生きてきました。
僕の中にはそういう意味での「まだ死ねない」という思いがありました。


僕らがここで処世術と言っているのはきっと
精神分析っぽく言うと「自我防衛」ということになるんでしょうね。
自分を保つためにはやむを得ないんですよね。
でないと精神(自分)が崩壊してしまうような気がしますから。


>死にたいなと思っていても「何食べようかしら」と選びたいんだから。

これは僕も似たような経験があります。
あまりこういう発言は書くべきではないかもしれませんが、
僕は、自殺をすると家族が悲しむだろうから
心筋梗塞か脳梗塞などの病気で一瞬で死ねないものかなと妄想をしていながら、
同時に「今日は体調が悪いからあまり無理はしないでおこう」と言って
普通に安静にしていた自分がいます。

しかもそれが矛盾していることなのだとはしばらくの間気が付きませんでした。
気が付いたときには深い自己嫌悪に陥るのですが。

この種の矛盾は他にもたくさん覚えがあります。
言い訳かもしれませんが、
死にたい願望と生活の本能とは別系統のものなので
平然と矛盾が起こるのかなと思ったりしています。


偏食の話ですが、僕もカロリーがどうとかというのは嘘だと思っています。
もちろんそれが科学的に正しいのだと証明できるんでしょうけど、嘘だと思います。
個人的に、カロリーがどうとか栄養素がどうとかといわれるのは
誰かに管理されているようで好きではないです。
ありがとうございます
記事のあるところだけ勝手に掻い摘んで、自分の思いを散漫に書いてしまい、さらに付き合ってもらい、すいませんでした。

>死にたい願望と生活の本能とは別系統のものなので 平然と矛盾が起こるのかなと思ったりしています。

なるほど、そうですよね。本能だけなら死にたいと発生してくることはないのかも。

おこがましいですが、僕が抱えている死にたい体験はかめさんと似ているような気がしました。発生の理由はそれぞれだとは思うけれど。


 ある人の言葉で子供のときの純粋無垢な状態は神そのものであって、そこから成長していくにつれ社会適応を覚えていき、「神」を外部に存在させるようになる。

 僕も神という存在がわからなくなって、考えることを止めてしまいましたが(僕は外部にはいないと結論付けたのですが、釈迦でもイエスでも)、苦しみの状態が続いて抜け道が見いだせそうもないとき「神様助けて」と不意に漏れています。
 その時、自分の根底にある弱さみたいなのを感じてしまいます。


こちらこそありがたく思っています
おこがましいなんてとんでもないですよ。
僕もJ太郎さんには自分と共通するものを感じていたので、
J太郎さんからもそう言っていただけてうれしいです。
更新は遅いですがぜひまたコメント下さい。
僕もJ太郎さんのブログにお邪魔させてもらおうと思っています。


最後におっしゃった「神様助けて」というのは弱さなんでしょうかね。わかりません。
自分以外の外部のもの(神)に頼らなければならないという意味では弱さなんでしょうが・・・。


僕は神がわからなくなって、大学へ入ったくらいから少しは本を読んだりしたんですが、
本の中に答えはなく、僕の出した結論も「神は外部にいない」でした。

そんなことを考えているときに偶然禅の本を読む機会があって、
その中に「外に真理を求めるな」ということが書いてありました。
また、うろ覚えですが臨済宗の開祖の臨済の言葉の中に、
「仏に会ったら仏を殺せ、釈迦に会ったら釈迦を殺せ」という意味の
言葉があったような気がします。

殺人を犯せということではなくて、
自分の外部に何かを求めていては一向に苦しみから解放されない。
外に何も求めなくても既に最初からすべて具わっている。
そのことに気付け。
という意味だと思いますが、
それを読んだときに、「これだ!」と思いました。
ですがしばらくして、
結局僕も「禅」を外部に置いて求めている(すがっている)だけだと
気付いてまた悩んだり・・・。

なんだか面倒くさい話になってしまいました。
またコメントいただけたらうれしく思います。
余計なことかもしれませんが
かめさんとJ太郎さんは、
僕も「似ている」と感じます。
(文字の上でだけですが)物腰というか、受け答えの仕方というか、
もちろん微妙に違いますが、
世の中にいろいろな人がいる中で見れば、とても似ている気がします。

だからどう、というわけではなくて、
第三者からそう見えています、
ということを言いたくなった次第です。

僕も、お二人のように、
もっと自分の中の声(体の欲求や気分)に耳を傾けられるようになれば、
もう少し自然体でいられるようになるのかな、
などと思ったりします。
どうしても、「頭でっかち」から抜け出られないのです。
「えいやっ!」と、体の声の側に自分の人生を委ねてしまうことに、最後の最後で躊躇してしまうんですよね。

心のどこかで「それが僕らしさだ」なんて思ってるところがあるから、余計・・・。
結局、自己弁護ですかね。

すみません。本当に全然関係ないコメントをしてしまいました。
強さ弱さ
 強いか弱いか・・・実は今までの考え方がどんどん変っているのを感じます。強いと思っていたものが実はそうじゃなくて、自分の弱いと思っていたところが、真の強さだったりとか。

