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よだかの光

昨日の記事を書いていて宮沢賢治の『よだかの星』を思い出した。

『ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、
 毎晩僕に殺される。
 そしてそのただ一つの僕が今度は鷹に殺される。
 それがこんなにつらいのだ。
 ああ、つらい、つらい。
 僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。
 いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。
 いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向こうに行ってしまおう。』

それから太陽に向かって飛ぶよだか。

『お日さん、お日さん。
 どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。
 灼けて死んでもかまいません。
 私のようなみにくいからだでも
 灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。
 どうか私を連れてって下さい。』

太陽にも東西南北の星にも断られ、それでも最後の力を振り絞って飛ぶよだか。
そして訪れたよだかの最後。

『それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。
 そして自分のからだがいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、
 しずかに燃えているのを見ました。』


本当に冷たい見方をすれば、「よだかは自殺をした」と言うこともできる。
でもこれは、「よだかは星になった」でいいと思う。

昨日も書いたように、命は燃やすものだ。
ゲームのように、ゲージがゼロになったときに死ぬのでもなく、
ライフポイントを全てなくしたときに死ぬのでもない。
命は死ぬそのときまで擦り減っていくものではなくて、
死へと向かって燃え続けていくものだ。

機能不全に陥るまで使い古していくのではなくて、
こちらから向かっていくものだ。

定期的なメンテナンスをしてやっと保つ面倒な中古機械とは違う。
命が燃えるその一瞬一瞬には手持ち花火のような閃光が放たれる。

強烈で派手な光を放出する人もいれば
線香花火のように静かに、それでも力強く弾けて光を飛ばす人もいる。
その飛び散る火花のたった一つに、
一瞬の閃きの中に、
人生の全てが収められているような気がする。

たとえどんなに醜くても、
どんなに罪作りな存在でも、
どんなにはかない命でも、
命が燃えるときには、必ず光を放つ。
例外なく。
よだかのように。

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人生観 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/11/02 21:29
コメント
おっしゃる通りですね
確かに、その通りです。

でも、いざ現実に直面している問題や、日々の生活場面に戻ると、
そのことを棚に上げて、自分の目先の利害ばかり考えてしまいます。
そうしなければ生きていけないからですけどね。

一般論として(しかし根本的で重要なこととして)、かめさんと、こうして話しているわけですが、
実際、何らかの形でかめさんとの間に現実的な利害関係が発生したら、
このように話し合うことすらままならなくなってしまうんだろうな、
などと思いました。

でも、もし仮に実際にそうなってしまったとしても、
お互い、死に向かって、それぞれの在り方で燃えていっているわけですし、
それで良いのでしょうね。
・・・なんてことも、「その場」になったら思えなくなってしまうのでしょうが。

そういう意味では、人間っていうのは損な生き物ですね。
他の生物に比べて、余計な対立が多すぎる気がします。
さらに大きく見れば、その対立があるおかげで辛うじて地球全体の生態系のバランスが(一応これでも)保たれているのかもしれませんけどね。
色んな関係
まこっちゃさん、コメントありがとうございます。

そうですね。
僕とまこっちゃさんとの間に実際的な利害関係があったら、
こんなことは言ってられないのかもしれないですね。
そういう意味ではありがたい関係ですね。

まこっちゃさんはともかく、僕は話が合わないなと感じた人とは
あえてこちらからは話そうとはしないようなタイプの人間なので、
なおさらありがたい関係ですね。


世の中には色んな人がいて、色んな関係のあり方があるんですね。
今、気づきましたが
記事とは全然関係ないコメントでしたね。
すみませんでした。

書かれていることは、
「確かにその通りだ」と感じました。

かめさんは、なんていうか、
この世界を"感じて"いらっしゃいますよね。
僕が、世界を疑問に思って捉えていることを、以前ほめて頂いたような気がしますが、
僕から見れば、かめさんの世界との向き合い方は、とても人間らしく、質的な感じがします。

・・・って、このコメントも、
直接は関係ない内容ですが。すみません。
考えると感じる
いえいえ、どんなコメントでもありがたいです。

世界を"感じて"いる、ですか・・・。
意味が合ってるかはわかりませんが、
僕は確かに"考える"よりも"感じる"を重要視しています。

以前、まこっちゃさんは「自己否定している自分をも否定できる」とおっしゃいましたが、
僕もそう考えています。
そうすると僕には指針が何もなくなってしまいました。
で、指針としたのが己の内から出てくるある種の「直感」です。

おそらく僕もまこっちゃさんも「疑いうるものは信じない(保留にする)」という
スタンスでは一致しているんですが、
僕がそこから直感に頼っているというところで違いが出ているのかもしれませんね。
直感と言っても第六感ではなくて、
考える続けることによってたまに得られるひらめきのようなもののことですが。

もしかしたらその直感でさえも疑いうるとおっしゃるかもしれませんが、
全くその通りなんですが、
これを譲っては僕という人間の秩序を保つ最後の砦を明け渡すことになるので、
それは恐ろしくてできないです。

ただ、論理の積み重ねをしていても、いつもそれに対抗する論理が出てくるので
いつまでたっても安心できませんが、
直感が突如出現してくる、その内的な必然性には賭ける価値はある、とは思っています。
神秘的というよりかは心理学的なこととして考えています。
うまく説明できませんが。

それから、こんなところで書いてJ太郎さんに申し訳ないですが、
J太郎さんのブログでのコメントで僕が書いた「自分で生きるしかない」というのは、
ジェットコースターに乗っているときの恐怖は自分で引き受けるしかない、という程度の意味で、
やっぱり周りの人に励ましてもらいたいですし、愚痴も言いたくなります。
ですから、まこっちゃさんがいつもコメントを下さってコミュニケーションをとって下さるのは
本当にありがたいことです。

あと、僕もよくかつての自分に言いたいことや
割り切るために自分に言い聞かせるようなことを書きます。
ですがそうするとそれを読んでいる人は、
僕が自分をよくコントロールできている人間に見えたりするんですよね。
本当はコントロールするために書いているものなのに。
このあたりは言葉の不思議といったところですよね。


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