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大学時代をふり返って その2

今回も大学時代を振り返る。

僕が打ち込むものが何もないと人に言うと
よく、早く見つかるといいのにね、ということを言われる。
でも、僕が苦しいのは「まだ見つけていないから」ではなく、
「どこにもないのがわかっている(と思っている)から」だ。

けれども、何回説明してもいまいち伝わらないから
あまり説明もしなくなった。

探したところで見つからない。
だから探すのを止めた。
そうすることで「真実」が見えると思った。

僕の中では喜びや楽しみや幸福感というものは、
悲しみや苦しみや不幸と本質的に同じもので、
同じものなのに片方だけ得られたときに安心するのには納得できなかった。

仏教(禅)に出会ったのは確か3回生の終わり頃だ。
禅ははっきりと「埋め合わせるものはどこにもない」と言い切った。
また「普通皆が埋め合わせに使っているものは幻だ」とも言った。

これがちょうど
このモヤモヤを抱えて生きるしかないと思っていた僕の心にマッチした。

禅は徹底的に「不確かなもの」を打ち壊そうとする。
「真実」しか見ることを許さない
(それでいて真実はどこにもないとひねくれたことを言う)。

今でこそ僕はブログでも仏教のことについて頻繁に書くが、
それまでの僕は、仏教好きの人を見ると
「よくそんなカビ臭いものをやるな」と思っていたほどだから、
それだけに出会ったときはインパクトが大きかった。

当然予想されるように、
何にも熱中できない僕が禅という自分を認めてくれる格好のターゲットを
見つけて熱に浮かされていたのは事実で、やはり次第に冷めていった。

それでも、「己自身を見つめよ」とそれしか言わない禅が
「付かず離れず」の位置で今も僕の大きな支えにはなってくれている。

僕が本当に禅の悟りを得ようとするならこんな態度ではとても駄目で
師と呼ぶ人を持たないと駄目なのだろうが、
にも関わらず、「師匠―弟子」の「信仰関係」に
思い切って身を投ずることもできない歯がゆさはあるが・・・。

仏教に関しては、この後唯識や浄土教などに惹かれていったが、
それは大学時代の話ではないので
また機会があればそのときに書いてみたいと思う。

それから、やはり臨床心理という特殊な世界を
かじった程度でも知ることができたのは大きい。

それは世間と脱世間の間にある。
そこで展開されていることは(特に精神分析の流れを汲むものなどは)、
極めて非常識的、非世間的で、場合によっては非倫理的ですらある。
それにも関わらず、それが学問領域として、医療機関として
社会から一応承認されているという特殊な世界。

世間には「常識」しか通用しない。
しかし、人間は生きていく中で「常識」から外れざるを得ないときもある。
これらの時期にある人のことを「世間」は認めないが、
「臨床心理」は受け入れる。
(そしてそれは世間の中に存在している。
 人里はなれた山奥の寺ではない。)

そういうものがあるということを知ることができたのは大きい。
それがなければきっと
「非常識な」自分自身をもっと持てあましていたと思う。


大学時代のふり返りはこの辺で。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/01/11 21:34
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