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南直哉さん

書店でなにげなく手に取った本。
南直哉さんの『賭ける仏教』。

中身は読んでいないが
帯に書かれている文章が目にとまったので。

『生そのものが苦であるならば、死んでしまってもよいではないか。
 なぜ死んではいけないのか。
 人はみな何となく生きて、苦しんで死ぬ。
 それでいいのか。
 いや、死をあまり意識しない人は、それでいいかもしれない。
 しかし私のような人間はなぜ生きるのかと問わずにいられない。
 そのとき、私の生きる支えになってくれそうな仏教が
 何を言っているかわからないのでは困る。』


「それでいいのか」
その言葉が重く響く。
相変わらずこの人の言葉は他人事とは思えない。

「人はみな何となく生きて、苦しんで死ぬ、それでいいのか」
案外とこのあたりの感覚、
こう問わしめる感覚のことは何回説明しても、
誰もわかってくれない。
わかってくれそうなものなのに、
なぜかわかってもらない。
聞いている人もわかってくれているつもりであるかもしれないけど、
やっぱりわかってくれてはいない。

そこにはやっぱり寂しさを感じるときもある。
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つぶやき | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/12/08 20:40
コメント
寂しいですね
でも、寂しい反面、
目の前の出来事の束が、重箱の片隅の極めて限定的なことでしかなく感じられ、
「あまりそのことだけで考えてもしょうがない」
という気持ちになれることも事実です。

かといって、自分の言動がめちゃくちゃになってしまったら、
目の前の生すらままならなくなってしまうので、
それはそれでキツイ状態になるわけですけどね。

つまらない目先のマナーとか、
優先順位とか常識とか、
そういうものを度外視して根本的な意識に立ち返れる、という意味では、
寂しくもなりますが「戻ってこれた」とホッとしている自分もいます。

それに、この通り、誰にも通じないわけではありませんから。
戻る場所
僕はずっと「人生の一番大切な場所」に立ち返ることを目指してます。

自分なりに「ここだ」と思うポイントに「戻ってこれた」と思うこともあるんですが、
日常を生きるとまたすぐその意識も他所へそれてしまいます。

でもその大切な「ポイント」ってそんな日常生活とは切り離されたものなんでしょうかね。

僕はそういうものではないと思うのですが、
それがどういうものなのかは
今の僕にはまだその答えが出せないので
考え続けてます。

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