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おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし

正月に親戚にあった。
ある親戚が親子関係で上手くいっていないそうだ。
父(もうすぐ80になる)と息子(50代)との不仲ほど悲しいものはない。

互いに反目したくてし合っているわけではないんだ。
決して憎み合っているわけではないんだ。
強がってはいても。

お互いが思い合っているのにこんなことになってしまっているのだから
本当に人の世というのは難しいし、悲しい。

理由なんて、「世代が違うことによる価値観の違い」
と言ってしまえばそれまでなのに
それがこんなにこじれずにはいられないのだから
本当に親子関係というのは難しい。

一度真剣にぶつかることが互いの成長にとって必要なことなのだったとしても
その衝突で飛び散る火花を見て、
痛みをこらえるひきつった二人の顔を見て、
何とも思わないでいることができるだろうか。


『慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
 聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
 しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、
 きはめてありがたし。』

最近、『歎異抄』の中のこのフレーズが頭の中でいつも繰り返されている。
訳を書くのは遠慮させてもらうが。

どんなに悲しくても哀れでも、助けようとしても、
すべて思う通りに自由自在に助けてあげることなんて人間にはできない。
ましてや何が一番良いことなのかすらわからない。
(一応補足しておくが、無駄だから止めようという趣旨ではない)

心を痛めるというのはマイナスの作用だ。
「痛める」のだから。
でもそれは欠損じゃない。
慈悲心は欠損を補うために出てくるものではない。
僕らはすぐに欠損は補わなければならないと考えるが、
慈悲心は欠損の埋め合わせ作用なのではない。

悟りを開いても心を痛めるものだ。嘆くものだ。悲しむものだ。
そういう負の感情がなくなるのが悟りなのではない。
心が動かないのが悟りなのだとしたら、それのどこに楽しみがある。

仏というのは慈悲のかたまりなのだろう。
いるいないに関わらず。
それなら仏は嘆きのかたまりだ。

どうしようもない自分に落胆し失望し、
恥じて泣き入るそのすぐ横で
ともに涙を流して下さるのが仏様というものではないか。

上から評価するのではなく。罰するのではなく。
「この自分」と同じ涙を流して下さるのが仏様ではないか。

3つ前の記事で紹介した詩の中の
「泣こう」「祈ろう」という心がわかる気がする。

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自力 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/01/04 16:51
コメント
No title
ま、何とかなっていくんでしょうね

(●^o^●)
No title
直弘さん、ありがとうございます。

そうなることを祈っています。

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