自分の弱さと軽率に言ってしまったのは自分に対して不寛容だったと思います。

後で感じたのは自分の「外部に神はいない、自己の内部にいるんだ」という発言には重みがないのです。内部に神を感じるほど信じられていないし、実感もないから。先輩方を見て、そう在りたいという願望であって、僕の実体験ではまだないのです。それが「弱さ」というのもまた表現として違いますよね、確かに。ただ自分には重みや濃さがなく、苦しみに溺れたときには「助けて」と出てしまうことを何度、何年繰り返したか・・・




まこっちゃさん、
物腰、受け答えが似ていると感じられるのですか・・・それは光栄です。

「頭でっかち」と自分で自分のことをあまり感じたことはないですが、僕自身が体の欲求、気分に素直に従えているかというと全然そうでもないです。

僕にはまこっちゃさんの方が自分に対して素直に感じますけれど。それこそ「出来ないことは出来ませんけれど、何か?」という姿勢は強さと芯そのものだと思います。

無理に合わせて受け入れることを当たり前にしてしまえば、自分らしさなんてのは過去のものになっていました。
度々で・・・
すいません、二重に。

また軽率に「強さ」とか人の気も知らないで使ってしまいました。

僕は自分の定義がないうちは「強弱」とか言葉を書くべきじゃないのかな・・・
僕もそうなんですよ
J太郎さん、まこっちゃさんコメントありがとうございます。

不思議なものですね。
僕は以前にまこっちゃさんとJ太郎が会話されているのを読んで、
このお二人は深い話ができていいなと思いました。
その点僕は自己完結的に書くし、感情なども生のものではなくて
どうしても事後報告っぽく書いてしまうな・・・、と。
ですからまこっちゃさんが以前に「行動する言葉・動的な言葉」ということを
おっしゃっていたときにはすごく共感しました。

相手の隙に入り込むか、こちらが隙を作って相手に入ってもらうかすると、
その人と深い結びつきができるのに、
僕は自分が隙を見せてしまうことをひどく恐れていて、
ついつい(内容が)完結した文章を書いてしまいます。

まこっちゃさんの「頭でっかち」とはまた違うかもしれませんが、簡単な例で言うと、
「あれってなんだっけ?」と相手に発せばそこから会話が始まるんですが、
僕は「誰かに聞くのは怠慢だし、相手にも悪いな」と思って、
結局自分で調べるか、そのまま放っておくか、のどちらかです。
ですから相手と深い関係が始まりません。


それから、J太郎さんが発言に重みがないとおっしゃってますが、
それもやっぱり、僕もそうなんですよね。
「そう在りたいという願望」をさも自分がそうであるかのように書いてしまいます。
でもそれは決して一時的に優越感に浸りたいからというだけではなくて、
願望あってこそのものだと思います。
自己弁護ですが(笑)

推測なので失礼かもしれませんが、
まこっちゃさんもそういう願望や決意をブログで書いて、
読者にそれが現在のまこっちゃさんの到達した境地だとみなされて
戸惑ってらっしゃることがあるのではないかと思います。
僕もついついそういうコメントを寄せてしまっているような気がします。


僕もコメントをしてからよく軽率だったかなと後悔することがあります。
相手の機嫌を本当に悪くしたり、全くしなかったり色々なんでしょうが、
ちょっと過敏になってしまうんですよね・・・。
すみません
僕の表現がわかりづらかったせいですが、
前回のコメントでは、
「かめさんとJ太郎さん」が似ている、と僕も感じます、
と言いたかったんです。

たぶんですが、
かめさんやJ太郎さんよりも、僕のほうが、「頭でっかち」だと自分では思ってます(笑)。
J太郎さんのほうが、感情が爆発してしまう時があるし(それを外面上は伏せていて、ブログで吐き出されているのだとは思いますが)、
かめさんのほうが、あまり意味もなく延々と追及することはせずに「ここらが潮時かな」といった感じでバランス良く完結していらっしゃる気がします。

お二人とも、(ある意味で)ご自分の体の中からの声を信用されている、
と感じました。
僕は、自分をとことん疑いますからね。歯止めが利きません。
でも、これって果てがないんです。
ある意味、中途半端に結論を出さないおかげで、他人に危害を加えることも自死することもないので、
無害と言えば無害なんですけどね。

僕の場合、「もういいや!」ってなった時が、逆に危ないのかもしれません。
・・・なんて思うもんだから、余計、自分が信用できなくなる、
っていう部分もあったりします。

「こういう人間ですが、何か?」
という部分は、確かにあります(笑)。
もう、どうしようもないので。
情けない奴だと思われてもしょうがない、というか、
自分が一番そう思ってますから。
まあ、でも、それも一種の逃げなのかもしれませんけどね。



ちょっと話は変わりますけど、
もともとJ太郎さんには僕のほうから声をかけましたが、
かめさんの場合は、かめさんから声をかけて頂いたんですよね。
縁の不思議を感じます。
頭でっかち
まこっちゃさんへ

「頭でっかち」と言うと、
「体験を抜きにした」とか「観念論」というイメージがありますが、
おそらくまこっちゃさんの「頭でっかち」というのは
必ずしもそういうものだけではないような気がします。

中途半端には結論を出せないというのは、
きっとそれを許さない内側の要求があるからじゃないでしょうか。
といっても主体的にその要求を採用しているというよりも、
否応無く従わせられているという感じなのかもしれませんが。
ともかく僕自身はそんな感じです。

それはやっぱり単なる「頭でっかち」というより、
ある種の体験とか実感を元にしたものではないでしょうか。

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